ローレンス・ブラウン(米国):改宗記(前半)
説明: この記事の説明:改宗記の性質と、そこに存在する宗教を問わない共通点。
- より ローレンス・ブラウン
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 12 Dec 2009
- プリント数: 367
- 観覧数: 15,264
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
私はこれまでに散々、自分がいかにして、なぜムスリムになったかを繰り返し質問されて来ましたが、それに答えるのも今度こそは最後になることを願いつつ、筆を執ろうと思います。また私は個人的な教訓が述べられていない限り、改宗記には意味がないと思っているので、まずそれらの教訓に関することから始めたいと思います。
改宗記というものにある種の特別な魅力があることに疑いはなく、またそこにもきちんとした根拠があります。そこには度々、改宗者が世俗的世界から精神的世界へと転機するきっかけになる、人生を変えるドラマチックな経験が記録されています。そしてそれらの試練を経験した人々は「人生の意味」について考え始め、「誰が我々を創ったのか?」、「我々はなぜここにいるのか?」などの大いなる疑問に生まれて初めて直面するのです。しかしそれらの改宗記には他の要素もあり、その一つとして、彼らが直面するそういった試練において一様に身を低め、人生で初めて真摯に祈りを捧げるということがあります。私はそれらの共通性に好奇心を掻き立てられ、その重要な教訓に気付いたのです。まずこういった改宗者の大半は、試練やパニックに陥った際に、仲介者を立てずに神へと直接一心に祈るのです。例えば三位一体説を生涯に渡って信じ続けて来た人でさえ、大惨事に直面すると反射的、もしくは本能的に、決して三位一体の一部などではない、神自身へと直接祈りを捧げるのです。
例えば、次のような話があります。有名な福音伝道者のテレビ番組の中で、あるゲストの女性が自分の信仰を新たにさせたエピソードを語りました。彼女は船が沈没する悲惨な事故に合い、その中でただ一人生き残ったのです。彼女は何日にも渡る海上での漂流体験の中で、神がいかに彼女に語りかけ、導き、そして保護してくれたか等を語りました。もう大体お分かりでしょう。約10分に渡って彼女は話し続け‐それは実際にドラマチックでうっとりさせるものでしたが‐、その話の中で彼女は神がいかにこれこれこのようにし、そして彼女はかれの慈悲を乞い願い、神だけに祈りを捧げたかを述べます。しかし彼女が通りかかった船に救出され、船のデッキに引き上げられた瞬間、彼女は両腕を広げて「ありがとう、イエス様!」と叫んだと言うのです。
ここには真摯さに関する教訓があります。パニック状態や精神的重圧下にある状況において人々は本能的に神のみへと直接祈りますが、安全な状況になったと分かるやいなやそれ以前の誤った信仰に戻ってしまうのです。尚私たちは皆、キリスト教徒がイエスと神は同等であるとすることを知っていますが、それに関する議論を繰り広げたい方はこの議題に関する私の著作The First and Final Commandment (Amana Publications) をお読みになることをお勧めします。そしてそれ以外の方々に私は、「本当に救われた者とは誰なのか?」という質問を投げかけたいと思います。改宗記というものは数えきれないほど溢れており、これそれの宗教の神がその人物を助け、改宗者たちは皆救済による奇跡によって、真実の道を歩んでいると認識します。しかし神は唯一であるため、真実の宗教は唯一でなければなりません。正しき集団は唯一であり、そしてその他全ては迷いの中にあるのです。それらの改宗記で述べられる奇跡は彼らの信仰ではなく、不信仰を確証させるものとなってしまっているのです。神は聖クルアーンの中でこう教えます:
“…神は、御好みの者を迷うに任せ、悔悟してかれに返る者を導かれる。”(クルアーン13:27)
…また、このようにも述べられています:
“だからアッラーを信仰し、しっかりかれに縋る者は、やがてかれからの慈悲と恩恵に浴させていただき、正しい道で、御許に導いていただけよう。”(クルアーン4:175)
こうして不信仰によって迷い去った者は、彼ら自身の選択によって、迷うに任されるのです。
しかし信仰というものの強さは、それが例え間違った方向に向けられていたとしても、侮るべきではありません。私自身の改宗記によって、誰がムスリムになるでしょうか?それは私ただ一人だけなのです。ムスリムたちは私の話に励みとなるものを見出すかも知れませんが、ムスリムたちが他者の奇跡話を聞き、それによって彼らの祈りが守護聖人や三位一体の一部、または唯一神以外の何ものかに向けられたと知った時に絶望の溜息をついて首を振るように、別の人々はそこから何も見出さないかも知れません。もしも誰かが私たちの創造主以外の何か、または誰かに祈りを捧げるのであれば、その祈りに神以外の誰が答えるでしょうか?道に迷い去る者に対して、彼らの特定の趣向や不信仰を確信させることを目的とする特定の「誰かさん」でしょうか?ひょっとしてその「誰かさん」の専門の目的は、人類を堕落させることでしょうか?
