非凡なる神の慈悲(1/3):慈悲遍く慈愛深き者としての神
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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もしも誰かがあなたにこう尋ねたとしましょう:「あなたの神は誰ですか?」と。それに対しムスリムは「最も慈悲深い者」と答えるでしょう。イスラームの文献によると、諸預言者は神による審判を強調しながらも、かれの慈悲についても広く触れていたとされます。神はムスリムの啓典の中で、ご自身についてこのように述べています:
“かれこそは、アッラーであられる。かれの他に神はないのである。かれは不可視の世界と現象界を知っておられ、慈悲あまねく慈愛深き御方であられる。”(クルアーン59:22)
イスラーム用語において、アッ=ラフマーンとアッ=ラヒームは、存生する神固有の名称です。それぞれ“慈悲”“慈愛”“寵愛”などを意味する名詞ラフマから派生しています。アッ=ラフマーンは神の特質である慈悲深さを表し、アッ=ラヒームは創造物に対して注がれる慈愛深い行為を意味しています。それらの違いは微妙ではありますが、共に神の慈悲深さを表していることに変わりはありません。
“言ってやるがいい。「アッラーに祈れ。慈悲深い御方に祈るのだ。どの御名でかれに祈ろうとも、最も美しい御名は、全てかれに属する。」”(クルアーン17:110)
これら二つの御名は、クルアーンにおいて最も頻繁に言及されている神の御名と言うことが出来ます:アッ=ラフマーンはクルアーンの中で57回使用され、アッ=ラヒームに関してはその倍(114回)の回数です。1預言者が次のように言われているように、このことからは神の慈悲深さが伝わって来ます:
“実に神は哀れみ深く、親切を愛する御方である。かれは苛酷さではなく、慈悲によって授与するのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
それらはまた、神と創造物の関係を象徴する特質であるとも言えます。
“万有の主、アッラーにこそ全ての称讃あれ、慈悲あまねく慈愛深き御方。”(クルアーン1:2−3)
ムスリムがその祈りの中で一日に最低17回朗誦する祈りは、次にように始まります:
“慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において;万有の主、アッラーにこそ全ての称讃あれ、慈悲あまねく慈愛深き御方。”(クルアーン1:1−3)
そしてこれらの力強い言葉は、神の次のような反応を喚起します:
“しもべが‘万有の主、アッラーにこそ全ての称讃あれ’と唱える時、われ(神)はこう言うであろう:‘われのしもべはわれを称賛した。’また彼が‘慈悲あまねく慈愛深き御方’と唱える時、われはこう言うであろう:‘われのしもべはわれを賞揚した。’”(サヒーフ・ムスリム)
これらの御名により、ムスリムたちは自分の回りを常に包み込んでいる神の慈悲を想念します。ムスリムの啓典においてはただ一つの章を除く全ての章が、‘慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において’という言い回しで始まります。ムスリムは神の御名によって物事を開始することにより、神への完全な依存を表明し、飲食を初めとするいかなる行為においても、自らに対する神の慈悲を思い起こしているのです。これによってごく日常的な行為にも精神性がもたらされます。あらゆる日常的行為の初めに神の御名が唱念されることによってそれらの行いは重要性を帯び、そして行為者はそれによって神の慈悲を求めると同時に、その行為をかれに捧げるのです。この決まり文句は手稿のモチーフや建築学上の装飾などにも、幅広く用いられています。
また慈愛深さには、それを恵まれる対象が必要となります。そしてその対象とは、それを必要としている者でなければなりません。完全なる慈愛とはそれを必要とする者に対する配慮であり、一方で限りない慈愛とは、それを必要とするかしないかに関わらず与えられ、現世から死後の世界まで包括するものなのです。
