内なる平和を求めて(1/4):その達成を妨げるもの
説明: 人は内面的平和をどのように定義するのか、そしていかにその達成へ向けて努力するのか、また内面的平和の達成を妨げるものとは何かを見ていきます。
- より ビラール・フィリップス博士(アブー・ウスマーン氏録音の講義から転写)
- 掲載日時 18 Jan 2010
- 編集日時 24 Aug 2020
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内面的平和というテーマは、普遍的ニーズに関わるものです。内面的平和を求めない者は、この地球上に一人もいないでしょう。こういった必要性は私たちの時代特有のものでなく、人類の歴史上、年代、人種、信条、宗教、性別、能力、富の有無、または科学の発展に関わらず、求め続けられて来たものなのです。
人間は内面的平和の達成のため、様々な方法を試みて来ました。ある者は物理的な富の蓄えによって、ある者は薬物や音楽などによって、またある者は経歴や職業、自分の子供の実績などをその手段にしようとしました。その種類を挙げれば、枚挙にいとまがありません。
そしてその探求は終わりのないものです。私たちの時代では、科学の進展と近代化によって物理的な快適さがもたらされ、それらにより内面的平和が得られるのであると信じ込まされて来ました。
しかしながら、世界で最も科学的に進歩しており、最も工業が発達した国である米国を見てみると、私たちが信じるよう刷り込まれて来たことが事実ではないことが分かります。統計によれば、米国では年間二千万人の成人が鬱病に悩んでいるのです。内面的平和が完全に欠如したものが鬱病であると言えるのではないでしょうか。更に西暦2000年の自殺による死亡率は、エイズによる死者の二倍だったのです。しかしニュースなどのメディアによって、私たちは自殺して死んだ人々よりもエイズで死んだ人々の方に注意を向けさせられているのです。米国では他殺の割合が非常に大きな部分を占めているのにも関わらず、自殺で死ぬ人々の数の方が更に多いのです。
従って、現実には科学の発展と近代化は、内面的平和や安寧をもたらすものではないということになります。近代化から私たちは多くのものを享受しているにも関わらず、私たちは先人たちよりも内面的平和から遠い場所にあるのです。
内面的平和とは、私たちの人生の大部分において、非常に捉え所のないものです。それはあたかも、私たちが決して手にすることの出来ないもののようでもあります。
私たちの多くは、個人的満足を内面的平和であると勘違いしています。私たちは満足の要素を様々なものの内に見出します。それらは富、性的関係などですが、それらは永続せず、はかないものです。また私たちはしばしば個人的に満足したり、様々な事によって満足したりしますが、これは内面的平和ではありません。真の内面的平和とは、人生における試練や困難を乗り越えることの出来る安定した感情と満足感なのです。
私たちは、平和が私たちの周りの世界に存在するものではないことを理解しなければなりません。なぜなら辞書にある平和の定義とは、戦争や争いからの解放であると述べられているからです。これは一体どこに見られることでしょうか?世界のどこかでは必ず戦争や何らかの争いが行なわれています。国家レベルでの平和に関して見る場合、平和とは無秩序からの全人の解放であり、その安全ですが、これが完全に達成されている場所は世界中探したとしても見つけることが出来るでしょうか?また社会レベル、家庭や職場に関して見れば、平和とは意見の相違や口論からの解放ですが、意見の食い違いや言い争いの決して起きない社会環境というものは存在するでしょうか?特定の場所だけを見れば、例えば離島のような静かで和やかな場所というのは存在します。しかし、こういった外的な平和というものは僅かな時間しか存在せず、やがては嵐や台風などに見舞われるものなのです。
神はこのように仰られています:
“本当にわれは、人間を労苦するように創った。”(聖クルアーン90:4)
これは私たちの人生の性質なのです。私たちは労苦にもがき、好不調の波に影響され、困難や安楽に出遭うのです。
人生とは一つの試練です。神はこのように仰られています:
“われらは、恐れや飢えと共に財産や生命、(あなた方の労苦の)実りの損失で、必ず汝らを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。”(聖クルアーン 2:155)
私たちの人生における、労苦や困難をもたらす状況への対処としての鍵が、忍耐です。
しかし私たちが求める内面的平和も、それがないことには忍耐することも出来ません。
私たちは労苦や困難の世界に生きますが、その世界に対し、私たち自身の中において内面的平和を達成することは出来るのです。
私たちが平安を得ることを妨げる要因は、もちろん存在しています。従って、私たちの人生において最大限の平和を達成することが出来るよう、まずそれらの要因が何であるかを突き止め、それらを除去する計画を立てなければなりません。障壁は考えているだけでは取り除かれません。私たちは段階的にその除去作業を進展させていくべきです。それでは、私たちはどのようにして、内面的平和の達成を妨げる、それらの障壁を除去すべきなのでしょうか?
