キャット・スティーブンス(元人気歌手・イギリス) (パート1 / 2)
説明: 70年代の最も有名なミュージシャンの一人による真実への探求 パート1:ミュージシャンとしての人生
- より キャット・スティーブンス
- 掲載日時 05 Dec 2009
- 編集日時 05 Dec 2009
- プリント数: 407
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- 評価者: 9
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私が言うべき全てのことはもう皆さんもご存じのように、神によって下された預言者のメッセージ−真実の宗教を確認することです。人間として、私たちは被造物の長としての意識と義務を与えられました。全ての幻想を捨て、次の人生への準備をするという義務を認識することは大変重要なことです。この機会を逃せば次の機会もないでしょう。聖クルアーンの中では、人が死後清算の場に召集された時、“神よ、どうぞ私たちを現世に送り返し、もう一度機会をお与え下さい”と言う場面があります。そして神は、“もしあなたを送り返したら、また同じことを繰り返すでしょう”と仰られているのです。
私の初期宗教教育
私はショービジネスの高級で贅沢な流行世界の中で育ちました。私はキリスト教の家庭に生まれましたが、全ての子供は正しい天性のもとに生を受けるにも関わらず、その両親が彼らを彼らの宗教によって捻じ曲げてしまうのです。私はこの宗教、つまりキリスト教を与えられ、この道が正しいのだと思いました。神は存在すると教えられましたが、神との直接の接触はなかったので、イエスを通して接触しなければなりませんでした。イエスは実際神への扉でした。キリスト教は多かれ少なかれ受け入れましたが、全てを受け入れることは出来ませんでした。
私はイエスの像をいくつか見ました;それらはただの石で命はありませんでした。そして彼らが神は三位であると言う時には私は混乱しましたが、そのことについて討論することは出来ませんでした。私は両親の信仰に対して敬意の念を払わなければならず、何となくではあってもそれを信じました。
人気歌手
次第に私はこの宗教から離れていきました。私は音楽を作るようになりました。私は有名なスターになりたかったのです。映画やメディアで見る全てが私をとりこにし、そしてお金を稼ぐという目標を自分の神だと思ってしまったのでしょう。。私にはかっこいい車を持つ叔父がいました。“彼は成功者だ。お金を沢山持っているんだから。”私の周りの人々は私を、このように思わせるようになりました;。この世界こそが彼らの神であると。
そして私はこの人生が自分のためのものであると決めました。沢山お金を稼ぎ、良い暮らしをするのだと。今や私の目標はスターです。私は歌を作り始めましたが、心の奥底では人間性への思いがあり、もしお金持ちになったら恵まれない人を助けたいという望みがありました。(ちなみにクルアーンでは私たちは何か約束してそれが叶ったとしても、いざそれを手にすると貪欲になるものだと書かれています)
そしてどうなったかというと、私は大変有名になったのです。10代にして、私の名前や写真はメディアの至るところで見受けられました。それらは私を原寸大の実生活より大きくしましたが、それゆえに私はより大きく生きたくなりました。そうするための唯一の手段は(酒や薬物で)酔うことだったのです。
病院で
何年かの金銭的な成功と贅沢な暮らしの後、私は結核にかかり、入院しなければならなくなりました。その時私は考え始めたのです。何が起こったのだろう?私はただの肉体で、人生の目標はただこの肉体を満足させるだけなのか?私はこの苦難が、目を覚ますために神から与えられたチャンスであると気づきました−なぜ私はここにいるのか?なぜベッドの上なのか?そして、その答えを探し始めました。その頃私は、、東方の神秘主義に大変興味がありました。私は本を読み始め、まずしについて意識し始め、そして死後も魂は生き続けるのだと考えるようになりました。私は、私が天国への道と高い達成感へと歩み出したのを感じました。私は瞑想し始め、菜食主義者にまでなりました。私は“平和と花の力”を信じていましたが、それは当時の大きな流行でした。しかし私が信じていた何かは、単に肉体のことだけではありませんでした。私は病院にいる時、このことに気づいたのです。
