神の擬人化(4/5):神は人になったのか、そしてそれは可能なのか
- より ビラール・フィリップス博士
- 掲載日時 14 Feb 2011
- 編集日時 14 Feb 2011
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神は人になったのか?という質問がまだ答えられていません。論理的にはその答えは「いいえ」となります。なぜなら神が人になるということは「神」という言葉の持つ意味に相反するからです。一般的に、神は全能であると言われます。かれがお望みであれば、それが何であれ起きるのです。キリスト教の聖書によれば、こう書かれています:「...神にとってはどんなことでも可能です(マタイ伝19:26、マルコ伝10:27、14:36)。」
また、ムスリムのクルアーンはこう述べます:
「...本当にアッラー(神)は、すべてのことに全能であられる。」(クルアーン2:20)
ヒンズー教の経典にも、同様の意味を持つテキストがあります。
すべての大宗教の経典には、神の全能性についての一般的な概念が記されています。かれはあらゆるものよりも偉大であり、かれによってあらゆるものは可能になる、とされます。この一般的概念が実践に移されるのであれば、まず神の基本的な特性を見極め、理解しなければなりません。大多数の社会において、神は永久なる存在であり、始まりも終わりもない者であることを認めています。では、神にとってあらゆることが可能であることを踏まえ、神は死ぬことがあるのかと誰かが質問したとすれば、それに対する答えは何でしょうか?死ぬことは「あらゆること」の一部に含まれるため、「もしもかれがお望みであれば」と答えるでしょうか?もちろん、それは不正解です。
ここで問題が発生します。神は不死であると定義され、終わりのない存在であり、死ぬことは「終わりが来る」ことを意味します。従って、かれが死ぬことが可能であるかどうかを問うことは、実際には無意味な質問なのです。それを自己矛盾しているからです。同様に、神が生まれるかどうかを質問することも、かれは永久なる存在であり、始まりがないことから不合理な質問なのです。生まれるということは始まりを持つことであり、存在しなかった状態から存在するようになることを意味します。同じような文脈から、無神論の哲学者たちは有神論者にこう尋ねます:「神は自分でも持ち上げられないような重い石を創ることが出来るでしょうか?」もしも有神論者が「はい」と答えれば、それは神は自分よりも偉大なものを創りだすことが出来ると答えることになってしまいます。そしてもし彼が「いいえ」と答えれば、神は全能ではないということにされるのです。
従って、「神はすべてのことに全能であられる」というフレーズの中の、「すべてのこと」という言葉は不条理さを排除しているのです。そこには、神の性質に矛盾すること、つまり忘却や睡眠、悔悟、成長、食事などの、かれを神以下の存在にするものが含まれる余地がありません。その代わり、そこにはただかれが神という存在としての首尾一貫した「すべてのこと」のみが含まれます。これが「神はすべてのことに全能であられる」という既述が意味するところなのです。それは絶対的な意味としてではなく、条件付きで理解されなければならないのです。
神が人間になったという主張もまた、不条理なものです。神が人間の特質を持つようになるということは、神が自らの創造物になることを意味するため、神という存在に似つかわしくありません。創造という行為は、創造者による創作の産物です。もしも創造者が自らの創造物になったのであれば、それは創造者が自らを創り出したことになり、明らかに道理に反します。被造物となるには、まずその前に存在しなかったことになるでしょう。存在しなかったのであれば、いかにして創造することが出来るでしょう?さらに、もし彼が創造されたものだったのであるとすれば、それはかれに始まりがあったということになり、かれの永遠性に矛盾が発生することにもなります。定義上、創造には創造者が必要とされ、創造された存在は、その存在のために創造者によって存在をもたらされる必要があります。神は創造主であり、創造者を必要としないため、そこには明白な矛盾が発生します。神がその創造物になるという主張には、かれ自身に創造者が必要になるという概念を意味します。それは神が創造主であり、創造される必要がなく、被造物ではないという基本的概念に反します。
人は神となれるのか
人間は有限の存在(被造物)です。人は生まれ、かつ死にます。これらの特性を神に当てはめることは、それによって神とその創造物を同等のものとするため、可能ではありません。従って神は決して人間となることはなく、過去にそうなったこともないのです。一方、人間も神となることは出来ません。被造物がその創造主になるということはあり得ないことです。被造物には存在しなかった時間があります。被造物は、常に存在する創造主による創造という行為によってその存在をもたらされたのです。存在しないものが自らを創造をすることは出来ません。
その類似概念である、人間の魂に神性があるという主張は、人が神になれるということを意味しています。こういった哲学はギリシャ、キリスト教、ムスリムによる神秘主義だけでなく、またヒンズー神学の基礎をも築いており、すべての人間のみならず、場合によってはすべての生物にその神性を与えるのです。それは宇宙の歴史におけるある時点で、神の破片が物質的肉体によって包囲され、地上に閉じ込められた、という前提で始まります。別の表現をすれば、永遠性が有限性によって封じ込められたことになります。こういった信条は神に純粋悪という性質を付属し、善と悪の意味を完全に除去してしまいます。人間の魂が悪を意図し、神の許しによってそれを実行したのであれば、そういった行為は懲罰を受けるにふさわしい純粋悪です。それゆえ、カルマ(業)という概念が開発されたのです。つまり自業自得の観念です。不可解な苦しみは前世の悪行による結果であるとカルマは説明します。神はいかなる悪であれ、最終的には人間の内に潜む神性によって、その体の部位によって罰を与えますが、人の魂が神からは独立した意志を持っているのであれば、同時に神であることは不可能なのです。したがって、人間はそれぞれが神となる、とされているのです。
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