ウンム・アブドルアズィーズ 米国出身の元キリスト教徒(3/4):キリスト教のバイブル
説明: キリスト教のバイブルを精査すると、「イエス・キリストに対する第2世代の意見」というものの存在が明らかになります。
- より ウンム・アブドルアズィーズ
- 掲載日時 24 Mar 2014
- 編集日時 26 Mar 2014
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そして最後に、私はバイブルの歴史とその信頼性について調査をしてみることにしました。私はバイブルの教えだけでなく、「バイブルとは何か」について自問しました。大半のキリスト教徒たちは、「バイブルとは神の言葉である」と答えるでしょう。私は当然ながら、「神の言葉である」この啓典に対しての信仰を正当化する必要がありました。バイブルが「神の言葉」だということを証明するには、神の言葉が人間に対して口述され、人間の手がそれを書き取り、そして今日バイブルとして知られる書物がそれら神の言葉の集合体であることが示されなければなりません。私は、自分を含む多くのキリスト教徒たちがバイブルを「神の言葉」として信じているのは、伝統的にそう受け止められてきたからであることを知りました。それゆえ、「その伝統はいつ始まったのか」という疑問が浮かび上がってきました。バイブル自体はこう述べています。“すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。”(第一テサロニケ5:21)イエス自身、人によってつくられたものではなく、神によって与えられたものに従うよう警告しています。彼は預言者イザヤを引用し、こう述べています。“人間のいましめを教義として教え、無意味にわたしを崇拝している”(マタイ15:9)
まず、私はそれら「神の言葉」を書き留めた人物の調査を始めました。多くの場合においては、バイブルの書物の著者が誰かというのははっきりとしていません。特に旧約聖書のすべての書、また福音書、ヘブライ人への手紙、ヨハネの手紙、そしてヨハネの黙示録といった新約聖書の一部の書がそれにあたります。著者が不明、もしくは不確定であるとき、その著者と書物双方の神の啓示としての正統性を判断することは不可能となります。大半の学者たちは、旧約聖書のすべてがバビロンのネブカドネザル王がエルサレムを征服して焼き討ちして以来、書き直されたものだと見なします。
次に、バイブルを読むと、多くの間違いや矛盾に突き当たるという問題があります。(その例の一部として、以下を参照して下さい。ヨハネ1:29とマタイ11:3、マタイ21:2−7とマルコ11:2−7、マタイ27:28とマルコ15:17、マタイ27:55、ルカ23:49とヨハネ19:25、マルコ15:32とルカ23:39−43、使徒行伝9:7と使徒行伝22:9、マタイ10:2−5とルカ6:13−16、ヨハネ20:9とルカ24:6−7、マルコ2:25−26とサムエル記上21:1−6、ヨハネ3:13と列王記下2:11−12とヘブライ人11:5、ヨハネ5:31とヨハネ8:14、マタイ27:5と使徒行伝1:18,マタイ1:2−6とルカ3:23−38、サムエル記下24:1と歴代誌上21:1、列王記上7:26と歴代誌下4:5、また完全な剽窃に関しては、列王記下19とイザヤ37をご参照下さい。)「神の言葉」において、間違いは許されるでしょうか? もちろんそうではありません。神による真の啓示は、あらゆる間違いから無縁でなければなりません。間違いがあるという事実は、そこに人の手が加えられたということを示しています。またバイブルは、神の預言者たちが偶像崇拝、近親相姦、殺人、姦通などを犯したとして彼らの品格を貶めています(サムエル記下11:2−27、イザヤ20:2−3、創世記19:30−38、列王記上11、士師記16:1、創世記32:25−30、エゼキエル4)。神がそのような弱い個人を聖なる使命のために選んだということなどあり得るでしょうか? 神はその教えを広めるため、卓越した人間を選ぶということが、より理にかなったことではないのでしょうか?
第3に、多くのキリスト教徒たちは、彼らの信仰はイエス自身の言葉に基づいたものであると主張することから、共観福音書が記述するような出来事は実際の証人によって記されたものではなく、それは“第2世代のイエス・キリスト観”(Christian Bible commentary)を描いたものであるということに言及することが重要です。また、イエス(彼に平安あれ)が語ったとされる言葉は、イエスが実際に使用した元来の言語では残されていないのです。
第4に、新約聖書の使徒書簡については、なぜある人物による他人の伝記、またはある牧師による彼の教会への手紙が“神の言葉”とされなければならないのでしょうか? 彼らが聖霊による助けによって書いたものだと主張することは出来るかもしれませんが、私たちは新約聖書において、多くの使徒たちが聖霊の助けによって宣教したのであるという記述を見出します。そうだとすると、彼らの語った全ての言葉は“神の言葉”ということになるのでしょうか? もし現在、ある牧師に聖霊が乗り移り、彼の教会に対して手紙を書いたのなら、その手紙は“神の言葉”であると見なされてしまうのでしょうか?
バイブルについてより多くを学ぶにつれ、私はそれが純粋な神の言葉としては信用が出来ないことを確信しました。しかしイスラームは、バイブルにおいて改竄されたものの量は、改竄されずにいたものよりも少ないということを間接的に主張しています。クルアーンは“啓典の民”が彼ら自身の啓典に従わなかったこと、そして啓典の意味をねじ曲げたことからユダヤ教徒とキリスト教徒を譴責します。そこで、ムスリムの啓典はどういう状況なのかと問いかけることが合理的かつ適切であると感じました。私はバイブルを精査したように、聖クルアーンの精査を開始しました。
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