ジェラルド・F・ダークス、統一メソジスト教会、米国(パート1/4)
説明: “The Cross and the Crescent(十字架と三日月)”の著者であり学者でもあるダークスの生い立ち、そしてハーバード「ホリス」神学校での勉学によってキリスト教から目を覚ました彼の逸話。パート1。
- より ジェラルド・F・ダークス
- 掲載日時 28 Mar 2011
- 編集日時 28 Mar 2011
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私にとって最も古い記憶の一つに、生まれ育った小さな郊外の町にあった教会で耳にした、日曜朝の礼拝の鐘の音があります。メソジスト教会は鐘塔のある木造の古い建物で、子供たちの日曜学校が2クラス、そしてクラスと聖壇とを隔てる木製の扉、また中二階の聖歌隊席では年長の子供たちのための日曜学校が開かれていました。ここは私の家から2ブロック程度しか離れていませんでした。鐘が鳴ると、私たちは家族でここを訪れ、教会への“巡礼”を毎週行なっていました。
1950年代当時、3つの教会は人口約500人の町における地域社会の中心でした。私の家族が所属していたメソジスト教会は、手作りアイスクリームを配ったアイスクリーム懇親会、チキン・ポットパイの夕食会、ローストコーンなどを提供する集まりを開いたものでした。私と家族はそれら3つに常に関わっていましたが、それぞれ年に一度しか行なわれませんでした。それに加え、毎年6月には2週間の聖書学校があり、私はそこに初等教育の8年間ずっと出席し続けました。日曜朝の礼拝と日曜学校は週に一度だけだったため、私は皆勤のブローチ、そしてバイブルの節の暗記賞をより多く獲得して自分のコレクションを増やすことに努力しました。
私が中等学校に進む頃になると、地元のメソジスト教会が閉鎖されてしまったため、私たちは隣町のメソジスト教会に通うようになりました。そこは私たちの住んでいた町よりも、規模が僅かに大きい程度でした。そこで私は将来聖職者になろうという目標を持ち始めました。私はメソジスト青年親睦会での活動を開始し、やがて地域の役員として奉仕しました。また、私は年度の青年日曜日礼拝で“説教者”となりました。私の説教は地域全体で注目を浴び始め、すぐに他の教会でも説教壇に立つようになりました。また老人ホームや教会関係の青年男女グループなどでも説教し、それらの場所で空前の人手を集めました。
17歳になると私はハーバード大学へ進学し、牧師になるという決意をしました。1年生の時、二学期制の比較宗教の科目を履修し、イスラームを専門とするウィルフレッド・カントウェル・スミス教授による講義を受けました。その科目を受けている最中、私はヒンズー教や仏教などの他の宗教に比べ、イスラームに対しては至極低い関心しか抱いていませんでした。前者二つの宗教の方が、よほど秘教的で不思議な感じがしたからです。対照的に、イスラームは幾分自分の宗教であるキリスト教に似通っているように思えました。このため私は自分がそうすべきであった程に努力しませんでしたが、クルアーンにおける啓示の概念というレポートを提出した記憶はあります。いずれにせよ、その科目は学究的基準と要求において厳格であったため、実際私はイスラームに関する本を六冊も手に入れましたが、それらは全てノン・ムスリムによって書かれたものであり、その後25年間に渡り、私はそれらの世話になりました。また、私は異なるクルアーンの英語翻訳版を二冊入手し、時々目を通していました。
その春、ハーバードは私をホリス学者として指名しました。それは私が大学における神学準備生の内の優等生の1人であることを意味しました。ハーバードの一年生から二年生に進学する前の夏休み、私は比較的大きな統一メソジスト教会で青年牧師として働きました。翌年の夏、私は統一メソジスト教会から宣教師としてのライセンスを取得しました。1971年のハーバード大学卒業に際し、私はハーバード神学校に入学し、1974年には神学修士号を取得しました。その頃には既に、統一メソジスト教会によって1972年に助祭として任命され、ハーバード神学校奨学金の補足として、スチュワート奨学金を受けました。神学校での勉学において、私はボストンで病院牧師として二年間のエクスターンシップ・プログラムを完了しました。ハーバード神学校からの卒業に続いて、私はカンサス郊外の二つの統一メソジスト教会において夏期宣教師として過ごしました。それらの教会での参会者数も数年間で最も多くを動員しました。
