スンナとは何か(1/2):クルアーン同様の啓示
説明: スンナを構成するもの、そしてイスラーム法におけるその役割とは何か?第1部:スンナの定義、その構成要素、そして啓示の種類。
- より アブドッラフマーン・アル=ムアラー博士
- 掲載日時 29 Mar 2010
- 編集日時 23 May 2010
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ハディース学者によると、スンナとは使徒(神の慈悲と祝福あれ)に関して伝承されている全てのもの、つまり彼の供述、行為、暗黙の了解、性格、容貌の描写、または伝記が含まれます。それは伝承された情報が、彼が預言者としての使命を受けるより前のものか、またはそれ以降のものかに関わりません。
これらの定義の説明:
預言者による供述とは、様々な理由や状況において預言者が述べた、全てのものが含まれます。例えば彼はこう言いました:
“実に行為は意図に基づいており、誰もが自分の意図したことを行なうのだ。”
預言者の行為とは、彼の教友たちによって私たちに伝えられた、彼の行ない全てが含まれます。これには彼がどのようにウドゥー(小浄)をしたか、またどのように礼拝やハッジ(大巡礼)を行なったかなどが含まれます。
預言者による暗黙の了解とは、彼の教友たちの行為に関して、彼が支持も反対もしなかった全ての行為のことです。預言者による暗黙の了解は、彼自身による言行と同様に合法であると見なされます。
この実例として、クライザ族との戦いにおいて、預言者が教友たちに認めた自由裁量の例が挙げられます。それは件の出来事において、いつ礼拝するかを彼ら自身で判断するものでした。神の使徒は彼らにこう命じました:
“クライザ族の土地に到着するまでは、午後の礼拝を行ってはならない。”
教友たちがクライザ族の土地に到着したのは、日没後のことでした。彼らの一部は、預言者の命令を文字通りに解釈し、“我々は彼らの所に到着するまで礼拝をしない”と言い、午後の礼拝を遅らせました。一方他の者たちは、預言者の命令は旅路を急ぐようにとの暗示であると解釈し、規定の時間内に−つまり到着前に−午後の礼拝をしました。
その後、預言者は各グループによる判断について知りましたが、いずれを咎めることもされませんでした。
預言者の性格に関しては、次に示すアーイシャ(彼女に神の慈しみあれ)の供述が含まれます:
“神の使徒は決して不作法ではなく、下品でもありませんでした。彼は市場で大声を出すこともありませんでした。彼は他人の蛮行を、自らの蛮行をもって応えることは決してありませんでした。そうではなく、彼は寛容で慈悲深い方でした。”
また預言者の容貌の描写に関しては、アナス(彼に神の慈しみあれ)による以下のような供述から見て取れます:
“神の使徒は背が高過ぎることなく、低くもありませんでした。彼の肌は白すぎることなく、黒くもありませんでした。彼の髪はうねり過ぎでなく、真っ直ぐでもありませんでした。”
スンナと啓示の関係
スンナとは神による預言者(神の慈悲と祝福あれ)への啓示です。神はクルアーンでこう仰いました:
“・・・あなた方に授けられた、あなた方に勧告する啓典と英知を想起せよ・・・”(聖クルアーン 2:231)
ここで言う英知とは、スンナのことです。偉大な法学者でもあるアッ=シャーフィイーは、こう述べています:“神はクルアーンを啓典であると言及された。私は、私がクルアーンの権威であると見なす人々が、「英知」が神の使徒(彼に神の慈悲と祝福あれ)のスンナであると解釈するのを聞いた。”
また神はこのように仰っています:
“本当にアッラーは、信者たちに対して豊かに恵みを授けられ、彼らの中から、一人の使徒をあげて、啓示を彼らに読誦させ、彼らを清め、また啓典と英知を教えられた。”(クルアーン 3:164)
上記の節によって明確にされているのは、神は預言者へクルアーンとスンナを啓示されていることであり、神はそれら双方を人々へ伝えるよう、預言者に命じていることです。預言者のハディースでも同様に、スンナが啓示であるという事実が証明されています。教友の次世代の学者マクフールによると、神の使徒がこのように述べたことが伝えられています:
“神はクルアーン、そしてそれと同様のものを英知によって授けられた。”
またアル=ミクダーム・ブン・マアディーは、神の使徒がこう言ったと伝えています:
“私は啓典と共にそれと同様のものを授かった。”
またヒサーン・ブン・アティーヤは、天使ジブリール(ガブリエル)がクルアーンと同じように、スンナをも携えて預言者を訪れていたと報告しています:
預言者による見解は、ただ彼自身の考えや、または問題に対する熟考の末の結論ではなく、神によって下されたものでした。こういった点で、彼は他の人々と異なっていたのです。つまり彼は啓示によって援助されていたのです。彼が自己の理論を駆使し、それが正しかったのであれば神は確証し、もしもその考え方に間違いがあれば、神はそれを正して真実へと導いたのです。
こうした理由により、カリフだったウマルが説教壇からこのように言ったことが伝えられています:“人々よ!神の使徒の見解が正しいのは、それらを神が啓示されたからなのだ。しかし我々の見解は、単なる思考と推測の結果に過ぎない。”
預言者が受け取った啓示には、二種類あります:
A. 開示的啓示:以下のクルアーンの節にあるように、神は使徒に対し、啓示によって何らかの情報を伝えます。
“神が、人間に(直接)語りかけられることはない。啓示によるか、帳の陰から、または使徒(天使)を遣わし、かれが命令を下して、その御望みを明かす。本当にかれは、至高にして英明であられる。”(クルアーン 42:51)
アーイシャは、アル=ハーリス・ブン・ヒシャームが預言者に対し、いかにして啓示が下るのかを質問し、預言者が以下のように答えたことを伝えています:
“時には鐘が鳴るような音がして天使がやって来るが、これは私にとって極めて辛いことだ。それは私に重くのしかかるものであり、私はかれの言うことを記憶する。そして時には人間の形をした天使がやって来て私に話しかけ、私はかれの言うことを暗記するのだ。”
マタアーイシャはこのようにも述べています:
“私はとても寒い日に彼に啓示が下る様子を見たことがあります。それが終ると、彼の額は汗だくになっていました。”
時には、彼は何かの質問をされ、啓示が下るまで沈黙することもありました。その例としては、マッカの多神教徒たちが魂について預言者に質問した時のことが挙げられます。その際、彼は神が次の啓示を下すまで黙っていました:
“彼らは魂について汝に問う。言え:「魂は主の命令によって来る。(人々よ)あなた方の授かった知識はごく微少に過ぎない。」”(クルアーン 17:85)
また、彼は相続の分配法について質問されましたが、次の神の啓示が下るまではそれに答えませんでした:
“アッラーは汝らの子女についてこう命じられる・・・” (クルアーン 4:11)
B. 確証的啓示:これは預言者がある問題に際して自身の判断を行使したものです。もしも彼の見解が正しければ、それを確証する啓示が下り、もしも間違っていれば、それを正す啓示が下ることにより、結果的には開示的啓示と同じ役割を担います。ここでの唯一の違いは、預言者自身の行為による結果、啓示が下されるというものです。
このような事例において、預言者は自身の裁量を使用しました。もし彼が正しい選択をしたのであれば、神はその選択を啓示によって確証しました。しかしもし彼が間違っていたのであれば、神は信仰の完全性を護るために彼を正したのです。神はかれの諸使徒が人々に間違いを伝える事を決して許しません。それは彼らの追従者たちが同じように間違いに陥ることになるからです。これは人々に諸使徒が遣わされた後、神に対しての弁解の余地を残さないという叡智に矛盾することです。このように、使徒は間違いに陥ることから保護されており、もしも間違いを犯せばそれを正す啓示が下されたのです。
預言者の教友たちは、預言者による暗黙の了解が、実際は神による承認であることを理解していました。預言者の存命中に彼らがイスラームに反することを一度でも行ったのであれば、啓示が下り、彼らの行いが咎められたからです。
教友ジャービルはこう言いました:“我々は神の使徒の存命中、膣外射精[1] を行なっていました。”このハディースの伝承者の一人であるスフヤーンは、こうコメントしています:“このことが禁じられるのであれば、クルアーンによって禁じられていたはずである。”
スンナとは何か(2/2):イスラーム法におけるスンナ
説明: スンナを構成するもの、そしてイスラーム法におけるその役割とは何か?第2部:スンナとクルアーンの違い、またイスラーム法におけるスンナの立場。