ある日歩いている時、雨に降られました。私は雨宿りをするために走り始め、気が付きました。“待てよ。私の体は濡れている、私の体が私に濡れていると言っているのだ。”このことは私に、体はロバのようなものであり、どこへ行かなければならないか訓練されていなければならないのだ、いう諺について考えさせました。そうでなければ、ロバはどこでも好きな所へあなたを連れて行ってしまうでしょう。
そして私は神からの授かりものである意思、神のご意思に従うという意志があることに気付きました。私は自分が学んでいた東洋の宗教の新しい述語を学ぶことに大変魅力を感じていました。その頃までには私はキリスト教には飽き飽きしていました。私はまた音楽を作り始め、今回はそこに自分の思いを投影し始めました。私は自分の歌のある歌詞を今も覚えています。それはこんなものでした:“知っていればなぁ、何が天国を作り、何が地獄を作ったのかを。他の人たちが大きなホテルに到達している時、私はベッドや埃っぽい部屋であなたのことを知るのですか?”こうして私は、自分が道の上にいることを知ったのです。
私はまた“神を見つける方法”という別の曲も書きました。私は音楽界で更に有名になりました。私はお金持ちになりましたが、有名になると同時に真摯に真実を探していたので大変難しい時でした。そして私は仏教は素晴らしいものでかつ高貴なものであるという段階に来ていましたが、まだこの世界を去る準備は出来ていませんでした。私は世俗と余りに密になり過ぎていたので、僧となって社会から自分を孤立させる用意が出来ていなかったのです。
私は禅や経、数秘術、タロットカードや占星術などを試しました。また聖書に立ち返ってもみましたが、何も見つけられませんでした。その頃、私はイスラームについては何も知りませんでしたが、私が奇跡と見なすある事件が起きたのでした。ある時私の兄弟がエルサレムのモスクを訪問したのですが、それはその生命感で彼に大きな感慨を抱かせた一方、(空の教会やシナゴークの空虚さとは違って)平穏な雰囲気と静けさで満たされていたのでした。
キャット・スティーブンス(元人気歌手・イギリス)(パート2 / 2)
説明: 70年代の最も有名なミュージシャンの一人による真実への探求パート2:クルアーンとイスラームの受容。
- より キャット・スティーブン?
- 掲載日時 05 Dec 2009
- 編集日時 05 Dec 2009
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クルアーン
彼はロンドンへ戻った時、クルアーンの翻訳を持ち帰ってきて、それを私にくれました。彼はムスリムにこそなりませんでしたが、この宗教に何かを感じていて、それで私もそこに何かを感じるのではないかと思ったのでした。
そして本を受取った時、導きが全て−私は誰なのか?人生の目的は何なのか?何が真実で、真実となるのか?私はどこから来たのか?−を説明しました。私はこれが真の宗教であると認識しました。西洋の感覚で理解される宗教ではなく、老人だけのものでもない宗教。西洋では誰でも、何らかの宗教に改宗しそれを自分の生き方にしたいとする者は狂信的だと考えられます。しかし私は狂信的ではありませんでした。私は以前、肉体と魂との間で混乱していました。しかし今や私は肉体と精神はかけ離れたものではなく、宗教的になるために山へ行かなくてもいいのだということに気づいたのです。私たちは神のご意思に従わなければなりません。そうすれば天使よりも高い位階に達することが出来るのです。まず私はムスリムになりたいと思いました。私は全てが神に属し、かれは休止もしないことに気付きました。かれは全てを創造されたのです。以前私は、自分がここに存在している理由は自分自身の偉大さゆえであるという考えていましたが、この時自分の中にあるプライドを失い始めました。