外側から見れば、私は高い教育を得た、日曜朝の礼拝に多くの聴衆を集めることの出来る、聖職者への道の全側面において成功を収めた、将来を約束された若き聖職者でした。しかし内側から見ると、私は聖職者としての責任において、自分の個人的誠実さを保つため常に戦っていたのです。この戦いは、おそらく個人的・性的モラルを維持しようと努めて失敗した、一部のテレヴァンゲリストたち*によるものなどとは遠くかけ離れたものでした。同様に、現代の新聞の見出しを飾る、小児性愛者の聖職者たちとも全く異なる戦いでした。私の個人的誠実さを保つための戦いの殆どは、学歴と学識のある、聖職者仲間に対してのものだったのです。
最も卓越した、聡明で、理想的な将来の次期聖職者たちは最も充実した神学教育をハーバード神学校において受けています。しかし皮肉なことにそういった教育を受けていながら、神学生らは次のような歴史的事実に晒されています:
1)初期の“主流な”教会の成立と、それが地政学的要因によっていかにして形成されたか;
2)様々な“オリジナル”のバイブルのテキストと、現在キリスト教徒たちが手にするものの大半との間には尖鋭な違いがあるが、徐々にこの知識が新しいもの、あるいはより良い翻訳とされるものに組み込まれたこと;
3)神格における三位一体、イエス(神の慈悲と祝福あれ)の“子性”といった概念の発展;
4)多くのキリスト教信仰と教義において基礎となる非宗教的考慮;
5)三位一体の概念、そしてイエス(神の慈悲と祝福あれ)の神性を決して受け入れなかった初期の教会とキリスト教運動の存在;
6)その他。(神学教育によって得た成果は拙著 The Cross and the Crescent: Dialogue between Christianity and Islam, Amana Publications, 2001で詳しく叙述されています。)
そのため、そういった神学校卒業生の大半が卒業するのは、彼らが真実ではないと知ることについての宣教を求められる“説教壇に立つため”なのではなく、様々な専門職に就くためなのです。それは私にも当てはまっており、私は臨床心理学の修士、博士号を獲得しました。私が自分自身をキリスト教徒であると自称したのは、自己認識の同一性において必要なことだったのであり、私の本職はメンタルヘルス専門家でしたが、結局は任命された聖職者だったのです。しかし、私の神学教育による学歴は、三位一体論、またはイエス(神の慈悲と祝福あれ)の神格性に関するどのような異論も封じ込めてしまいました。(聖職者らはこれらの教会による教義を信者たちよりも信じていない傾向があり、聖職者らは“神の子”といったような用語を隠喩的に理解し、教区民は逐語的に理解していることが統計によって明らかにされています。)従って、私は“クリスマスとイースターのみのキリスト教徒”となり、教会への出席は非常に散発的で、私が違うと確信する説教を耳にすると歯を軋らせ舌を噛んだのです。
上期のような理由によって、かつてよりも私の宗教心や精神性が低下したということを示したいのではありません。私は定期的に祈りを捧げ、私による至高の神への信仰は堅固かつ安定したものでした。私は教会や日曜学校で習った通りの倫理に沿って個人的生活を営んできました。私はただ単に、異教による多大なる影響や多神教的概念、また過ぎ去った時代の地政学的要因を抱え込んだ教会組織による、人工的な教義や信条を信じ込むことが出来なかったのです。
ジェラルド・F・ダークス、統一メソジスト教会、米国(パート2/4)
説明: “The Cross and the Crescent(十字架と三日月)”の著者であり学者でもあるダークスの生い立ち、そしてハーバード「ホリス」神学校での勉学によってキリスト教から目を覚ました彼の逸話。パート2:宗教心の欠如、ムスリムとのコンタクト、自問、そして答え。
- より ジェラルド・F・ダークス
