Richard Leiman, Ex-Jew, USA
説明: イスラームを実践し、最終的にムスリムになることによって、いかにこの米国人コンピュータ・プログラマーが平穏を見出したかについて。
- より Richard Leiman
- 掲載日時 01 Dec 2014
- 編集日時 01 Dec 2014
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私は子供の頃から、ラジオの短波放送を良く聞いていました。私はBBCワールドの中東関連のニュースを良く聞いていましたし、世界各地の音楽を聞くことも大好きで、おそらくクルアーンの朗誦も耳にはしていたはずですが、当時はそれが何だかは分かりませんでした。
成長の過程においても、私はBBCワールドを聴き続けていました。当時は「Worlds of Faith(世界の信仰)」という番組があり、英国における諸宗教の代表者によって、各曜日に毎回5〜8分の講演がされていました。私はすべての講演者の中でもムスリムによるものが一番好きでした。
ムスリムの講演者が話すときはいつも、イスラームについてもっと知りたくなりました。私によるイスラーム実践者たちの印象は、米国のメディアによって描かれているような意地の悪い人々ではなく、幸福で嬉々とした人々でした。私はアッラーをこよなくを愛する人々が、メディアで描かれているような人々なんかであるはずなどないと拒否しました。なぜなら私はユダヤ教のバックグラウンドから持つので、私とイスラームとをつなげたのは、アッラーには同位者がないという信仰だからです。
英国での仕事
私は本物のムスリムとの対面を機に、人生における重要な転機が訪れましたが、まだその人物がムスリムであるとは気付いていませんでした。私はニューヨーク州でコンピュータ・プログラマーとして働いており、当時は英国訪問の欲求に駆り立てられていました。
ロンドンを訪問した私は、そこの虜になりました。訪問中、私は何の用意もなしに雇用仲介業者へ行きました。業者の一人が何冊かのビジネス雑誌をくれました。米国に戻った私は、雑誌に掲載されていたいくつかの会社やその他の業者に、どんどん履歴書を送り始めました。その内の一社から面接を希望されたので、私はまた英国に飛びました。そこでさらに多くの会社や業者を訪れた末、訪問ビザだったにも関わらず採用されることが決まりました。
私を雇った会社は私の就労許可を申請したため、私は労働省から書類手続きのために一旦帰国しなければならないと告げられました。私は再度米国に戻りました。別の業者が非正規雇用許可を取得してくれ、当時サリー州エガムにあったロゴテックという会社で就職することになりました。
本物のムスリムとの初対面
ロゴテックで働き始めてしばらく経つと、自分の上司であるアニース・カリームがムスリムだということを知りました。私は彼にクルアーンの写本が手に入るか尋ねてみました。驚いたことに、彼は数日内に私のためにそれを持ってきてくれました。彼は私がクルアーンを読む前に入浴すること1、そしてそれに対して冒涜的な発言をするような人物には決してそれを見せないことを約束させました。
翌日、私は朝の入浴を終え、朝食を作りました。それから朝食を食べながら読み始めました。その後、私はアッラーが天使ガブリエルを通し、預言者が読み書きを出来ないにも関わらず、彼に「読め」と命令したことを知りました。
世界で最も神聖な書物の、その小さな部分を読んだだけで私が感じたことを文字にすることは不可能です。僅か10ページを読んだだけで、私はこの宗教が私に見合ったものであると実感しました。それは確か1990年のことでした。読めば読む程、私は知識欲に駆られ、自分が読んでいるものを愛するようになりました。
当時、私は礼拝の方法やイスラームの詳細については一切知りませんでした。もしアニースが私をロンドンのモスクに招待したなら、私は彼と一緒に行ったことでしょう。アッラーへの礼拝について唯一知っていることは、跪礼の姿勢だけでした。そのときは、ムスリムたちが一日に何度か祈りを捧げていることも知っていたので、私も就寝前と起床後にそうすることにしました。
再び米国へ
就労許可の期限が切れ、米国に戻らなければならなくなり、私は数年間に渡って失業状態が続いていました。私はアラバマ州ハンツビルに住む父親を訪ね、彼のためにデータベース・アプリケーションを作成しました。ハンツビルはハイテクな多文化都市であることが分かったので、そこでプログラマーの仕事を探してみることにしました。父は、もし私が就職出来なければ、ニューヨークからニュージャージーに引っ越した母親の元に引っ越さなければならないと言いました。ニュージャージーに引っ越す予定日だった2週間前になり、私はハンツビルのある会社でプログラマーとしての仕事を見つけることが出来ました。
マスジドへの初訪問
私は妹とインドネシアへの旅行を計画していました。インドネシアには、私たちのネット上の文通友達がいたからです。妹はおみやげとしてイスラーム的なジュエリーの購入を私に頼んできました。その当時、私はハンツビルにムスリムがいるとは思いもしませんでした。
それからアッラーは私のために物事を進めてくれました。私は「Crescent Imports(三日月輸入品)」という店があるのを思い出し、そこにムスリムがいるかも知れないと思ったのです。しかし違いました。そこはネーション・オブ・イスラームという団体によって経営されていたのです。ここからが、アッラーにしか計画することの出来ない奇妙な部分です。私たちが店主と話し、イスラーム的なジュエリーを探している旨を伝えると、彼はハンツビル・イスラミックセンターを紹介してくれたのです。
私は彼らがモスクを紹介してくれたことをアッラーに感謝します。私たちはそこへ行きましたが、外には車が一台しか停められていませんでした。車の中にいた人物と話すと、彼は私がジュエリーについてイマームに尋ねてみることを勧めました。私はその建物に入るのに恐怖を感じました。そこは私にとっては神聖な場所だったからです。
そのとき、職場でヒジャーブを着けている女性のことを思い出しました。私は彼女にイスラームに改宗するにはどうすれば良いのか尋ね、彼女は「ハンツビルのモスクに行ってみてはどう?」と言っていたのです。後日、私は勇気を振り絞ってその神聖な場所に戻ることにしました。
イマームと話すと、彼は私がムスリム同胞たちと一緒に礼拝をしてみないかと誘ってくれました。これが、私の人生における転換点でした。私はそれを大好きになり、まず週に一度モスクに通うようになり、やがて週に何度も行くようになりました。モスクに通う頻度は私の衝動と共に増え、現在では職場にいる時間帯であるアスルとマグリブ以外のほとんどの礼拝をモスクで行っています。
正式なイスラーム改宗
1996年の11月、私は正式にシャハーダ(改宗に必要とされる信仰宣言)を行いました。ズフルとアスルの礼拝は職場で一人で行うか、職場付近の小さなモスクで同胞たちと行っています。私は他人からそれは何かと質問されるのを期待しつつ、職場の廊下などで堂々と礼拝用絨毯を持ち歩いています。人に聞かれると、私は自分がムスリムで、この敷物は礼拝するたものものだと答えます。また私の職場は、コンピュータも含めイスラーム的な飾りで装飾しています。コンピュータの壁紙は通常はマッカのカアバ聖殿か、自分の通うモスクの写真です。
ムスリムになった私にとって、不信仰へ戻るという選択肢はもうありません。
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