ケニースL.ジェンキンス(ペンテコステ派教会の司祭及び長老・ アメリカ合衆国) (パート2 / 3)
説明: 一度は誤り導かれた少年がペンテコステ教会を通し、そして20歳で司祭に任命されたことにより彼の救いを発見し、後にムスリムとなる。 パート2「全ての輝くものが金なのではない」
- より ケニースL.ジェンキンス
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 12 Dec 2009
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私は一人の時には瞑想し、神が私を正しい宗教に導き、もし何か間違ったことをしていたのであれば、自分を赦して下さるよう祈りました。私はそれまで、ムスリムと接触したことがありませんでした。唯一私が知っていたイスラームを彼らの宗教と主張していた人々は、多くが"ブラックムスリム"または“ロスト・ファウンド・ネーション”と呼ばれたイライジャ・ムハンマドの信者達でした。それは70年代の終わりに、指導者ルイス・ファラカーンが"ネイション・オブ・イスラーム“と呼ばれていたグループを再建していた時のことです。私は、同僚の招待で指導者ファラカーンが演説するのを聞きに行き、そしてそれが私の人生を劇的に変える経験になったことに気付きました。私は自分の人生において、他の黒人男性が彼のように話すのを聞いたことがありませんでした。私はすぐに彼を私の宗教に改宗させようと、彼に会う手配をしました。私は彼を改宗させることが楽しみになりました。私はそれが誰であろうと、迷った魂を見つけて地獄の業火から救い出すことを望んでいたのです。-。
私は大学卒業後、フルタイムの仕事を始めました。司祭として頂点に達し、イライジャ・ムハンマドの信者達のことがもっとよく見えるようになりました。私は、黒人社会を内外から破壊している悪を除去しようと試みる彼らの努力を認めていました。私はある意味で彼らをサポートし始め、彼らの文献を購入し、対話のために彼らに会うことさえしました。また私は、彼らが何を信仰しているのかを正確に発見するために、彼らの勉強会にも出席しました。しかし彼らの多くが誠実であることを知るほど、私は、神が黒人であるという考えに同意出来ませんでした。私は、彼らが特定の問題において彼らの立場をサポートするために、聖書を使用することに反対でした。私はこの本を熟知していたので、彼らのその誤った解釈は私を本当に不快な思いにしました。私は地域で運営されている聖書学校に参加していたので、聖書研究の様々な分野で知識が豊富になっていたのです。
その約6年後私はテキサス州に引っ越し、 2つの教会と提携するようになりました。最初の教会は経験の浅い、勉強不足の若い牧師により指導されていました。キリスト教の経典の私の知識は、この時点で尋常ではないものにまで発展していました。私は聖書の教えに執着していました。私はより深く聖書を調べるようになり、その時の指導者よりもそれについてよく知っていると気づいていました。しかし敬意を示すために、私はもっと学ぶことが出来ると感じた別の町の別の教会に参加しました。このある教会の牧師は、非常に学術的でした。彼は優秀な教師でしたが、我々の教会組織の規範にない、いくつかの考えをもっていました。また彼はややリベラルな見解をもっていましたが、私は彼の教化を楽しんでいました。私はまもなく、 "全ての輝くものが金なのではない“という自分のクリスチャン生活における最も貴重な教訓を学びました。その外見にも関わらず、そのようなことは思いもよらなかった悪が教会の中にいたのです。これらの悪は私に深い影響をもたらし、私が奉げた教えに疑問を投げかけ始めました。
真の教会世界へようこそ
私はすぐ、司祭階層に相当の嫉妬が横行していたことを発見しました。物事は、私が慣れ親しんでいたことからは変わってしまっていました。女性は、私が恥ずかしくなるような服を着ていました。人々は大抵、異性の気を引くために着飾っていました。私は、金と欲が教会活動の運営において、どれだけ大きな役割をしているのかを知りました。小さな教会の数多くは苦労しており、彼らは資金を集めるために集会を開くことを私達にも求めました。もし教会にある程度の人数がいないのなら、十分な資金報酬を受け取れないので、説教の時間を無駄にしなくてもよいと言われました。そこで私は、自分はお金のためにやっているのではなく、そこに例え一人しかいなくても説教をするだろう、と説明しました…and I’d do it for free!私は無料でもやるつもりなのです!これは、障害を生みました。私は、知恵があると思った人達を疑問視するようになり、彼らがただの見せかけだったことに気付きました。私は、金、権力、そして地位は、聖書についての真実を教えるよりも重要なことだと学びました。
聖書の学生として、私はそこに間違い、矛盾そして捏造があることをよく知っていました。私は、人々が聖書についての真実について触れるべきだと思いました。無論人々を聖書のこのような側面に触れさせるという考えは、サタンに起因すると考えられていました。しかし私は聖書の授業中公けに、自分の先生に誰も答えられないような質問をし始めました。いかにしてイエスは神であるのか?またいかにして彼は神である父であり、子であり、そして聖霊からなる一つの存在であるにも関わらず、三位一体の一部ではないというのか?しかしそれを説明できるのは誰一人としていませんでした。何人かの牧師はついに、彼らにもそれは理解できないことだが、私達にはただ信じることが必要なのだ、と認めなければならなかったのです。不義や姦淫があっても、それらは処罰の対象ではありませんでした。ある牧師は薬物にはまり、自分達の生活とその家族の生活を破壊していました。またいくつかの教会の指導者たちは、同性愛者だとわかりました。あまつさえ他の教会のメンバーである若い娘との不倫を犯した牧師さえいました。私にとってまともに思えた質問に対する回答を得られなかったことと、これら全ての出来事は混じり合い、私に変化を求めさせました。そしてその変化は、私がサウジアラビア王国での仕事を受け入れた時にやってきたのです。
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