第一段階としては、それらの障壁が何であるかをはっきりと認識することです。認識が出来なければ除去も出来ないため、私たちはまずそれらを認識しなければなりません。
第二段階として、私たち自身の中で、それを障壁であると認めることです。例えば、怒りは内面的平和にとっての最も大きな障壁です。人が自らを怒りに任せ、ヒューズの飛んだような状態にある中で、いかにして内面的平和を保つことが出来るでしょうか。もちろんそれは不可能です。従ってそのような人物は、怒りが内面的平和を妨げる障壁であると認知しなければならないのです。
しかし、もしその人物が「それは障壁でしょうが、私は怒ったりはしません」などと主張するのであれば、それは問題の発生を意味します。彼は障壁を問題と見なしておらず、自己否定に入っているからです。そのようなことでは障壁を取り除くことは出来ません。
人生における障壁を見渡せば、それらには様々な見出しを付けることが出来ます。個人問題、家族間の不和、経済的な心配事、仕事のストレス、精神的な迷いなどが挙げられます。そしてそれらの見出しの中にもまた多くの問題が潜んでいるのです。
内なる平和を求めて(2/4):運命の容認
説明: 第二部では、実生活の例や逸話を用いて、人生には制御することの出来る性質の障壁と、そうすることの出来ない性質の障壁が存在し、後者が全能なる神によるものであることを認知する重要性について見ていきます。
- より ビラール・フィリップス博士(アブー・ウスマーン氏録音の講義から転写)
- 掲載日時 25 Jan 2010
- 編集日時 25 Jan 2010
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私たちは多くの問題や障壁を抱えており、それらはあたかも病気のようです。もしもそれらの一つ一つに取り組んだとしても、決して終わりが来ないような感もあります。私たちはそれらを明確にし、一般的な区分に分類し、一つずつではなく、まとめて取り組むべきです。
そうするためにはまず、私たちにとって制御出来ない性質の障壁を削除しなければなりません。何が制御可能な障壁で、何が不可能な障壁かを見極めるのです。私たちは制御不能なものを障壁であると見なしがちですが、現実には異なるのです。それらは神が私たちの人生において運命付けたものであり、私たちはそれらを障壁であると誤って解釈してしまいがちです。
例えばあなたが、白人が好まれる世界において黒人として生まれて来たとしましょう。または裕福な人が好まれる社会において貧乏人として、あるいは身長の低い人か、身体の不自由な人として生まれたとします。
これらの全ては私たちにとって制御の出来ないもの、つまりコントロールの範疇外です。私たちはどの家族に生まれるか選べません。また私たちは、私たちの魂がどの体に吹き込まれるのかを選ぶことなどしませんでした。つまり選択肢はなかったのです。従ってこういった類のものを障壁であると感じるのであれば、現実には間違っているのであると認識しなければなりません。神はこのように仰られています:
“・・・自分たちのために善いことを、汝らは嫌うかもしれない。また自分たちのために悪いことを、好むかもしれない。汝らは知らぬが、神は知っておられる。”(クルアーン 2:216)
従って私たちにとって制御の出来ない障壁を私たちは嫌悪し、変えたいと思うかも知れません。事実、一部の人々はそれらを変えようと多くの富を費やします。
私たちの制御の範疇である障壁が、神による運命なのであると忍耐をもって認知されない限りは、内面的平和が達成されることはありません。
私たちにコントロールの出来ないことが起こったのであれば、神はその中に善きものを据えられ、例え私たちにはそれが何であるか分からずとも、依然としてそこには善きものがあるということを私たちは知るべきです。まずはそのことを認めましょう。
さて、以前ある新聞記事ににっこりと笑うエジプト人男性の写真がありました。彼は両手の親指を突き出して満面の笑みを浮かべており、片方の頬には彼の父親が、もう片方の頬は彼の妹がキスしていました。
