イスラーム文明に関する引用(パート2/2)
説明: 著名人によるイスラーム文明・文化についての特筆すべきコメントのパート2。
- より A.ザフール博士(IslamReligion.com編集)
- 掲載日時 21 Mar 2011
- 編集日時 21 Mar 2011
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フィリップ・ヒッティー
「簡潔にみるアラブ人の歴史」からの引用
“中世初頭、アラブ人—アラビア半島に住む人々だけでなくアラビア語を話す人々を含めた場合—よりも人類の発展において重要な寄与をした人々は他にいません。極東を除いて、数世紀もの長きに渡って学問や文化に代表されるような文明世界の知的発展に関わった言語がアラビア語だったのです。9世紀から12世紀にかけて、哲学、医学、歴史、宗教、天文学、地理学などの学問の記述に関し、アラビア語よりも頻繁に使用されていた言語はなかったのです。”
カルラ・デヴォー
「イスラームの哲学者たち」(パリ、1921年)からの印用
“また、インドのムガール帝国(1526—1857)が、タージ・マハル(1648年完成)や、アブル・ファズルの‘アクバル・ナメ”といった、それまで世界の人々が見たこともなかったような建築美を同時にもたらしたことは、忘れることの出来ない事実です:
‘人生におけるあらゆる側面が考察、描写され、生き生きしたアイデアと知識による並外れた成果、そして人々を眩惑させ続ける進歩は、東洋文明が堂々と誇るべき功績である。この本でその天才性をあらわにした男たちは、政治技巧の実践において時代を遥かに先取りしており、また彼らは恐らく宗教哲学に対する推測に関しても進歩していたのである。それらの哲学者と詩人たちは、世界や物質と接する方法を知っていたのだ。彼らは観測、分類、計算、実験をした。彼らに浮かんだアイデアはすべて事実に照らされて検査されたのである。彼らはそれらを雄弁さをもって表現するが、それらは同時に統計からも裏付けられていたのである。’
・・・寛容の精神、正義、そして人間性が、アクバルによる長期の統治によって顕現したのです。”
マルセル・クレルジェ
「 La Turquie, Passe et Present(トルコ―その現在と過去)」(パリ、1938年)からの引用
“スレイマン大帝による統治のオスマン帝国において、法と科学の発展に基づいた高い文化レベルの証拠がたくさん発見されています。そこからは、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語によって花を咲かせた文芸作品、イスタンブール、ブルサ、エディルネに見られる近代的建築物、豪華産業の急騰、宮廷貴族や高官たちの贅沢な暮らし、また重要なものとして宗教的寛容さなどが観察されます。トルコ、ビザンチン、イタリアによる様々な影響の混合が、オスマン帝国による最も画期的な時代を創り上げたのです。”
長老マイケル
「 Michael the Elder, Chronique de Michael Syrien, Patriarche Jacobite d’ Antioche(長老マイケル―アンティオキアのシリア正教会・総主教による年代記」(J.B. Chabot, Editor, Vol. II, Paris, 1901)からの引用
“これこそが、唯一にして全能であり、いずれは滅ぶべき運命にある帝国の運命を握り、それを御心のかなう人物に授け、その支配において我々の教会や修道院から冷酷にも略奪し無情にも我々を破滅に導いたローマ人たちの凶悪性をあらわにし、南方からイシマエルの子孫(訳者注:アラブ人のこと)を、彼らによってローマ人の手から逃れることの出来るよう差し向けた、復讐の神によるものなのである。そしてもし現実に我々が何らかの被害を被ったのであれば、それはカトリック教会が奪われ、カルケドン派に譲渡され、そのまま彼らの所有に留まったことによるのだ。アラブ人たちは町を占有すると、各宗派に教会を割り当てたが(そしてその当時、既にホムスとハッラーンの大教会は我々から奪われてしまっていたのだ。)、それにも関わらず、ローマ人の我々に対する凶悪性、獰猛性、そして残虐性、また我々が人々のもとに戻ることの出来たことは我々に取って少しも好都合なことではなかったのだ。(シリア正教会の総主教であるアンティオキア[現在はトルコの一都市]の長老マイケルは、ムスリムがその地域を征服した5世紀後の12世紀後半にこの文章を記しています。628年にシナイ山の聖カトリーヌ修道院の修道士宛として送られた関連書簡を読むにはここをクリックして下さい。)
ジョン・バゴット・グラブ卿
“カリフ・マアムーンの支配(813—833)は科学と知識習得における黄金時代であったということが出来ます。彼は常に書物や知識の探求に身を捧げました。彼の優れた知性はあらゆる分野の知的活動に興味を示し、詩ばかりでなく哲学、神学、天文学、医学、そして法学に自らの時間をつぎ込んだのです。”
“マアムーンの時代になると、バグダッドにおける医学教育は極めて活発となりました。ハールーン・アッ=ラシードの時代には、初の無料公立病院がバグダッドに開設されました。技術が発達すると共に、内科医、外科医は医学生たちへの講師として任命され、実践の基準を満たすとみなされた生徒達へ免状を発行しました。エジプト初の病院が872年に開設すると、その後スペイン・マグリプからペルシャを跨いだ帝国全体に公立病院が普及するようになったのです。”
フラグによるバグダッド・ホロコースト(1258年)について
“街は組織的な略奪、破壊の後に火打ちの憂き目に遭いました。当時80万人もの人々が殺害されたと言われています。カリフ・ムスタアスィムは袋詰めにされ、モンゴル軍の軍馬に踏みつぶされて処刑されました。
“500年間に渡り、バグダッドは宮殿やモスク、図書館、そして大学を有する学術都市でした。その大学と病院の数々は、世界の最先端を行く優秀なものだったのです。しかし現在では瓦礫の山や人の死臭の他には何も残されていません。
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