私は私が自分自身を創造したのでもなく、私がここにいる全ての目的はイスラームとして知られている宗教によって完全化された教えに従うことであると気づいたのです。この時、私は自分の信仰を発見し始めました。私は自分がムスリムであると感じました。またクルアーンを読んでみて、全ての預言者が同じメッセージを携えて神により遣わされたことを知りました。またなぜ、ユダヤ教徒とキリスト教徒は違うのか?私はどうしてユダヤ教徒がイエスを救世主として受け入れず、彼の言葉を変えてしまったのか分かりました。キリスト教でさえ、神の言葉を誤解し、イエスを神の息子であると言ったのです。全ては理屈に適いました。これがクルアーンの美しさです;それはあなたが熟慮や思考を促し、月や太陽ではなく、それら全てを創造されたお方を信仰するように命じています。一般にクルアーンは、人に太陽と月と神の創造物を熟考するよう命じています。月と太陽がどのくらい違うかお気付きですか?それらは地球からそれぞれ異なった距離に位置していますが、しかしいつも同じ位の大きさで見えるのです;そしてある時は一方が他方を覆うように見えることもあります。
多くの宇宙飛行士が宇宙へ行った時でさえ、彼らは宇宙の膨大な広さにおけるちっぽけな地球を見るのです。そして彼らは神のしるしを見た後に、大変宗教的になるのです。
クルアーンを更に読むと、礼拝や親切、施しについて述べられていました。私はまだムスリムではありませんでしたが、クルアーンが私のたった一つの答えであると感じ、神がこれを送って下さったのだとしてそれを秘密にしていました。しかし、クルアーンはまた違った段階のことを述べています。私はクルアーンの“信じる者は不信心を友に持たず、信者同士は兄弟である”というくだりで、違う段階としてのクルアーンを理解し始めました。そしてこの時、ムスリム同胞に会いたいと思うようになったのです。
改宗
そして私は(私の兄弟がそうしたように)エルサレムへの旅を決めました。エルサレムで私はモスクに行き、その中に座りました。するとある男性が私に、何がしたいのかと尋ねてきました。私は彼に、自分はムスリムであると言いました。彼は私の名前を尋ねました。私は彼に“スティーブンスだ”と言いました。彼は混乱しました。それから私は礼拝に参加しましたが、余り上手く出来ませんでした。それから私はロンドンに戻り、ナフィーサという姉妹に出会いました。イスラームに改宗したいという旨を伝えると、彼女は私をニューレジェンド・モスクへ案内してくれました。これは私がクルアーンを受け取って1年半後の、1997年のことでした。この時私は、自分のプライドを捨て、サタンを捨て、一つの方向へ行かなければならないと認識しました。そしてある金曜日の合同礼拝の後、私はイマーム(礼拝のリーダー)の元へゆき、彼のもとで信仰告白(シャハーダ)をしました。私は以前名声と富を築きはしましたが、いかに努力してもクルアーンを見せられるまでは導きを手にすることは出来ませんでした。今私はキリスト教や他の宗教と違い、神と直接接触できます。あるヒンズー教徒の女性は“あなたはヒンズー教を理解していません。私たちは唯一神を信じていますが、ただ偶像をそこにおいて集中するために使っているだけなのです。”つまり彼女が言うことには、神に近付くためには何かその共同者を設けなければならず、偶像の目的は実にそのためだったというのです。しかしイスラームはこれら全ての障壁を取り除いてくれます。不信心者を信仰者のしてくれるものは、サラー(礼拝)しかありません。これこそが浄化の過程なのです。
最後に、私が行う全てのことが神のご満悦のためとなり、読者の皆様方が私の経験から何らかのひらめきを感じて頂けることを祈ります。また私は、私がイスラームに改宗するまでムスリムと接触がなかったということを強調したいと思います。私はクルアーンを読み、完全な人間などいないことに気付きました。しかしイスラームこそは完全で、預言者の行いを踏襲することによって私たちは成功するのです。
神がムハンマドの共同体への道に私たちを導いて下さいますように。アーミーン!
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