写真の下には見出しが付けられており、それによれば彼は前日にガルフ・エア航空のカイロ・バーレーン間のフライトに乗る予定でした。彼は大急ぎで空港に向かったため、空港に着くまで自分のパスポートに判のひとつが押されていなかったこと気付かなかったのです。(カイロでは個人の証明に多くの判が押されていなければなりません。判や署名はあちこちで多用されています。)彼は空港に着くと愕然となりました。彼はバーレーンに教職の出稼ぎをしており、そのフライトは最終便で、それを逃して時間通りの出頭が出来なくなるということは、彼にとって失職を意味したのです。それで彼はフライトに乗せてくれるよう、しつこくせがみました。終いには半狂乱になって泣き叫びながら懇願したにも関わらず、結局搭乗することが出来ず、飛行機は彼を尻目に離陸しました。彼はもう仕事を失ってしまったものと思い込み、悲しみに打ちひしがれて実家へと戻りました。彼の家族は彼を慰め、余り気にしないよう慰めました。しかし翌日、彼が乗るはずだった飛行機が墜落し、乗客が全員死亡したというニュースを彼は耳にするのです。彼はそのフライトに乗らずに済んだことに歓喜しましたが、つい前日まではそのフライトに乗れなかったことによって、人生が終ったかのようなどん底の状態にあったのです。
これらは神によるみしるしであり、こういったみしるしはモーゼとヒドルの物語(私たちが金曜日に読むべき章である、聖クルアーンの洞穴章の中に言及されています)の中にも見出すことが出来ます。モーゼとヒドルを川の向こう岸まで連れて行ってくれた親切な人々の船に穴を開けたヒドルに対し、モーゼは彼になぜそのようなことをしたのか尋ねました。
船の所有者たちがその穴を見つけると、彼らは誰がそんなことをしたのかと驚き、たちの悪いいたずらだと思いました。しかししばらくしてその国の王が川岸までやって来て、穴の開いた船以外の全ての船を取り上げてしまったのです。そして船の所有者たちは、船に穴が開いていたことに関して神を讃えました。[1]
人生には他の障壁、または障壁であると知覚される種類のものがあります。これらのものは私たちにとって知る由もないものです。それはある出来事が起こっても私たちにはその原因が分からず、説明のしようのない類のものです。一部の人々は、それにより不信仰に陥ってしまう場合すらあります。例えば内面的平和の全く無い無神論者の話を聞き、神の存在を否定してしまったような場合です。なぜその人物は無神論者になったのでしょうか?神は私たちを創造し、かれを信じる本能を据えられているため、神を信じないということは不自然なことなのに。
神はこのように仰られています:
“それで汝(ムハンマド)は汝の顔を純正な教え(神以外に崇拝行為を向けない一神教)に、確り向けよ。神が人間に定められたフィトラ(天性)に基いて。神の創造(イスラームの教え)に、変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人々の多くは分らない。”(聖クルアーン30:30)[2]
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう言われています:
“あらゆる子供たちは天性(ムスリムとして神を信じる本能的性質)を持って生まれて来るのだ・・・”
こういったものは人間の本能ですが、子供の頃からそれを教えられることなく無神論者になった人物は、通常何らかの不幸な出来事によってそのようになってしまっているのです。彼らは、彼らの人生で不幸なことが起きても、なぜそのようなことが起きたのか理解出来ないのです。
例えば無神論者になった人物に、素敵な叔母がいたとします。彼女は善良な人物で誰からも愛されましたが、ある日彼女が道路を渡ろうとした時、突然自動車に轢かれ亡くなってしまいました。なぜ彼女に限ってこういうことが起きなければならないのでしょうか?どんなに悩んでも、それは説明がつかないのです。または(無神論者になった)ある人物の子供が亡くなり、なぜ自分の子にこういったことが起きるのかと悩み抜きましたが、全く説明することが出来ません。その結果、神など存在するはずもないと思うようになるのです。
内なる平和を求めて(3/4):人生における忍耐と目的
説明: この波瀾万丈な世界では、人生そのものを究極の目的としないこと、そして忍耐することこそが、私たちのコントロールの範疇内の障壁にあたるものに対しての有効な解決策となります。
- より ビラール・フィリップス博士(アブー・ウスマーン氏録音の講義から転写)
- 掲載日時 01 Feb 2010
- 編集日時 06 Feb 2010
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それではモーゼとヒドルの物語に戻りましょう。彼らが川を渡ると一人の男児がおり、ヒドルは意図的に彼を殺してしまいました。モーゼはどうしてそのようなこと出来るのか、とヒドルを問いただしました。男児は何もしていないのに、ヒドルは突然彼を殺したのです。ヒドルによると、その子には敬虔な両親がいて、もしその子が育てば両親にとって手の負えない存在となり、彼らは不信仰に陥ってしまう(ことを神はご存知である)ため、神は男児の死を命じたのだとモーゼに説明しました。