- 掲載日時 04 Apr 2011
- 編集日時 04 Apr 2011
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時が経つにつれ、私はアメリカ社会全体における信仰心の喪失をますます心配するようになりました。信仰心は生きることそのものであり、個人の中の精神的・道徳的呼吸であり、組織(例えば教会)によって儀礼、儀式などといった形式的信条を与えられた、いわゆる宗教性と取り違えられてはならないものです。結婚の三分の二は離婚に終り、私たちの学校や路上における暴力は増加の一途を見ています。自己責任は欠如し、教養は“気持ちよければ良いじゃないか”という観念によって覆い隠され、様々なキリスト教指導者や団体は、性的もしくは経済的スキャンダルによって憂き目を見ており、その行動がいかに嫌悪されるかに関わらず、感情が行為を正当化しているのです。アメリカ文化は道徳的に破綻したものになりつつあり、私は自らの宗教的献身において孤独を感じずにはいられませんでした。
こうした状況の中、私は地元のムスリムコミュニティと出会いました。その数年前、私と妻はアラブ馬の歴史に関して積極的に調査をしていました。そうこうするうちに、種々のアラビア語文献を翻訳しなければならない必要性が生じ、ムスリムのアラブ・アメリカ人とコンタクトをとるようになりました。ジャマールとの最初の出会いは1991年の夏でした。
最初の電話での会話の後、ジャマールは私の家を訪れ、翻訳の仕事を引き受けてくれ、中東におけるアラブ馬の歴史に関して手助けしてくれました。その日の午後、ジャマールは帰る前に日々の礼拝前に行なう体の洗浄をするために、洗面所を貸してくれないかと尋ねてきました。また私の家を出る前に礼拝もするので、礼拝用絨毯の代わりとして使う新聞紙を貸してくれと頼んできました。もちろん私たちはそれを承諾しましたが、新聞紙よりも適切なものを彼に渡すことが出来ないだろうかと悩んだものです。そのときジャマールは全く意識することなく、ダアワ(布教・いざない)を美しい形で実践していたのです。彼は私たちがムスリムではなかったことについては何も言いませんでしたし、彼自身の宗教的信条についても全く触れませんでした。彼は単に自らの模範を示し、そこに言葉は無くとも多くのことを物語ったのです。
その後16ヶ月間に渡り、ジャマールとの接触は二週間に一回、そして週一回と、徐々に回数を増していきました。それらの訪問で、ジャマールは決してイスラームについての宣教や、私の宗教的信条や確信について質問したり、私がムスリムになるよう示唆したりさえもしませんでした。しかしながら、私は多くを学び始めました。まず第一に、ジャマールによる毎日の礼拝の行動様式による例を常に目にしていました。第二に、ジャマールがいかに日常生活において高いレベルのモラルと倫理基準を仕事と社会生活のどちらにおいても維持し、実践していたかということです。そして第三に、ジャマールの二人の子供に対する彼の態度と行為です。私の妻に対し、ジャマールの妻も同様の例を提供しました。第四に、中東におけるアラブ馬の歴史について私が常に理解の出来るよう、次の事柄を共有してくれました:1)アラブ・イスラームの歴史という側面からの逸話;2)預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の言行;3)クルアーンの節々とそれらの文脈上の意味。事実、私たちの会話は、毎回最低30分間はイスラームの側面に関してのことが中心となりましたが、それは常に、イスラーム的文脈におけるアラブ馬の歴史の理解といった理知的な提示の仕方だったのです。私は「こうあるべきなのだ」とは決して言われませんでしたし、ただ単に「これがムスリムによって一般的に信じられていることです」と言われました。私は「宣教」されているとは感じなかったし、ジャマールは私の信条についても聞いてはこなかったので、私は自分のスタンスについての正当化を試みる必要がありませんでした。それらはすべて知的実習として取り扱われたものであり、改宗に向けた試みではなかったのです。