イスラームの教えによって、人類は慈悲深く慈愛あまねき神との個人的関係を持つことになります。かれは常に罪を赦し、礼拝に応えますが、かれの慈悲深さとは苦悩する者に対する共感の念や哀れみといった、人間の感覚と同じようなものではありません。そして神は、人々の苦痛を知るために人間になるなどということはありません。神の慈悲とはかれの神聖さに相応しいものであり、私たちに対する援助と寵愛なのです。
神の慈悲は広大です:
“言ってやるがいい。「あなた方の主は慈悲深い主で、全てを包容なされる方である。”(クルアーン6:147)
また、それはあらゆる存在に差し伸べられます:
“またわれの慈悲は、全てのものにあまねく及ぶ。”(クルアーン7:156)
私たちの存在そのものは神の慈悲と寵愛の現れです。神は私たちに対し、周囲に存在するかれの慈悲のしるしを考察するよう招きます:
“さあアッラーの慈悲の跡をよく見るがいい。かれが如何に、死んだ後の大地を甦らされるかを。”(クルアーン30:50)
神の哀れみ深さ
神は哀れみ深さを愛されます。ムスリムはイスラームを慈悲の宗教であると見なしており、またムスリムたちにとって預言者とは人類に与えられた神の慈悲なのです:
“われは只万有への慈悲として、あなたを遣わしただけである。”(クルアーン21:107)
このことは人々がイエスを、神による人々への慈悲であると信じていたことと同じなのです:
“それで彼(息子)を人々への印となし、またわれからの慈悲とするためである。”(クルアーン19:21)
ある時預言者ムハンマド(彼に神の称賛を)の娘の一人が、彼に病気で苦しむ彼女の息子の知らせを伝えました。彼は彼女に対し、神こそが与えるお方、そして取り去るお方でもあり、誰にも定められた寿命があるのだと伝えました。そしてまた彼は、彼女に対して忍耐強くあるよう促しました。その息子の死の知らせが届いた時、彼の両目からは哀れみ深い涙がこぼれ落ちました。彼の教友たちはそれに驚いたため、預言者はこう言いました:
“これは、神がそのしもべの心に添えられた哀れみの念である。神は全てのしもべたちの中、哀れみ深い者たちのみにかれの慈悲を与えるのだ。”(サヒーフ・ブハーリー)
預言者ムハンマドが次のように言っているように、哀れみ深い者たちは祝福され、かつ慈悲を授かるのです:
“神は人々に哀れみを持たない者に対しては慈悲を与えられないだろう。”(サヒーフ・ブハーリー)
また、彼はこうも言っています:
“慈悲深き御方は、慈悲深い者たちにその慈悲を示す。この地上にいるものに慈悲を示せば、天上の御方はあなたに慈悲を示すだろう。”(アッ=ティルミズィー)
非凡なる神の慈悲(2/3):その温かき抱擁
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神の慈悲とは、全ての存在をまるごと包み込みだけではありません。それは永続するのです。人類の懇切な主は、人々に慈悲深さを示し、哀れみを持たれます。神の御名の一つであるアッ=ラフマーンとは、かれの慈愛深さこそが、かれの存在における定義であることを示唆しています。かれの哀れみ深さは際限なく、まるでどこまでも続く宇宙のように広大です。中世のイスラーム学者アッ=ラーズィーはこう記しています:‘創造物が自分自身に対し、創造主よりも慈悲深いことなどあり得ないのだ!’実にイスラームでは、創造主が創造物自身の母親よりも情け深いという事実が説かれているのです。
神はその壮大なる慈悲において、空から雨を降らせて果樹園から果物を実らせ、人間の体を養います。肉体が栄養を必要とすること同様に、魂も大きな精神的糧を必要とします。そして神はその慈悲ゆえに諸預言者・諸使徒を遣わし、人類に対する教えとして啓示を下し、人間的精神性の維持を促したのです。神の慈悲は、モーゼのトーラーにおいてこう示されています:
“…その上には、主を畏れる者への導きと慈悲が記されていた。”(クルアーン 7:154)
そしてクルアーンの啓示もまた同じことを示しています:
“…それは、あなた方への主からの啓蒙であり、また信仰する者への導きであり、慈悲である。”(クルアーン 7:203)