もちろん、両親は男児の死を知ると嘆き悲しみました。しかしながら神は、彼らにとってより良い敬虔な子供を彼らへ授けられました。その子は親孝行のとても良い子でしたが、両親は長男を亡くしたことから常に心に穴が開いたかのようでした。しかし審判の日、彼らは神の御前に立ち、かれにより長男の命が奪われた理由が明らかにされ、彼らはその時全てを理解して神を称賛することになるでしょう。
私たちの人生の性質とはこういったものなのです。私たちの人生には様々な出来事があります。それらの中にはマイナスに映るものや、私たちの人生における内面的平和への障壁となるようなものがあります。なぜなら私たちはそれらが起こった理由を理解しないからです。しかしそれらは脇へと追いやられねばなりません。
それらは神によるものであり、私たちはそういった出来事の背後にある英知に気付かなかったとしても、究極的には善いことがあるのだと信じなければなりません。それから初めて、コントロール出来る事柄に取りかかることが出来ます。まずそれらを特定し、次なる大きなステップとしてそれらの障壁を除去するためへの解決案を構築していくのです。そのためには自分を変えていくことが大きなポイントです。なぜなら神はこのように仰られているからです:
“本当に神は、人が自ら変えない限り、決して人々(の運命)を変えられない。”(クルアーン 13:11)
これは私たちがコントロール出来る範疇のものです。私たちは忍耐でさえ養うことが出来ますが、一般的にそれは生まれつきのものであると信じ込まれています。
ある男が預言者(彼に神の称賛あれ)のもとを訪れ、彼が天国に行くためには何が必要かを尋ねたところ、預言者は彼に言いました:“怒らないことだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
その男性は怒りやすい性格の人物であったため、預言者は彼にそういった性質を改めなければならないと告げたのです。ゆえに自分の性格や性質を変えるということは可能なのです。
また預言者は言われました:“誰であれ、(忍耐深くあろうと望み)忍耐深い振る舞いをすれば、神は彼に忍耐をお授けになるだろう。”
これはサヒーフ・アル=ブハーリーに収録されています。これは、生まれつき忍耐深くはない人も、忍耐深くなることが出来ることを意味しています。
興味深いことに、西洋精神医学と心理学は、私たちに鬱憤を溜め込まずに発散させることを勧めます。なぜならもし悪感情を溜め込めばいずれは爆発してしまうからで、そうなるよりは発散させてしまったほうが良いと言うのです。
後に、彼らは人々が全てを発散させていると、余りにも強い怒りによって脳の小さな血管が破裂していることを発見しました。彼らは全てを発散させることが実際には危険で、有害な可能性もあることを突き止めたのです。それにより、今では全ての発散は控えた方が良いと彼らは主張するのです。
預言者は私たちに忍耐深くあるよう告げられたため、たとえ内面では怒り心頭であっても、外面では忍耐深い人物であるように振る舞うべきなのです。しかしそれは人々を欺くためではなく、忍耐を形成するための一環としてなされるべきです。私たちが一貫してそうすれば、忍耐に対する外的観念は内的なものとなり、上記のハディースにあるように、結果的に忍耐が達成されることになります。そしてそれは、達成可能なことなのです。
その方法の一つとして、忍耐とその達成に対し、人生の中の物質的要素がいかに大きな影響を及ぼしているかを認識することが挙げられます。
預言者はそれらの要素をどのように対処するべきであるかという件に関し、次のような助言をされました:
“自分よりも上の者、あるいは裕福な者たちばかりを見てはならない。その代わり自分よりも下の者、あるいは不幸な者たちを見るのだ。”
なぜなら私たちの状況がどうであろうと、私たちよりも恵まれない人々というのは必ず存在するものであるからです。これは物質主義的人生における一般的な戦略であるべきです。昨今では物質主義が人生の重きを占めており、私たちはまるでそれに取り憑かれているかのようです。あたかも最優先されるべきものは、いかに多くのものを得ることが出来るかということであるかのようで、私たちの大半はそのことにエネルギーを使います。しかしもしやむを得ない場合は、自分の内面的平和に影響を与えない範囲でそのようにするべきでしょう。