ジャマールは、地元ムスリムコミュニティの他のアラブ人家族を私たちに紹介し始めました。ワーイルの一家、ハーリドの一家、そしてその他の家族などです。私は彼らに共通して、私たちの住むアメリカ社会の倫理基準よりもより高いものに基づいた生活をしていることを見出しました。私は、ひょっとすると大学生、神学生時代に何か見逃していたイスラームの実践があるのではないだろうか、と思うようになりました。
1992年の12月になると、私は自分がどこにいて、何をしているのかを真剣に自問するようになりました。これらの質問は次の点によって考慮されます。
1)過去16ヶ月における私たちの社会生活は、地元アラブ人によって構成されたムスリムコミュニティが中心だったこと。12月には、私たちの社交生活における75%をアラブ人ムスリムたちと過ごしていたこと。
2)私は神学訓練と勉学の徳によって、いかに酷くバイブルが改竄されたかを知っていましたし、神格の三位一体説への信仰は全く持っておらず、イエス(神の慈悲と祝福あれ)の“子性”が隠喩的であること以外にはそれを全く信じていませんでした。つまり、私は神の存在を確信していましたし、私のムスリムの友人たちと同じように、厳格な一神教徒だったのです。
3)私の個人的な価値観と倫理基準は、私の周囲の“キリスト教徒”社会よりも、ムスリムの友人たちの方に同調しました。私はジャマール、ハーリド、ワーイルたちの平和的例証を模範としました。私の生まれ育ったコミュニティへのノスタルジックな懐郷の情はムスリムコミュニティにおける満足によって満たされたのです。アメリカ社会は道徳的に破綻しているかも知れませんが、私が関わったムスリムコミュニティに関しては例外だったのです。婚姻関係は安定しており、配偶者たちはお互いに尽くし、誠実さ、清廉さ、自己責任、そして伝統的な家庭観が強調されていました。私と妻はそれと同じような生き方をしようと試みましたが、数年間に渡り、私たちはそれを道徳的に空虚な状況においてそうしていたように感じたのです。ムスリムコミュニティは違うように映りました。
様々な異なる縫い糸が、一つの束になって縫い合わされていきました。アラブ馬、私の幼少期、私によるキリスト教聖職者と神学教育への熱望、道徳的社会への憧れ、そしてムスリムコミュニティとの出会いは、すべて複雑に交わり合っていったのです。私の自問は、最終的に何が私とムスリムの友人たちの信条を隔てているのかを自分に問いかけたとき、ようやく進展を見せました。この質問をジャマールやハーリドに問いただすことも出来たのでしょうが、私にはその準備が出来ていなかったのです。私は彼らとは一度も自分の宗教的信条に関して議論したことはありませんでしたし、私たちの友情にそのような話題を持ち込むことはしたくなかったのです。こうして私は大学、神学校時代に入手したイスラームに関する本を本棚から出し始めました。いくら私の信条が、教会の伝統的立場から遠くかけ離れ、ごく稀にしか教会に出席していなかったとしても、私は依然として自らをキリスト教徒として認識していたため、西洋学者たちの著作に手を伸ばしたのです。その年の12月に、私は西洋学者によるイスラームに関する本を六冊程度読みましたが、そこには預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の本も含まれていました。さらに、クルアーンの英語訳も二冊読み始めました。私はこの自己発見の探求について、ムスリムの友人たちには一度も告げませんでした。私がどのような種類の本を読んでいたのか、そしてなぜそれらを読んでいたのかさえも触れませんでした。しかし、私は時として、非常に回りくどい表現を使って彼らに質問はしたものです。
私はムスリムの友人たちにこれらの本について明かしませんでしたが、妻とは私の読んでいた本について数々の会話を交わしました。1992年12月の最後の週には、私は自分の宗教的信条とイスラームにおける主要な信条には決定的相違がないことを認めざるを得ませんでした。私はムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)が預言者(霊感の影響によって語る人物としての)であると認める準備が出来ており、また唯一なる神(至高なるかれに称賛あれ)以外には他に崇拝すべきものはないと全く躊躇なく断言出来たにも関わらず、依然として重要な決断を下せずにいました。しかし私は自分の理解する限りにおいて、教会組織としての伝統的キリスト教よりもイスラームの信条に共感するところが極めて多いことを認めることは出来ました。また私は、クルアーンがキリスト教、バイブル、そしてイエス(神の慈悲と祝福あれ)について語ることの大半が、私が神学教育において学んだことと一致しているということも十分承知していたのです。