慈悲とは、ある種の血統や一部の人々だけに授けられるものではありません。神の慈悲とは、神の言葉に従うこと、そしてその朗誦に耳を傾けることによって授けられるのです:
“だがこれ(クルアーン)は、われが下した祝福された啓典である。だからこれに従って、あなた方の義務を尽くしなさい。恐らくあなたは、慈悲に浴するであろう。”(クルアーン 6:155)
“それでクルアーンが読誦される時は、それを謹しんで聴き、また静粛にしなさい。恐らくあなた方は慈悲を授かるであろう。”(クルアーン 7:204)
また慈悲とは、従順による結果でもあります。
“(信仰者よ、)それで礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、使徒に従え。そうすればあなた方は、慈悲にあずかるであろう。”(クルアーン 24:56)
また神の慈悲は、私たちの希望でもあります。従って信仰者は、神の慈悲を懇願するのです:
“本当に災厄が私に降りかかりました。だがあなたは、慈悲深い上にも慈悲深いお方であられます。”(クルアーン 21:83)
また信仰者たちは、信仰ある者たちのために神の慈悲を乞います:
“…主よ、私たちを導かれた後、私たちの心をそらさないで下さい。あなたの御許から、私たちに御慈悲を与えて下さい。本当にあなたこそ、限りなく与えられる御方であられます。”(クルアーン 3:8)
そしてまた彼らは、両親のために神の慈悲を乞います:
“…主よ、幼少の頃に私を愛育してくれたように、二人の上に御慈悲を御授け下さい。”(クルアーン 17:24)
神の慈悲に浴する者
神による慈悲は信仰者や不信仰者、また従順な者や反抗する者を問うことなくその両手の中に包み込むものですが、来世における慈悲に関しては、信仰者のためだけに留保されています。アッ=ラフマーンの慈悲深さは世界の全ての生物に影響を及ぼしますが、その同じかれの慈悲により、来世は信仰者のためだけに控えられているのです。アッ=ラヒームは審判の日、信仰者に対してその慈悲を与えます:
“…われは、自分が欲する者に懲罰を加える。またわれの慈悲は、全てのものにあまねく及ぶ。それ故われは、主を畏れ、喜捨をなし、またわが印を信じる者にそれを授けるであろう。彼らは文字を知らない預言者、使徒に追従する者たちである。彼は彼らのもっている(啓典)律法と福音の中に、記され見い出される者である…。”(クルアーン7:156−157)
神の慈悲に浴する者に関し、イスラームの預言者はこう述べています:
“神は慈悲を100の部分に分けて創られ、その内の一部をかれの創造物同士が慈悲深くあるよう、彼らの間に添えられた。そして神は残りの99の部分を、かれのしもべたちへの恩寵として、審判の日まで差し控えられているのだ。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム、アッ=ティルミズィー他)
神の慈悲の内、そのたった一部のものによって天と地は満たされ、人間同士は愛し合い、獣や鳥は水を飲むのです。
また審判の日に神によってもたらされる慈悲は、私たちがこの現世で目にすることの出来るいかなるものよりも広大なのです。それは神による懲罰が、私たちによってこの現世で経験されるいかなるものよりも苛酷であることと同じなのです。イスラームの預言者は、神によるこれらの特質の両極に言及しています:
“もしも神が差し控えている懲罰を信仰者が知るのなら、彼らは決して火獄からは安全ではないと絶望するだろう。そしてもしも神の潤沢な慈悲を不信仰者が知るのなら、彼らは楽園に入ろうとする努力もしないであろう。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム、アッ=ティルミズィー)
しかしながらイスラームの教えでは、神の慈悲は神の憤りを上回るとされています:
“実に、われの慈悲はわれの懲罰を上回るのである。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
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