これらの質問にどう答えるのであれ、この問題はThe First and Final Commandmentにて詳細に述べられており、興味のある人々はそれを調べてみるのも良いかも知れません。では次に、私の改宗した経緯についてお話ししましょう。
ローレンス・ブラウン(米国):約束を果たすということ(改宗記後半)
説明: ローレンス・ブラウン
- より Laurence Brown
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 08 Apr 2010
- プリント数: 354
- 観覧数: 15,205
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
この記事の説明:ローレンス医師は、彼の宗教に関する研究と、イスラームを確信するようになったきっかけの出来事を綴ります。それは単なる知的作業によるものではなく、純粋な情熱によるものでした。
1990年の冬、私の次女は産まれて直ぐに分娩室から新生児集中治療室に運び込まれ、大動脈縮窄症と診断されました。これは心臓からの大動脈が狭くなっている疾患で、彼女の身体には血液がうまく循環しておらず、組織は酸素不足になり、胸から足の先まではまるで鉄のように青ざめていました。そのことを最初に知った時、私は愕然としました。私は医師として、これが胸部の緊急切開手術を必要とし、生存の可能性も少ないことを意味しているのを知っていました。このワシントン・DCの小児病院へ、隣接した街から胸部外科の顧問医師が呼ばれましたが、私はかなり感情的になっていたため、集中治療室からの退室を求められました。その時の私には恐怖以外に同伴者は居らず、顧問医師の診察結果を待つ間中、不安を和らげる場所を求めて病院の礼拝室に入り、ひざまずきました。その時私は、人生で初めて真摯に祈ったのです。無神論者としての人生を送って来た私にとって、その時が僅かながらでも神を認めた最初の瞬間でした。私が「僅かながら」と言うのは、そのようなパニック状態にあっても、神を完全に信じていた訳ではなかったためです。私は「もし神が存在し、私の娘を助けてくれるのであれば、『かれ』が最も満悦する宗教に従うと約束します」と、どちらかと言えば懐疑的な祈りを捧げたのです。それから私は10〜15分後に集中治療室に戻りましたが、顧問医が娘の無事を告げた時、私は衝撃を受けました。そして彼の診察通り、翌二日以内に彼女の容態は薬や手術なしで安定し、その後は全く普通の子供として成長したのです。
そこに医学的根拠があるのは分かります。既述のように私は医師です。顧問医が動脈管開存症、酸素の欠乏、そしてその後の容態の安定を説明した際、私は頭では理解していました。ただ、それを受け入れることが出来ませんでした。また集中治療医と専門医の診断も同様でした。私は今でも、彼が無表情のまま、口をつぐんで突っ立っていたのを覚えています。しかし結果的にはその顧問医は正しく、病状は回復し、娘のハンナはあらゆる面において普通の赤ちゃんとして退院したのです。厄介なのは、パニック状態などにおいて神に約束する人というのは、その多くが一旦災難が過ぎ去ると神との取引を値切ろうとするか、あるいは何らかの口実を作って自分の責任から言い逃れをするということです。私は無神論者として、神に対する不信仰を貫くことは容易でした。娘の回復を神のおかげではなく、医師の説明通りに受け止めることも可能でした。しかし私にはそれが出来ませんでした。娘の手術前後の超音波検査では、一方には狭窄が映っており、もう一方ではそれが消え失せていました。私が考え得た唯一のことは、神がこの取引を実行したからには、私も自分の約束を果たさなければならない、ということでした。そして例えそれに対する的確な医学的説明が出来たとしても、それは神の許しによるものであったのであり、神がどのような方法で恩恵を授けられたとしても、それは私の祈りに対する答えだったのです。それだけのことです。その当時、そして今も、私にはそれ以外の説明のしようがありません。
