ブランドン・トロポフ 元キリスト教徒の米国人(前編)
説明: 聖書における最も真正なくだりであるとされる「Q資料」の研究が、彼をイスラームへと導きます。前編:伝統的キリスト教における問題。
- より ブランドン・トロポヴ
- 掲載日時 08 Jul 2013
- 編集日時 08 Jul 2013
- プリント数: 174
- 観覧数: 14,333 (日平均: 3)
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
改宗の波
もしこれを読んでいるあなたがキリスト教徒なのであれば、イエス(神の慈悲と祝福あれ)の信仰が、現在メディアで喧伝されているような、世界中で問題を巻き起こしている人々と同じものであるという考え方は、突拍子も無いものと映るかも知れません。私も福音書の研究を始める前は、そういった考え方に初めて遭遇したとき、とんでもないものだと思いました。しかし、非常に多くの現代キリスト教徒たちが、福音書のメッセージとイスラームとの関係を基に、人生を変える個人的結論を導き出しているという事実を知るべきでしょう。
「9・11以来、イスラーム改宗者の急増が、有力な根拠と共に報告されています。それは英国だけでなく、ヨーロッパ全体と米国においても同様です。オランダの某イスラーム・センターでは10倍の増加が、そしてレスターの元カトリック・アイルランド人主婦によって運営されている『ニュー・ムスリム・プロジェクト』では安定した増加傾向が報告されています。』(ロンドン・タイムズ、2002/1/7)
主流メディアによるだんまり
欧米メディアでは、世界全体でのイスラーム改宗者増加の実例をほとんど報じませんが、もしそれらの人々の多くが私のような人物だったのなら、イエスの指示に従うことなく彼を「主」と呼ぶことに懸念を感じたのではないかと推測します。彼らはメディアの報じる社会情勢などよりも、そちらの方をより重要視したのです。
このような懸念は、人々の人生を変えてしまうのです。
Qの挑戦
個人的に言えば、私が自らの人生を変えた理由は、今日の最も著名な(非ムスリムの)学者たちが、現存する最古のものであると見なしている福音書のくだりが暗示するものを無視することが出来なかったからです。
これらのくだりは、Qとして知られる資料を再建し、そのすべてを新約聖書の中から見いだすことが出来ます。それらはほぼ確実に、イエス(神の慈悲と祝福あれ)が実際に言ったとされる、私たちが今なお触れることの出来る真正な口伝に最も近いものです。
イスラムを確証するQ
Qについて知らなかったのであれば、新約聖書学者たちがこれまでに発見した、福音書における他の部分よりも教育的であるだけでなく、歴史的にも関連性の高い特定のくだりが存在するということを知るべきでしょう。この研究成果によって、学者(また少数の一般人の)間では極めて魅力的な議論につながりました。
Q資料は、イエスが神によって遣わされた人間の預言者であるという、ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の教えを確証する傾向にあるのです。
人間の預言者
Q資料の論説を発明したのは私ではありません。それは長年に渡って存在していたものです。「伝統派」キリスト教聖職者・神学者たちは、一般的にそれを認めません。彼らによると、Q資料の研究者たちはイエス(彼に平安あれ)の地位を貶めるのに勤しんでいるというのです。しかし実際には、私たちはイエスが本当はどういうことを言っていたのかを突き止めようとしているに過ぎません。
Q資料は、近代キリスト教への挑戦を挑むものです。なぜならそれは、イスラームによるイエス像が歴史的に正しかったことを強く示唆するからです。Q資料が事実上、イスラームのイエス像を確証しているということは、今日のキリスト教徒たちによって広く認知されてはいません。聖典の綿密な調査は、イエスが実際には人々をイスラームへと呼びかけていたことを明らかにします。
私をイスラームに導いたイエス
私は伝統的キリスト教への数十年に渡る絶え間ない不満の末、イスラームに辿り着きました。アルハムドゥリッラー(神にすべての称賛あれ)。2003年の3月にイスラームへ改宗して以来、たくさんの改宗記を読みましたが、福音書が原因でクルアーンを受け入れたというものを殆ど見かけたことがありません。私にとっての改宗理由はそれでした。
私が育ったのはキリスト教的な家庭ではなかったにも関わらず、11歳のときから福音書に惹かれており、自ら義務的に読みふけっていました。やがて私は宗教的な事柄は内面にしまっておくことを学びました。
初期の疑問
青年期になると、私はキリスト教の聖典を独学で学ぶようになりました。子供のときに買った、赤い欽定訳聖書もまだ持っています。そこにあった自筆のメモは、私が1974年の6月26日に、イエスを自らの救世主として認めたことが記されてあります。
私は聖典を義務的に読みふけったと既述しましたが、それはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音4書をむさぼり読んでいたという意味です。私の聖書には、詩篇書、伝道の書、箴言書にも沢山のメモが書かれていましたが、大半のメモや下線は福音書にありました。しかし、私が愛したそれらのテキストは、少年だった私にさえ内的葛藤をもたらしたのです。
福音書を書き換えた者は誰か
ルカ書の22章で、イエスが弟子たちから離れて祈りを捧げ、戻ってくると彼らが熟睡している場面を読んだときが明白に記憶に残っています。一体誰が、彼が礼拝しているのを目撃し、その出来事を報告し、福音のルカ書に収めたのでしょうか? また、私が福音書でおかしいと感じた箇所に、イエスの語った言葉とされる、「読む者には理解させよ」というくだりがあります。さらに、新約聖書の著者が1世紀のキリスト教徒たちに、メシアの再臨が彼らの時代に起きることを保証する場面があります。近代キリスト教の教義において、私が相容れないと感じた部分です。私が15歳にも達していなかったとき、これらやその他の疑問が浮かび上がりました。誰かが福音書を改竄したのでしょうか? もしそうなら、一体誰が、何のため?