ジェラルド・F・ダークス、統一メソジスト教会、米国(パート3/4)
説明: “The Cross and the Crescent(十字架と三日月)”の著者であり学者でもあるダークスの生い立ち、そして彼のハーバード「ホリス」神学校での勉学によってキリスト教から目を覚ました逸話。パート3:心理戦、そして降参への苦心。
- より ジェラルド・F・ダークス
- 掲載日時 11 Apr 2011
- 編集日時 11 Apr 2011
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それでもなお、私は躊躇しました。更に私は、自分自身がイスラームの核心的詳細を本当は知らず、私が合意している箇所は一般的概念に過ぎないとしてその躊躇を正当化しました。そうして私は読み続け、更に読み返しました。
自分が誰であるかという自己認識は、その人の世界の立ち位置に対する力強い肯定です。私の専門上の経験から、私はたびたび喫煙、アル中、薬物乱用などの様々な依存症を治療する機会を与えられました。私は臨床医として、基本的な物質依存症はまず断絶がなされなければならないことを承知していました。それは治療における簡単な部分です。マーク・トウェインはある時こう言いいした:「喫煙を止めるのは簡単なことだ。私は何百回もそうしている。」その断絶を長期に渡って持続する鍵は、患者がそれに対する精神的な依存に打ち勝つことです。そしてそれは患者の基本的な自己認識(つまり患者が自分自身を「喫煙者」「酒飲み」などと認識しているかどうか)といった重要な要素に基づいているのです。依存する習性は患者による基本的な自己認識として成立してしまいます。こういった自己認識を変えることが、精神療法の“治癒”において重要なのです。これが治療においての難しい部分です。基本的な自己認識を変えるということは最も難しい作業なのです。人の精神は新しく未知なものよりも、より快適で安全であるように映る、旧知のものにしがみつく傾向があるからです。
職業上、私には上記の知識があり、それは日常的なことでした。しかし皮肉にも、私は自分自身、そして自らの宗教的自己認識を取り戻す躊躇に対し、それを適用することが出来ずにいました。43年間に渡り、いかにそれに付属する多くの資格を得ていたとしても、私の宗教的自己認識はきっちりと「キリスト教徒」としてレッテル貼りがされていたのです。そうした自己認識のレッテルをはがすことはとても難しいことでした。それは私が自分自身をどう定義するかを担うものだったからです。今となって考えてみれば、私の躊躇は私がキリスト教徒でいながらムスリムのような信仰を持つ者として、馴染みのあるキリスト教の信仰を保つ保険のような役目を果たしたことは明確なのです。
12月末になり、私と妻は中東への旅行を現実のものとするため、パスポートの申請書を記入していました。その中の質問事項の一つに、宗教欄がありました。私は全く考えず、慣れ親しんだ「キリスト教」と記入しました。それは容易であり、慣れによること、そして気軽なことでした。
しかしながら、そういった気軽さは、私の妻が宗教欄に何を書いたか尋ねてきたときたちまちに崩壊しました。私は即座に「キリスト教」であると答え、声に出して笑いました。フロイトによる人の精神における理解についての貢献の一つは、笑いが精神的緊張の発散である場合もあるという発見です。いかにフロイトが性心理発達理論の多くの側面において間違えていたとしても、彼による笑いについての洞察はそのほとんどが的を得たものだったのです。私は笑いました。私が笑いによって発散しなければならなかったこの精神的緊張は一体何だったのでしょうか?
