イラン人カトリック司祭、デイヴィッド・ベンジャミン・ケルダーニ師
説明: ユニエート・カルデア宗派のローマ・カトリック教会司祭がイスラームへ改宗した話。
- より IPCI
- 掲載日時 07 Jun 2010
- 編集日時 07 Jun 2010
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いかにイスラームへ改宗したのかと問われ、彼はこう答えました:
“私のイスラームへの改宗の原因は、全能者アッラーによる慈悲深きお導き以外のいかなるものでもない。この神的導きを抜きにしては、真理を求めるあらゆる学習、探求などの努力をしても道に迷ってしまうだろう。私が神の完全なる唯一性を信じるようになったその瞬間から、かれの聖なる使徒ムハンマドは私の品行と振る舞いにおける模範となったのである。”
アブドル=アハド・ダーウードは、神学士デイヴィッド・ベンジャミン・ケルダーニ師として、ユニエート・カルデア派ローマ・カトリック教会の司祭を務めていました。彼は1867年、ペルシャのオルーミーイェに生まれ、幼少時代にその町で教育を受けました。彼はオルーミーイェで1886年からの3年間、カンタベリー大司教によるアッシリア東方教会(ネストリウス派)への使節団で教職員として働きました。そして1892年、ヴォーン枢機卿によりローマへ派遣されると、プロパガンダ・フィデ神学校(Propaganda Fide College)で哲学と神学の学位を取得し、1895年には司祭として任命されました。その間、彼はカトリック週刊誌The Tabletへ“ Assyria, Rome and Canterbury (アッシリア、ローマ、そしてカンタベリー)”という一連の論説を、またIrish Recordにも“ Authenticity of the Pentateuch (モーセ五書の信頼性)” を寄稿しました。彼はアヴェ・マリアを複数の言語に翻訳し、それはIllustrated Chatholic Missions誌により出版されました。また1895年には、ペルシャへの旅路に立ち寄ったコンスタンチノープルにおいて、The Levant Herald紙へ“東方諸教会”について英語とフランス語による長期の連続寄稿をしています。1895年、彼はオルーミーイェでフランス・ラザリスト・ミッションに参加し、そのミッションでは史上初となるQala-La Shárá (真理の声)と呼ばれる口語シリア語の定期刊行物を発行しました。また1897年には、オルーミーイェ、そしてサルマスのユニエート・カルデア派の二人の大司教から、東方カトリック教会の代表として、ペロー枢機卿主催によるフランスのパライユ=ル=モニアルで開かれた聖体大会へ派遣されました。もちろん、これは公式な招待によるものです。“神父ベンジャミン”によって朗読された論文は聖体大会の年報で出版され、その年度の“Le Pelirin”と呼ばれました。この論文でカルデア派大司教(これが彼の公式な称号でした)はネストリウス派におけるカトリックの教育システムを嘆き、オルーミーイェに現れるであろうロシア人司祭の出現を予告しました。
1898年、神父ベンジャミンは再びペルシャに戻って来ました。彼は生まれ故郷のディガラの村に無料の学校を開校しました。そしてその翌年、長い間に渡るユニエート大司教フダバシとラザリスト神父との間の軋轢により分離の危機が生じていたサルマス監督管区の管理者として、教会権威により派遣されます。そして1900年の元旦、神父ベンジャミンは、サルマスの聖ジョージ大聖堂の大会合の前で記憶に残る最後の説教をしました。そこには多くの非カトリック・アメリカ人などが来ていました。彼の題材は“新世紀と新しい人類”でした。彼はネストリウス派宣教団が、イスラーム出現の前に福音を全アジアに伝道した逸話を回想しました。彼によると、彼らはインド(特にマラバー海岸)やタタール、中国やモンゴルに数々の事業を有しており、また福音をトルコ語、ウイグル語、その他の言語に翻訳していました。そしてカトリックや、アメリカ人、そして英国国教会からの伝道団と言えば、アッシリア・カルデア派国家の前期教育において僅かな好影響を残しただけで、ペルシャ、クルディスタン、そしてメソポタミアの中を敵対する諸宗派に分裂させたこと、また彼らの努力は最終的に凋落を迎える運命にあるという事実を述べました。彼は地元の人々に対し、諸外国の使節団に依存せず自らの両脚で立ち上がることが出来るよう努力することにおいて、少々の犠牲を払うよう忠告しました。
アメリカ、英国国教会、フランス、ドイツ、そしてロシアによる五つの大規模で虚飾的な宣教団は、彼らの大学やメディア、そして裕福な宗教組織や領事、大使らの支援により、10万人規模のアッシリア・カルデア派を異端派であるネストリアンから彼ら自身の異端宗派へと改宗させようと試みました。そしてロシアの宣教団が他を凌駕し、1915年にペルシャのアッシリア人と、当時サルマスとオルーミーイェの平地にそれぞれの政府との武力闘争のために移住していたクルディスタンの山岳部族を追放しました。その結果、彼の人々の半数は闘争によって死に絶え、生き残った人々は故郷から駆逐されたのです。
長きに渡り司祭の頭の中にあった大きな疑問は、その最高潮を迎えようとしていました。「多岐に分裂し、信頼性の薄く、偽造され、腐敗した啓典を持つキリスト教は、神による真実の宗教なのであろうか?」1900年の夏、彼はディガラの有名な噴水に隣接するブドウ園の中にある小さな邸宅に隠居し、一ヶ月に渡る礼拝と瞑想に耽り、聖書の原典を何度も何度も読み返しました。そしてこの重大局面は、オルーミーイェのユニエート大司教への公式な辞任状提出をもって終焉を迎えることになります。彼はモンシニョール・トウマ・アウドゥへ、聖職放棄の理由を率直に伝えました。教会権威による辞任撤回の全ての試みは失敗に終りました。神父ベンジャミンと彼の上位者との間に個人的な口論や衝突はありませんでした。それは全て、良心に関わる問題であると捉えられたからです。
ダーウード氏と呼ばれるようになった彼は、数ヶ月に渡りタブリーズのベルギー人専門家たちのもとで、ペルシャ関税庁の検査官として働きました。その後ムハンマド・アリー・ミルザ皇太子への奉仕として翻訳職・教職に就きました。1903年、彼は再び英国を訪れ、ユニテリアン派コミュニティーに参加し、1904年には、英国・海外ユニテリアン協会によって自国民に対しての教育・啓発役として派遣されました。ペルシャへの旅路、彼はコンスタンチノープルを訪れ、シャイフル=イスラーム・ジャマールッディーン・エフェンディーとその他のウラマーたちとの複数の面談の末、イスラームを受け入れたのです。
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