物質主義の社会で生活するにあたり、私たちが自分たちよりも成功を収めている人々に焦点を当て続ける限り、自分の持っているものに満足することは決してありません。預言者はこう言われています:
“アダムの子孫(人類)に金塊で埋め尽くされた谷間を与えたとしても、やがて更に多くのものを求めるだろう。”(サヒーフ・ムスリム)
「垣根の向こうの芝生はより青い」ということわざがあります。多くを持つ人はより多くを求めるのです。そのように追い求めているだけでは、物質主義的世界において決して満足感を得ることはないでしょう。むしろ、私たちは恵まれない人々に注意を向け、それがどんなに小さなものに見えたとしても、神によって自分に授けられている祝福と慈悲を思い出すべきなのです。
物質主義的社会の中の私たちの生活において、適切な観点を定めることの一助となる言葉を、預言者ムハンマドは残しています:
“神は、現世を目的とする者の諸事を混乱させ、その眼前に貧困をもたらすであろう。そして彼は、神が彼のために既に定められたもの以外には、何も得はしないであろう。”(イブン・マージャ、イブン・ヒッバーン)
ゆえに、もし現世が最大の目標とされたのであれば、彼の行動は実を結ばないものとなり、頭を切断された鶏のようにあちこちを狂ったように駆け回ることになるのです。神は彼の眼前に貧困をもたらすため、その者がいかにお金を所有していようが、常に自らを貧しいと感じるのです。そして誰かが彼に優しかったり、微笑みかけたりするだけで、彼は人々の下心を疑うようになり、誰一人信じることも出来ず、幸せでなくなるのです。
株価の市場が暴落すると、投資家が自殺を試みる報道を目にします。ある人が8億円を持っていたとして、暴落の結果5億円の損失を出し、3億円が残ったとしても、彼にとってその5億円の損はこの世の終わりのようなものなのです。神が彼の眼前に貧困をもたらしたため、彼はその後生きる意義を見出さなくなります。
内なる平和を求めて(4/4):神への従順により得られる内面的平和
説明: 真の内面的平和とは神に従うこと、すなわち人生をかれだけのために生きることと、かれを想起すること、そして現世ではなく来世を優先することにより見出されます。
- より ビラール・フィリップス博士(アブー・ウスマーン氏録音の講義から転写)
- 掲載日時 01 Feb 2010
- 編集日時 06 Feb 2010
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真の内面的平和とは神に従うこと、すなわち人生をかれだけのために生きることと、かれを想起すること、そして現世ではなく来世を優先することにより見出されます。
私たちは、神が既に定められたもの以外には、現世で得ることの出来るものはないということを念頭に入れておかなければなりません。所狭しと働き回り、夜遅くまで寝ず、仕事中毒であったとしても、人は神が既に運命によって定めたものしか得ることが出来ないのです。預言者(神の称賛あれ)は言われました:
“神は、来世を目的とする者の諸事を容易にされ、またその心には(信仰の)豊かさを与えられ、そして世界は彼へと嫌々ながらも従順に従うだろう。”(イブン・マージャ、イブン・ヒッバーン)
このような人物は心の豊かさを得ます。豊かさとは多くの富を所有することではなく、心の富を得ることであり、つまりそれは満足感なのです。これが、人が神に従うことによってもたらされる平和の源泉であり、イスラームの意図するものなのです。
内面的平和とは心からイスラームを受け入れ、イスラームの原則に則った生活をすることです。そうすれば神は人の心に豊かさを据え、世界は彼に従順かつ謙虚に従うのです。そのような人物にとり、世界を追求する必要はありません。
もし人が優先事項-つまり来世-を第一にするのであれば、預言者は成功を約束されています。もし私たちが天国を望むのであれば、その希望は私たちの人生においてもはっきり表れているべきであり、また私たちの第一の焦点であり、優先事項であるべきなのです。
では、いかにして来世に焦点を絞る人を見極めることが出来るでしょうか。誰かと席を共にした時、その人の会話の内容が全て新しい車や高価な住宅、旅行や休暇、お金などの話題といった物質的なことだったり、あるいは噂話や世間話なのであったりすれば、彼の焦点が来世に向けられてはいないことが分かります。もしも私たちの焦点が来世に向けられているのであれば、その会話の内容にそれが反映されているはずなのです。これは私たちが自分自身を審理する最も基本的な材料であるため、私たちは立ち止まってこう自問すべきです:“私たちが話している話題に最も費やされている主題は何だろうか?”