私はこれらの疑問をとりあえず後のために「封印」し、問題は私が敬虔なキリスト教コミュニティに属していないことであることにしてしまいました。
カトリック
18歳で、私は東部の大学に通い始め、ローマ・カトリック教会に入会しました。大学では美しく思いやりのある女性に出会い、彼女は私の人生における善き伴侶・支持者となりました。彼女は信仰心が強いとは言えませんでしたが、これらのことが私にとって重要であることを理解し、信仰の支えとなってくれました。彼女の無尽蔵であるかのような強さ・支援・愛情と、私たちの馴れ初めを数行の文章に凝縮してしまうことは、彼女に対する大きな不義です。
聖職者との出会い
私は誠実かつ敬虔なキャンパス聖職者に、私が問題を抱えていた福音書のくだりについて尋ねましたが、彼は冷静さを失い、話題を変えてしまいました。別の機会に、彼には私がヨハネの福音書を集中的に学んでいることを伝えていました。というのも、その福音書は問題の出来事における第一人称の報告だった(と私は当時思い込んでいた)からです。
彼はまたしても口ごもりつつ話題を変え、他の福音書に対するひとつの福音書の優越性については語りたがりませんでした。彼は単に、福音4書はすべて重要であり、すべてを学ばなければならないと言い張りました。この出来事は、私にとって結果的にひとつの転機となりました。
キリスト教、それともパウロ神学?
これは私の人生記ではなく改宗記であるため、数々の重要な出来事を早送りします。あの敬虔なキャンパス聖職者は、私と恋人の結婚を取り持ってくれました。私たちはマサチューセッツの郊外に居を構え、お互いに職を持ち、3人の美しい子供たちに恵まれました。私は聖書を読む習慣を棄てませんでした。私は「灯火と目」、「放蕩息子」、「真福八端」、祈りの重要性や、その他多くの言葉にかつてなく魅了されていました。しかし私は、新約聖書の「構造」にまつわる問題、特に使徒パウロのそれに頭を悩ませていました。パウロが発展させた神学は、イエスの実際の言葉には基づいていなかったという事実は、私にとってはとてつもなく大きな問題でした。
1990年代の中頃、私と妻はカトリック教会に対して深く失望していました。その原因のひとつに、コミュニティの要望に全く注意を払わなかった実に酷い聖職者がいたことです。後日、彼は幼児虐待者をかくまっていたことが分かりました。
プロテスタント
私は信仰深いコミュニティに属する必要性を感じていました。私は地元のプロテスタント教会の一派である会衆派教会に入会し、活動を始めました。
私は子供たちの日曜学校だけでなく、一般聴衆向けの福音書のたとえ話のクラスも担当しました。日曜学校では与えられたカリキュラムに沿った教育をしていましたが、一般向けのクラスでは、参加者に対し、彼らが使徒パウロの色眼鏡を通さずして、特定のたとえ話に直接向き合うよう挑んでみました。そこでは興味深い議論もありましたが、一部には抵抗があることも感じたため、それ以来一般向けのクラスは担当しなくなりました。やがて、妻も教会に参加するようになりました。彼女は今現在もそこに所属しています。
当時、私はキリスト教の秘教的伝統と、スーフィー、そして禅仏教の共通点に深く関心を抱くようになっていました。私はその主題で書き物をしたためた程です。しかし私の通う教会には、こういった分野の興味を私と共有してくれる人は誰一人として見つけることは出来ませんでした。
コメントを付ける