- より アブドッラフマーン・アル=ムアラー博士
- 掲載日時 29 Mar 2010
- 編集日時 29 Mar 2010
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スンナとクルアーンの違い
クルアーンはイスラーム法の根幹にあたるものです。クルアーンとは、神によって天使ジブリール(ガブリエル)を仲介し、使徒(神の慈悲と祝福あれ)に啓示された奇跡の言葉です。その歴史的信頼性は非常に多くの真性な伝承経路により、疑いの余地のないものとなっています。クルアーンは一冊の本としてまとめられ、その朗誦は一つの崇拝行為と見なされます。
そしてスンナとは、神の使徒によってもたらされたクルアーン以外の全てのものを指します。スンナはクルアーンにおける諸法の詳細を説明するものです。またこれらの法を実践するための実例も提供します。それは神による直接の啓示、または啓示によって確証された、使徒の裁決も含まれます。従ってスンナの源泉は、その全てが啓示であるということになります。
クルアーンは儀礼上、崇拝行為として朗誦されるものですが、一方のスンナは啓示ではあるものの朗誦されるものではありません。しかしスンナはクルアーンと同様に遵守されるべき啓示です。
クルアーンのスンナに対する優越性には二点あります。第一に、クルアーンは神の直接の言葉によって終始一貫しており、奇跡的性質のものであるということです。一方スンナは必ずしも神の直接の言葉ではありませんが、預言者による、それらの意味の注釈であるのです。
イスラーム法におけるスンナの立場
使徒の存命中、クルアーンとスンナはイスラーム法における唯一の源泉でした。
クルアーンでは、一般的原則に基づいて確立された一部の訓令以外では、二次的な立法制度や煩瑣な手順を経ることなく、法の基礎を成す一般訓令を与えます。これらの訓令は時代の経過と共に変わっていく性質のものでなく、状況の変化と共に人の手によって変えられていくものでもありません。またクルアーンの内容は信仰箇条、崇拝行為の規定、過去の諸国家の逸話や倫理的指針を包含します。
そしてスンナはクルアーンに合意するものです。それは文体において明確でないものを説明し、概括的な表現の明確化を提供し、また何が概括的であるかを特定し、そして訓令と目的を説明します。またスンナは、クルアーンにはない訓令をもたらしますが、それらはクルアーンの原理に調和するものであり、クルアーンにおける目的の概要を提示します。
スンナとは、クルアーンの内容を実用的に表現するものです。この表現には多くの形があります。時には使徒による行為としての形をとり、また時には何らかの問題に対する解答としての供述という形をとります。そして時には彼が禁止も反対もしなかった、教友たちの誰かによる行為の形をとります。
スンナは様々な方法によってクルアーンの説明をしたり、その意味を明確にしたりします。それは崇拝行為の方法や、いかにしてクルアーンで言及されている法の遂行をするかを説明するのです。神は信仰者に対し礼拝の義務に言及しつつも、その回数や礼拝作法には言及していません。使徒は彼自身の礼拝の実践、そしてムスリムたちに礼拝の方法を直接教えることにより、それを明確にしたのです。彼はこのように言っています:“私が行うように礼拝をするのだ。”
また神はハッジ巡礼の義務を明らかにしましたが、その詳細な儀礼を説明することはしませんでした。神の使徒はこれに言及して述べました。
“私からハッジの儀礼を学ぶのだ。”
また神はザカー(義務の浄財)義務とされましたが、その対象となる財産や農産物の種類には言及しませんでしたし、。またザカーがその財産において課される最低額も述べていません。しかしスンナはそれら全てを明確にしているのです。
スンナはクルアーンにおける概括的記述を明確化します。神は言われました:
“神は汝らの子女についてこのように命じられる。男児には、女児の二人分と同額・・・”(クルアーン 4:11)
この表現は概括的であり、全ての家族に適用され、子供は全員その両親の相続者であるとします。スンナはこの裁定を更に具体的にし、預言者の子孫はこの限りではないとします。神の使徒は言いました:
“我々預言者は遺産を遺さない。我々が遺すものは、それが何であれ施しとして差し出される。”
