クリスティン(元カトリック教徒・アメリカ合衆国) (パート 1 / 2)

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説明: 元キリスト教徒の女性が発見したキリスト教の非論理性と、ユダヤ教への関心。

  • より クリスティン
  • 掲載日時 06 Dec 2009
  • 編集日時 12 Dec 2009
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私の宗教への探求は、私が15,16歳の高校の時に始まりました。私は、私が友達であると思っていた悪いグループの人々と付き合っていましたが、やがて彼らが負け犬であることに気付きました。私は彼らの方向性と、それが好ましくない方に向いていることを悟ったのです。私は将来の自分の成功がこれらの人たちのいかなる影響によっても汚されたくはなかったので、自らを彼らから切り離しました。当初私は友達もなく一人だったので、大変でした。私は、自分自身と共にある何かと自分の人生の基盤となり頼ることの出来る何か....人ではなく、決して私の将来を破壊しない何かを探し始めました。自然と、私は神を探索するようになりました。けれど神とは誰か、何が真実かを発見することは容易ではありませんでした。とにかく一体何が真実なのか?!これが宗教を探し始めた頃の私の最初の質問でした。

.私の家族には、多くの宗教的変遷がありました。私の家族にはユダヤ教と数種のキリスト教があり、そして今やイスラ−ムがあります。アルハムドリッラー(全ての称賛が神にありますように)。

私の父と母が結婚した時、彼らは子供を育てるためにどの信仰を選ぶか決める必要があると感じました。彼らにとってカトリック教会が本当に唯一の選択肢(私たちの町は人口600人ほど)だったので、2人ともカトリックに改宗し、私と私の姉妹もカトリック教徒として育てました。私の家族の改宗の話を通してさかのぼってみると、それらは全て利便性のための改宗のように思われます。彼らが本当に神を探していたとは思えませんが、ただ目的達成の手段として宗教を扱っていたのです。過去のこれら全ての変化の後も、宗教は私の母、父、姉妹または私にとって、決して最も重要なことではありませんでした。何かあるとしても、クリスマスとイースターの期間に教会で見かける家族であったくらいのことでしょう。私はいつも宗教が何か自分の生活から離れたものだと感じていて、1週間のうち6日は生活のために、そして1日は教会のために、それもまれな機会に教会へ行くのでした。言い換えると私は神自身と、そして日々その教えに沿ってどのように生きるかの自覚がなかったのです。私は以下の事柄を含むある種のカトリックの習慣を受け入れることが出来ませんでした。

1) 司祭への告白: 私は、どうして人間を介さないでただ神に告白することが出来ないのか、と思っていました。

2) “完璧な”法王-預言者でもないただの人間が、どうして完璧であるのでしょうか?!3) 聖人崇拝-これは最初の戒律の直接的侵害ではないのでしょうか?14年の強制的な日曜学校の出席の後でさえ、これらとその他の質問で得た答えは“君はただ信仰を持たなければいけないのだ!!”というものだけでした。誰かが私にそう言ったから信仰を持たなければならないとでも言うのでしょうか?私は信仰が論理に訴える真実と答えに基づくべきだと思い、その答えのいくつかを発見したくなりました。

私は両親や友人、その他誰かの真実は求めていませんでした。私は神の真実を求めていたのです。私は自分の抱いていた全ての考えを心と魂で信じていたので、それが自分には真実であってほしいと思いました。そして自分の質問の答えを探すのであれば、客観的な思考で探すべきだと決心し、書物を読み始めたのです...

私はまず、キリスト教は自分の宗教ではないと決めました。キリスト教と個人的に何かあったわけではありませんが、特に聖書を読んだ時に、その宗教には多くの矛盾が含まれていることを発見したからです。聖書には、私が見つけた矛盾や何の意味もなさないことが数多く存在していたので、私は事実自分が彼らに質問したり気付かせようとしたりさえしたことを恥ずかしく感じたほどだったのです。

私の家族の何人かはユダヤ教徒だったので、私はユダヤ教も研究し始めました。私はそこに答えがあるかもしれないと思いました。それで一年ほどユダヤ教に関するあらゆることを、深く掘り下げて研究したのです!私は毎日読み、何かを学ぼうとしました(私はまだ正統ユダヤ教の合法な食品の規律を覚えています!)。私は図書館へ行き、ユダヤ教に関する全ての本を借り、2か月の間にそこにあった情報を調べ上げました。またユダヤ教の礼拝堂へ行き、ユダヤ人と町の近くで話し、インターネットではユダヤ教の全律法とその注解の集成本を読みました。友人のユダヤ人の一人が、イスラエルから私を訪問することさえあったのです。私は自分が探していたものを見つけたのかもしれないと思っていました。しかしユダヤ教の礼拝堂へ行き、私の改宗を正式に執り行うためにラビに会うはずだった日、私は後ずさりしました。私は正直、あの日何が私の外出を阻んだのか分かりません。私はドアから出ようとしましたが立ち止まって戻り、座りこんだのです。私は、走ろうとするけれども全てがスローモーションであるような夢の中にいるようでした。私はラビがそこにいて私を待っているのを知っていましたが、電話さえもしませんでした。また彼の方も私に電話をしませんでした。何かが足りなかったのです...

ユダヤ教も私の求める答えではなかったということを知った後、私は(両親からの大きなプレッシャーにより)キリスト教にもう一度とりかかってみようと思いました。先に述べた通り、何年もの日曜学校の専門的知識が良い下地にはなっていましたが、私はそのような専門知識の裏に潜む真実を探すことにより大きな関心がありました。その全ての美しさは何で、その保障はどこにあって、そしてそれをどのように論理的に受け入れられるのか?キリスト教を真剣に考えるようなことはあっても、カトリックはその範疇外にありました。私は自分の町のルーテル教会、ペンテコステ教会、モルモン教会、特別な宗派には属していない教会など、その他全てのキリスト教会に足を運びました。それでも私は、探していた答えを見つけられませんでした!!私をそこから離れさせたのは彼らの環境ではなく、不快な宗派間の矛盾でした。私は正しい道が1つだけであることを信じていましたが、そうでなければどうして“正しい”宗派を選ぶことなどは出来ませんでした。憐れみ深く慈悲深い神が人類にこのような選択肢を与えるのは、私にとって不公平かつ不可能である以外の何ものでもありませんでした。こうして私は途方にくれました...

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