もしも私たちが、現世を第一の目的としているのであれば、私たちはその焦点を合わせ直すべきであり、優先事項を第一に置くべきです。すなわち、この現世での生活よりも来世を優先することであり、そうすることにより私たちは内面的平和を達成することが出来ます。神はクルアーンにおいて、このことが内面的平和を得るための確実な手段であるとして明らかにされています:
“これら信仰者たちは神を念じ、心の安らぎを得る。神を念ずることにより、心の安らぎが得られないはずはないのである。”(クルアーン 13:28)
ゆえに心は、神を念じることのみによって安らぐのです。これこそが内面的平和です。神への想念は、ムスリムとしての行いの全てに含まれています。イスラームは神を念じる生き方であり、神はこのように仰せられています:
“われを念じるべく礼拝に立つのだ。”(クルアーン 20:14)
私たちが(イスラームにおいて)行う全ての行為は、ムスリムとしての神への想起です。神は仰せられました:
“言え。「私の礼拝と奉仕、私の生と死は、万有の主である神のためである。」”(クルアーン 6:162)
従って、私たちの人生のあらゆる側面において神を思い起こすことこそが、内面的平和を達成するための道なのです。
この想起(ズィクル)とは、暗室の角に座って常に「アッラー、アッラー、アッラー・・・」と唱え続けるような、ある種の人々が考えているようなものではありません。これは私たちが神を想起すべき方法ではないのです。そのようなことをする人物は、アッラーの御名を口で言ってはいますが、よく考えてみれば、もし誰かがあなた(名前をムハンマドとします)を訪れて「ムハンマド、ムハンマド、ムハンマド・・・」と言い続けたとすれば、あなたはこの人物を変わった人物と思うでしょう。「彼は何かを欲しがっているのだろうか?」または「何かを必要としているのだろうか?」あるいは「それ以外に何も言わず、私の名を呼び続ける目的は何なのだろうか?」といぶかしげに思うはずです。
それは神を想起する方法ではありません。なぜなら預言者はそういった方法で神を想起しませんでしたし、彼がそうしたという記録も存在しません。またある種の人々は、踊りや左右に揺れる動作を繰り返すことにより神を想起するべきであると主張します。預言者はそのような方法で神を想起しておらず、またそういった記録も無いのです。
預言者は彼の人生において神を想起しました。彼の人生は神を絶えず念じた人生であり、祈りや生死における想起こそが本物の想起なのです。
まとめると、内面的平和の探求には、私たちの生活に存在する諸問題の認識、また私たちの障壁の認識、そしてそれらの障壁が認識され、その内のどれに変化をもたらすことが可能なのかという理解と、変化させることの出来るもの、つまり自分自身に関わるものに対しての努力が関係してきます。
私たちが自分自身を変えて行けば、神は私たちの周りの世界を変え、周囲とうまくやっていける術を私たちにお与えになるのです。例え世界が波瀾万丈であれ、神は内面的平和を私たちにお授けになるのです。
どんなことが起ころうが、それは神による定めや試練であり、それが究極的には私たちのためにとって善いことであり、その背後には英知が潜んでいるのです。神は私たちをこの世界に創造され、それを天国に入るための試練とされましたが、この世界の試練とは、私たち自身の精神的成長のためなのです。もしも私たちがこれらの事実を全て認識し、心から神の存在を認めるのであれば、内面的平和を発見することが出来るはずでしょう。
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