スンナはクルアーンによる記述をより一層明確にします。神は述べました:
“・・・そして水を見つけられない場合は、清浄な土に触れ、汝らの顔と両手を撫でるのだ・・・”(クルアーン5:6)
この節では撫でる手の範囲について述べられておらず、それが手首までなのか、あるいは腕まで含まれるのかという疑問を生じさせます。しかしそれが手首までであることを明確にするのが、スンナなのです。それは神の使徒が、水のない状態での小浄においてそのようにしたからです。
また、スンナはクルアーンにあるものの強調として、またその中で述べられている法への二次的立法としての役を果たします。それには礼拝、ザカー、斎戒、そしてハッジ巡礼が義務であるということを示す全てのハディースが含まれます。
スンナによる、クルアーンの中の訓令に対する補足的な立法の提供例としては、果物が熟れ初める前に売ることを禁じるスンナが挙げられます。この法の根拠はクルアーンの記述に存在します:
“汝らの財産を、不正に汝らの間で浪費してはならない。だがお互いの善意による、商売上の場合は別である。”(クルアーン 4:29)
スンナにはクルアーンにおいて記述されていない裁定や、クルアーンで記述されているものの、明確にされていない裁定が含まれています。その例として、ロバと肉食獣の肉を食べることの禁止が挙げられます。また別の例としては、ある女性とその叔母を一緒に娶ることの禁止などもあります。スンナにより提供されるこれらの裁定は、遵守されなければならないものです。
スンナ遵守の義務
預言者性を信じるにあたっては、神の使徒の発言を全て真実であると信じることが求められます。神はかれの法を人類に伝えるため、かれのしもべの中から諸使徒をお選びになったのです。神は述べられています:
“神は何処で(誰に)かれの教えを据えるかを、最もよく知っておられる。”(クルアーン 6:124)
また神はこうも仰いました:
“諸使徒(の務め)は、明白な(啓示の)布教の他に何があろうか。”(クルアーン16:35)
使徒はその行為において、ありとあらゆる間違いから保護されています。神は、彼が真実以外を話すことから保護されているのです。また神は、彼の四肢が正しい行為から外れたことを行うことからも保護されました。
また神は、彼がイスラーム法に反するものを承認することのないよう、彼を護られました。彼は神の創造物の中でも、最も理想的な存在なのです。これは神がクルアーンにおいて、いかに彼を描写するかを見れば明白です。
“沈みゆく星にかけて。汝らの同胞は、迷っているのではなく、また間違っているのでもない。また自分の望むことを言っているのでもない。それは彼に啓示された、啓示に他ならない。”(クルアーン 53:1−4)
私たちはハディースから、いかなる状況下であっても、またいかなる試みを用いようとも、預言者の語る真実を阻止できないことが分かります。彼は怒っていても、そのことが彼の発言に影響することはありませんでした。彼は冗談を言うときでさえ、虚偽を語らなかったのです。また彼の個人的な関心事も、彼を真実の発言から阻むことはありませんでした。彼が求めた唯一の目的とは、神のご満悦を得ることのみだったのです。
教友アブドッラー・ブン・アムル・ブン・アル=アースは、神の使徒の語ること全てを書き留めていたと伝承しています。そのことに関し、クライシュ族はこう言って彼を阻止しようとしました:“彼は喜怒して話す単なる人間だと言うのに、お前は神の使徒の話すこと全てを書き留めるのか?”
アブドッラー・ブン・アムルは書き留めるのを止め、このことを神の使徒に伝えると、彼はこのように言いました:
“書くのだ。私の魂がその手中にある御方にかけて、ここからは真実しか出て来ないのだ。”・・・そして彼は自分の口を指し示しました。
神の使徒への追従は義務であるという事実は、クルアーンとスンナ、そして法学者たちの合意によって示されています。神はクルアーンにおいて述べられました:
“汝ら信仰者たちよ、神に従い、使徒と汝らの中の権能をもつ者に従え。汝らは何事についても異論があれば、神と終末の日を信じるのなら、これを神と使徒に委ねよ。”(クルアーン 4:59)
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