ムスリム統治時代のスペイン
説明: ムスリムたちがスペインに到達すると、それまで無学な人々を擁し、不毛だった土地は、ヨーロッパにおける学問と農業の中心地として栄え、あらゆる宗教はムスリムの統治下で安全を保障されました。
- より ディーン・ダーハック(IslamReligion.com
- 掲載日時 26 Sep 2011
- 編集日時 26 Sep 2011
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ヨーロッパ文化について考えるとき、まず最初に頭をかすめるのはルネッサンスではないでしょうか。ヨーロッパ文化の多くは、芸術、科学、商業、建築などが発展した、その輝かしき時代にルーツを辿ります。しかしルネッサンスよりもずっと前に、ムスリム統治下のスペインにおいてヒューマニスティックな美が存在していたことをご存知でしょうか?それは芸術的、科学的、商業的だっただけでなく、同時に信じられない程の寛容さ、イマジネーション、詩情を含んでいたのです。ムスリムたちはスペインに700年近くに渡って居住していました。これから説明されるように、彼らの文明こそがヨーロッパを啓蒙し、暗黒時代から抜け出す案内役を担い、ルネッサンスへのきっかけを与えたものだったのです。彼らの与えた文化的・知的影響は、今日においても見出すことが出来ます。
時は遡って8世紀頃、ヨーロッパはまだ中世の真っ只中でした。その著書「The Day The Universe Changed(全宇宙が変わった日」において、歴史家ジェームズ・バークは一般的なヨーロッパの住民がどのような生活をしていたかを描写しています:
“住民たちは、狭い通路の真中にあった排水溝に、すべての廃棄物を放り込んでいました。悪臭は強烈だったでしょうが、どうやらそれは気に留められていなかったようです。糞尿の混ざった汚れた床はアシやワラで覆い隠されていたのです。”(32頁)
このような汚らしい社会は封建制度によって管理され、商業的な経済活動に似通ったものがあっただけでした。カトリック教会は様々な規制の上に、金銭の貸し付けも禁じていたため、発展への道は閉ざされていました。“それ以前には稀だった反ユダヤ主義が次第に増加してきました。教会によって禁じられていた通貨の貸与は、ユダヤ法では許可されていました。” (Burke, 1985, p. 32) ユダヤ教徒は厳しく迫害されながらも、通貨の発展に尽力しました。中世ヨーロッパは無教養、迷信、野蛮さ、汚物の蔓延した悲惨な地でした。
この同時代に、ムスリムは南部からヨーロッパに進出しました。ムスリム帝国のカリフ一族の生き残りだったアブドッラフマーン一世は、700年代中盤にスペインに到達しました。彼はムスリムが統治したスペインの区画の通称であるアル=アンダルスの初代カリフに就任しました。その広さはイベリア半島の大半を占めました。また彼はアル=アンダルスを300年以上に渡って統治した後ウマイヤ帝国の創設者でもあります (Grolier, History of Spain)。アル=アンダルスは、“バンダル族の地”を意味し、現在使われているアンダルシアの語源となりました。
当初、そこは他のヨーロッパ各地同様に汚らしい土地でした。しかし、ムスリムたちは200年もかからない内にアル=アンダルスの文化、商業、美を開花させたのです。
“シリアとムスリミアから輸入された灌漑の概念は、乾いた平地を豊穣な土地へと豹変させました。オリーブや小麦は以前から収穫されていましたが、ムスリムたちはザクロ、オレンジ、レモン、ナス、アーティチョーク、クミン、コリアンダー、バナナ、アーモンド、ヘンナ、アカネ、サフラン、サトウキビ、コットン、米、イチジク、ブドウ、桃、アンズなどを栽培したのです。”(バーク、1985、37頁)
9世紀初頭になると、首都コルドバを擁するムスリム統治のスペインは、ヨーロッパの宝となっていました。「コルドバの偉大なカリフ」と呼ばれたアブドッラフマーン三世の統治期には、アル=アンダルスが黄金期を迎えていました。スペイン南部のコルドバは、ヨーロッパの知識の中心地となりました。
ロンドンが依然として「街灯一つ灯すことも出来なかった (Digest, 1973, p. 622)」小汚い農村だったとき、コルドバは:
“…50万人の人口が11万3千軒の家々に住んでいました。そこには郊外も含め、7百軒のモスクと3百軒の公衆浴場が街中にありました。道路は舗装され、街頭も灯されていたのです。”(Burke, 1985, p. 38)
“家々には大理石で出来た夏用バルコニーがあり、モザイク調の床下に温風を通す配管が冬用に敷いてありました。家々は庭園や噴水、果樹園などによって美しさが引き立てられていました”(Digest1973年、622頁)“西洋においてまだ未知の存在だった紙が溢れていましたし、本屋は当然のこと、70以上の図書館もありました。” (Burke, 1985, p. 38)
ジェームズ・クルージはその著書「Spain In The Modern World(現代世界の中のスペイン)」の中で、中世ヨーロッパにおけるコルドバの重要性についてこう説明しています:
“その時代には、ヨーロッパ中を見渡しても同様の土地は他にありませんでした。大陸の賢者は、あらゆるものをスペインに求めました。そこは、人間と「トラ」が最も明確に区別された地だったのです。”(Cleugh, 1953, p. 70)
10世紀末、コルドバはヨーロッパの人間にとっての、いわば知識の宝庫でした。学生たちはフランスやイギリスから哲学、科学、医学を学ぶため、ムスリム・キリスト教・ユダヤ教学者たちの教えを乞いに旅してきました (Digest, 1973, p. 622)。コルドバの大図書館だけでも、60万冊の写本が存在したのです (Burke, 1978, p. 122)。