私は早速妻に対し、私はキリスト教徒であってムスリムではないことをきっぱり断言しました。それに対し妻は、彼女が聞いていたのは単に私が「キリスト教徒」と書いたのか、または「プロテスタント」あるいは「メソジスト」のどれを書いたのか、というものだったのだ、ということを丁寧に教えてくれました。職業柄、私は人が自分に対してされてもいない言いがかりに対し抗弁する必要がないことは知っています。(もしもそれが精神療法の最中に、私が怒りというトピックについて切り出したのではないにも関わらず、患者がこう言ったとしましょう:「私は怒っていたのではありません。」それは私の患者が自らの潜在意識に対しての言いがかりに対して抗弁する必要性を感じていたからなのです。つまり彼は現実に怒っていたのですが、それを認めるか、またはそれに関するやり取りをする準備が出来ていなかったということなのです。)もし私の妻がそのような言いがかり(「あなたはムスリムなのよ」)をしなかったのであれば、彼女以外にはその場に私しかいなかったため、それは自らの潜在意識からきたことになるのです。私はこのことを認識してはいましたが、以前として躊躇しました。私の感覚に43年間に渡ってこびりついてきた宗教的自己認識は、そう簡単には剥がれてくれはしなかったのです。
私の妻による質問から一ヶ月が過ぎようとしていました。1993年の一月末のことです。私は西洋学者らによるイスラーム書籍を隅から隅まで目を通したため、それらを本棚に戻しました。二冊のクルアーンの英語訳も本棚に戻し、三冊目のクルアーン英語訳に取りかかったところでした。この翻訳からはこれまでに見つけられなかった何かを発見することを期待しつつ・・・。
昼休みに、私は頻繁に通うようになった地元のアラビアン・レストランで昼食をとっていました。私はいつも通り店に入り、小さいテーブルに着き、読書の途中だったクルアーン英語訳の三冊目を取り出して開きました。気がつくとマフムードが注文を取りに私の背後に立っていました。彼は私が読んでいたものをちらりと見ましたが、何も言いませんでした。注文を済ますと、私は一人で読書に戻りました。
数分後、ムスリム女性にみられるヒジャーブ(スカーフ)を被り、慎ましい衣服を身につけた、マフムードの妻でありアメリカ人ムスリムのイーマーンが私の注文した食事を運んで来ました。彼女は私がクルアーンを読んでいることに言及し、私がムスリムかどうかを丁寧に尋ねてきました。私は自分自身をエチケットと礼儀で修正するよりも早く「違う!」と言ってしまったことに後から気付きました。その言葉は力強く、そして怒りをほのめかすには十分でした。それによって、イーマーンは礼儀正しく私のテーブルから立ち去りました。
一体何が私に起こっていたのでしょうか?私は無礼かつ、攻撃的な振る舞いをしていました。この女性がそれに値する行為をしたというのでしょうか?これは私らしい行動ではありませんでした。私は幼少の頃から他人に対し「サー」や「マアム」という敬称を使って来ました。私は自分の笑いを緊張の発散として無視することは出来ましたが、自身によるこのような非良心的な態度は見過ごすことが出来ませんでした。私は本を傍らに置き、食事中もずっとこの事に関して気を揉んでいました。考えれば考える程、私は自分の態度に対する罪悪感を感じました。食事後にイーマーンが会計を持って来たとき、償いをしなければならないことは分かっていました。単純に、親切心がそれを要求したのです。私は彼女による悪気のない質問に対する反抗的態度に関して心を乱してしまっていました。単純かつ率直な質問に対し、なぜ私はあそこまで攻撃的に反応したのか?それはなぜ私の異常な態度を引き起こしたのか?
イーマーンが会計を持って来たとき、私は遠回りに謝罪しました。「あなたの質問に対して少しぶっきらぼうでした。あなたの質問が、私の唯一神に関する信仰に対してのものだったとしたら、私の答えは『はい』です。あなたの質問が、ムハンマドがその唯一神の預言者の一人かどうか信じるのかというものだったのなら、その答えも『はい』です。」彼女は親切かつ優しく言いました:「気にしていません。ある人々は他の人々よりも時間がかかるものですから。」