その後の数年間、私は自分の約束を果たそうと試みましたが、敢えなく失敗しました。私はユダヤ教、そしてキリスト教の各宗派を研究しましたが、どれも真実の発見が出来たとは思えませんでした。また多種多様な教会やカソリックの会合にも出席しましたが、結局キリスト教徒になることはありませんでした。それは、聖書におけるイエスの教えと様々な宗派の教えに同一性が見出されなかったから、という単純な理由です。やがて私はただ自宅で本を読むだけになり、この間に聖クルアーンと、マーティン・リングスによる預言者ムハンマドの伝記Muhammad, His Life Based on the Earliest Sourcesに出会ったのです。
この研究に費やした数年間の中で、私はユダヤ教の啓典の中に、モーゼの後に来るとされた3人の預言者の既述を見つけました。洗礼者ヨハネとイエス・キリストがその内の2人だとすれば、旧約聖書によれば後一人を残すのみとなり、また新約聖書においてもイエスはいずれ現れる最後の預言者に関して言及しています。そしてモーゼとイエスのいずれもが説いた神の唯一性を聖クルアーンの中で見出してからというもの、私はムハンマドこそが聖書で予示された最後の預言者ではないかと考えるようになり、ムハンマドの伝記を読み終えた時にはそれが確信に変わりました。そして一旦確信を抱くと、全てが道理にかなったのです。諸預言者と啓示の連続性、そして全能なる神の唯一性、そして聖クルアーンによる啓示の完了は突如、私にとって完全に理解できるものとなり、こうする内に私はムスリムとなったのです。
賢い選択でしょうか?いいえ、それは全くの見当違いです。もし私が自分でこれらを全て理解したのであると思い込むのであれば、それは大きな間違いです。過去10年間私がムスリムとして得た教訓とは、世の中には私よりも賢明な人々が大勢いるにも関わらず、彼らはイスラームの真実をまだ理解出来ていないということです。すなわちアッラーは不信仰者を警告しているにも関わらず、彼らは不信仰に留まり、そうすることでアッラーを拒否することによる懲罰を受け、アッラーはかれの真実の宝を彼らに拒否するのです。これは知能の問題ではなく、覚醒の問題であると言う方が正しいでしょう。アラーは聖クルアーンにおいてこう教えています:
“本当に信仰を拒否する者は、あなたが警告しても、また警告しなくても同じで、(頑固に)信じようとはしないであろう。アッラーは、かれらの心も耳をも封じられる。また目には覆いをされ、重い懲罰を科せられよう。”(クルアーン2:6−7)
しかしその一方では、次のような吉報ももたらされています…
“誰でもアッラーを信仰する者は、その心を導かれよう。”(クルアーン64:11)
“アッラーは御心に適う者を御自分のために御選びになり、また悔悟して(主に)帰る者をかれ(の道)に導かれる。”(クルアーン42:13)
…そして:
“アッラーは御好みの者を正しい道に導かれる。”(クルアーン 24:46)
従って、私は神が私を選んで導いたことに感謝し、その導きを次のような簡単な式に表してみました:神の認知、神のみへの祈り、真摯にかれの真実の宗教に従うと約束すること、そして一旦かれの導きという慈悲を授かったら、それを実行する、ということです。
Copyright © 2007 Laurence B. Brown.
著者のローレンスB. ブラウン医師について:
彼とは、BrownL38@yahoo.comから連絡をとることが出来ます。彼はThe First and Final Commandment (Amana Publications)と、Bearing True Witness (Dar-us-Salam)を著しています。近刊書として、歴史物のThe English Scrollと、第2版のThe First and Final CommandmentがMisGod’ed、続編のGod’edとして書き直され、分割されています。
コメントを付ける