この豊かで洗練された社会は、他信仰に対して寛容な立場を取りました。当時のヨーロッパにおいて、寛容の精神は前代未聞のものでした。しかしムスリム統治下のスペインでは “ムスリム為政者の下、何千人ものユダヤ教徒やキリスト教徒たちが安心と調和によって共存していたのです。” (Burke, 1985, p. 38)
不幸にも、こうした知的かつ経済的な繁栄の時代は斜陽し始めました。法の支配から逸脱し、ムスリム権力者側の内部分裂が起きたのです。ムスリムの調和は諸勢力の闘争によって分裂し出しました。最終的にカリフは追放され、コルドバはムスリム諸勢力の手に落ちました。“1013年、コルドバの大図書館は破壊されました。しかしながら、新為政者はイスラーム的伝統に則り、コルドバの学者たちと共に複数の小首長国の各首都へと本を配布することにしました。” (Burke, 1985, p. 40) かつての偉大なるアル=アンダルスの知の財産は、小都市の間で分割されることになりました。
…北部のキリスト教徒たちは、それとは正反対のことをしていました。北部スペインでは、様々なキリスト教王国がヨーロッパ大陸におけるムスリム排除の共通目的のもとに団結したのです。 (Grolier, History of Spain) この大行事が、中世最後の時代に起きたのです。
ジェームズ・バークの別の著書「Connections」では、いかにムスリムによってヨーロッパが暗黒時代から氷解させられたかについて説明されています。“しかし、ヨーロッパにおける知的・科学的復興により大きな貢献をしたのは、キリスト教徒による1105年のトレド没落でしょう。トレドにはムスリムたちによる巨大な図書館がいくつもあり、そこにはギリシャとローマの(キリスト教徒の手によって)失われた古典と共に、ムスリムによる哲学や数学の研究成果があったのです。“スペインの図書館が開かれると、ヨーロッパのキリスト教徒たちはムスリムによる最高水準の学問に驚愕したのです。”(Burke, 1978, p. 123)
トレドの知の略奪は北ヨーロッパの学者たちを結集させました。キリスト教徒たちはトレドにおける大規模な翻訳事業を開始しました。彼らはユダヤ教徒たちを翻訳者として雇い、ムスリムの書物をラテン語に訳しました。これらの書物には、“ギリシャ哲学・科学の有名作品の殆どと、ムスリム独自による学問も多く含まれていました。” (Digest, p. 622)
“北部の学者らが発見した、スペインにおける知的社会は、彼らのものよりも遥かに卓越したものだったため、ムスリム文化に対する深い嫉妬の念を生み、それによって西洋は数世紀にも渡ってムスリムへの偏向的見解をし続けたのです。” (Burke, 1985, p. 41)
“それらの書物によって取り扱われていた学問の範囲には、代表的なものとして医学、占星学、天文学、理学、心理学、生理学、動物学、生物学、植物学、鉱物学、光学、化学、物理学、数学、代数学、幾何学、三角法、音楽、気象学、地理学、力学、流体静力学、航海学、歴史学などが含まれていました。”(Burke, 1985, p. 42)
しかしながら、これらの書物自体がルネッサンスへと続くのろしを上げたわけではありません。彼らはそれらにヨーロッパの知識を織り交ぜたのですが、それらの殆どは、ヨーロッパ人による世界の見方への変化なしには真価を認められなかったものでした。
中世ヨーロッパは迷信的で理性に欠けた時代だったということを忘れてはなりません。“実際に知的爆弾を炸裂させたのは、それらの書物の哲学だったのです。” (Burke, 1985, p. 42)
キリスト教徒はスペインの再征服を続け、彼らの視界に入ってくるものを殺戮し、破壊しました。書物への危害は見逃されましたが、ムーア文化は破壊され、彼らの文明は終焉したのです。皮肉にも、ムスリムを打倒したのはキリスト教徒側の勢力だけによるものではなく、ムスリム側自身の不和による要素もありました。過去のギリシャやローマのように、アル=アンダルスのムスリムたちはモラルの腐敗1に直面し、彼らを偉大たらしめた知性の道を踏み外してしまったのです。
ムスリムの各避難地がキリスト教徒によって侵攻されている間も、翻訳事業は続行していました。コロンブスが新大陸を発見したのと同じ1492年、ムスリムの最後の砦であったグラナダが没落しました。知識の獲得者は、その英知の後見人ではなかったのです。残念なことに、信仰を放棄しないユダヤ教徒とムスリムは、皆殺しにされるか、流刑処分にされました (Grolier, History of Spain)。こうして寛容の時代は終りを迎え、ムスリムのものとして残されたものは、彼らの書物だけとなったのです。
ヨーロッパがムスリムの書物から学んだものを理解することは大きな驚嘆に値しますが、それらの知識が生き残ったことは、さらなる驚きでしょう。その溢れんばかりの知識から、歴史上初の大学が姿を表し始め、専門学校や大学の単位制度も開発されました (Burke, 1985, p. 48)。私たちが今日使用する数字は、ムスリムに直接由来します。ゼロ(ムスリムの単語)の概念も、諸翻訳によってもたらされたものです (Castillo & Bond, 1987, p. 27)。また、ルネッサンス建築の根本原理がムスリムの図書館から生まれたものであると言ったとしても、それは過言ではないでしょう。ムスリムの業績である光学と共に、彼らの書物で説かれた数学と建築学が、ルネッサンス美術の線遠近法として現れました (Burke, 1985 p. 72)。最初期の法律家たちは翻訳された知識を元に、その職業を始めました。私たちが今日使用する食器でさえも、コルドバのキッチンにその起源を辿るのです (Burke, 1985 p. 44) 。これらすべての例は、ムスリムによってヨーロッパの構造がいかに改革させられたかを示すものなのです。
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