恐らくこれを読んでいる親切な読者は、私のメンタル的なアクロバットにあまり強く笑うことなく、私が自らいそしんでいた精神的戯れ事や振る舞いを銘記していることかと思います。私は独自の方法、独自の言葉でイスラームにおける信仰宣言であるシャハーダ(「私は唯一神以外に他の神はなく、ムハンマドは唯一神の使徒である」と言うこと)を唱えたことを承知しています。しかしそう言った後、また自分が言ったことの重要性を認識しながらも、私は依然として自分の古い宗教的自己認識のレッテルにしがみつくことが出来たのです。結局、私は自分がムスリムであるとは言わなかったのです。私は単にキリスト教徒、いや、神格の三位一体ではなく唯一神の存在を認識し、その唯一神によって遣わされたムハンマドが諸預言者の一人であると宣言することの出来る、非一般的キリスト教徒だったのです。もしもあるムスリムが私のことをムスリムであると認めるのであれば、それは彼らの自由であり、彼らによる宗教認識なのです。しかしながら、それは私によるものではありませんでした。私は、宗教的自己認識における危機から脱出する道を発見したと思っていました。私はイスラームの信仰宣言に合意すると慎重に説明し、それを宣言することを厭わないキリスト教徒だったのです。私によるこじつけ的な説明によって、他者は何でも望み通りのレッテルを私に貼ることが出来ます。それは彼らによるレッテルであり、私のものではないからです。
ジェラルド・F・ダークス、統一メソジスト教会、米国(パート4/4)
説明: “The Cross and the Crescent(十字架と三日月)”の著者であり学者でもあるダークスの生い立ち、そして彼のハーバード「ホリス」神学校での勉学によってキリスト教から目を覚ました逸話。パート4:“十字架から三日月へ。”
- より ジェラルド・F・ダークス
- 掲載日時 18 Apr 2011
- 編集日時 18 Apr 2011
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1993年の3月となり、私と妻は中東の5週間の旅を楽しんでいました。ちょうどそのときはムスリムたちが日の出から日没までを断食するイスラーム暦のラマダーン月でした。私たちはアメリカでムスリム家族たちと一緒に過ごすことが多かったため、どうせなら彼らと共に礼儀的観点から断食をしようと決めました。この時を期に、私は中東の新しいムスリムの友人たちと共にイスラームの定期礼拝を開始しました。結局、それらの礼拝に対して反対する理由は何も見当たりませんでした。
私は少なくとも、自らをキリスト教徒であると自称していました。とどのつまり、私はキリスト教の家族に生まれ、キリスト教徒として育てられ、少年時代には毎週日曜日に教会と日曜学校に出席し、権威ある神学校を卒業し、巨大なプロテスタント統治における、任命された宣教師だったのです。しかしながら、同時に私は三位一体とイエス(神の慈悲と祝福あれ)の神格性を信じないキリスト教徒でもありました。更に私はいかにバイブルが改竄されたものであるかを十分承知し、自分の慎重な言葉遣いによるイスラームの信仰宣言を唱え、ラマダーン中に断食をし、一日5回の礼拝も行い、アメリカそして中東におけるムスリムコミュニティで自ら目撃した生活模範にとても好感を持っていたのです。(私が中東で経験した道徳や倫理観の詳細をここですべて表現するのは、時間・空間的にとても無理です。)もし私がムスリムであるかを尋ねられたら、上記の事項を詳細に5分間は語って、質問には答えないままでいることが出来ました。私は知的な言葉遊びをしており、それに成功していたのです。
私たちの中東旅行も終盤に入っていました。私は英語を全く話さない老人の友と、ヨルダンのアンマーン郊外にある貧困地域の曲がりくねった小さな道を散歩していました。散歩の途中、向かい方面から別の老人が近づき、「アッサラーム・アライクム」(あなたがたに神の平安がありますように)と挨拶しつつ、握手を求めてきました。そこには私たち3人の他には誰も居らず、私はアラビア語を話せませんでしたし、私の友、そしてこの見知らぬ老人は英語を話せませんでした。この老人は私を見て尋ねました。「ムスリム?」
このとき、私は完全に逃げ場がありませんでした。私は英語でしかコミュニケーションが取れませんでしたし、彼らはアラビア語しか話せないので、そこには言葉遊びの余地がなかったのです。またそこには私の巧みな英会話術によってその状況から救い出してくれる通訳もいませんでした。私はその質問を理解出来なかったふりをすることも、それが明らかに見え透いていただろうため出来ませんでした。突然にして、そして思いがけなく、私の選択肢は僅か二つに絞られたのです:私には「ナアム」(はい)と言うか、もしくは「ラー」(いいえ)と言うかのどちらか以外にはなかったのです。私は決めなければなりませんでした。そしてそれはまさにその瞬間だったのです。それほど単純なことでした。神に讃えあれ。私は「ナアム」と答えたのです。
その一言を発することにより、これまでのすべての知的言葉遊びは過去のものとなったのです。それによって同様に、私の宗教的自己認識といった精神的戯れ事もまた、過去のものとなりました。私はもう、奇妙で特殊なキリスト教徒ではなくなったのです。私はムスリムになったのです。神に称賛あれ。私と33年間付き添った妻も、ほぼ同時にムスリムとなりました。
中東の旅からアメリカに戻ってまだそれほどの月日が経っていなかった頃、私たちのイスラームへの改宗について話を聞きたい、という人物から彼の家に招待されました。彼は定年を迎えた元メソジスト教会宣教師であり、過去に数回ほど会話を交わしたことのある人物でした。それまで、初期の様々な独立した原典からのバイブルの人工的な構成といった問題に関して、表面上は話したことがあったのですが、宗教に関しての踏み込んだ話をしたことはありませんでした。私は彼が堅実な神学教育を受けたこと、そして毎週日曜日に教会の聖歌隊で歌っていることを知っていました。
当初の私による反応は「お、来たか。」というものでした。しかし良き隣人であること、そしてイスラームに関して他者とすすんで会話することはムスリムにとっての義務です。そのため、私は翌日の夕食の招待を受け、それまでの24時間の大半を、いかにしてこの男性の要求する話題に対して最善の方法で答えることが出来るだろうかと熟考しました。約束の時間が来たので、私たちは彼の家へと運転しました。しばらく他愛のない会話をした後、彼はついに私がなぜムスリムになろうと決意したのかを尋ねました。私はこの質問を待ち構えており、その答えは慎重に用意されたものでした。「あなたも神学教育によって承知されているように、ニケア公会議による決定には、多くの非宗教的要素が関わっていました。」彼は直ちに単純明快な言葉によって私を遮りました。「あなたは遂に、多神教的要素に堪えられなくなったのですよね?」彼は私がムスリムになった理由を熟知しており、私の決断を批判したりはしなかったのです。彼自身もその年齢と経験により「特殊なキリスト教徒」になりつつあったのですから。神が御望みであれば、今頃彼は十字架から三日月への旅を終えているでしょう。
アメリカでムスリムになるには、数々の犠牲が求められます。いえ実際、ムスリムとして生きるにはどこにおいても犠牲が必要とされますが、それらの犠牲はアメリカにおいて、アメリカ人改宗者らによってより顕著なものとして感じられることでしょう。それらの犠牲の一部は非常に想定可能なものであり、着用する衣服の変化、酒類、豚肉、利子取得などの完全な断絶が挙げられます。また一方では想定が難しいものもあります。例えば私たちと親しかったあるキリスト教徒家族から「イエス・キリストを個人的救世主とみなさない者との関わり合いは持てない」と関係を断たれたことがあります。また、私の複数の同僚からは、私に対しての態度を豹変されました。それが偶然であろうとなかろうと、私への顧客の委託は減少し、収入が30%近く落ち込みました。こういった想定が困難な犠牲はときに受け入れ難いものですが、それによる見返りとしてはほんの小さなことなのです。
イスラームを受け入れ、自らを神(至高なるかれに称賛あれ)に服従させようと考えている人々には、何らかの犠牲が待ち構えていることでしょう。それらの多くは容易に想定でき、その他はびっくりするようなことや、想像すらしなかったことがあるかも知れません。それらの犠牲が存在することは否定のしようがありませんし、私はそういった苦い薬にシュガー・コーティングしようとも思っていません。しかしそれらの犠牲を過剰に心配したりしてはなりません。つまるところ、これらの犠牲はあなたが今思っていることよりも重要ではないのです。神が御望みであれば、これら犠牲はあなたの買っていた「神々」よりもとても安い犠牲であることがお分かりになるはずでしょう。
Please note: The ordination certificate above was too large to scan in completely - the top line of text is missing, which says “Let It Be Known To All Men That”
注:上の任命書はスキャンするにあたって大きすぎたため、一番上の段落(“Let It Be Known To All Men That”)が抜け落ちています。
His Web Page:
www.muslimsweekly.com/index.php?option=com_content&task=blogcategory&id=92&Itemid=93
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