預言者からビザンチン皇帝への手紙(下):部下をイスラームへ招こうとするヘラクレイオス
説明: ムハンマドを預言者と認め、配下の者たちをイスラームに招こうとするヘラクレイオスとその反応。手紙が家宝として残されたという伝説についての議論。
- より Jeremy Boulter (ゥ 2012 IslamReligion.com)
- 掲載日時 23 Apr 2012
- 編集日時 23 Apr 2012
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手紙の公共開示
ヘラクレイオスがムハンマドを預言者と認めたあと、彼はこう言いました。
私は神の預言者が現れることを知っていたが、それがあなたがたの間から出てくるとは思っていなかった。もしあなたが言ったことが事実なら、彼は私の足下にあるこの土地まで統治するだろう。もし彼に会うことが叶うと分かっていたのなら、私は自ら彼のもとにおもむき、会ったあかつきには、彼の足を洗うだろう。
これがイブン•アン=ナトゥールの記録にある、ヘラクレイオスが天文学的に未来を予想しようとしたという伝承の後に配置すべき物語です。彼はアラブの民から偉大な預言者が現れていることを知っていたか、あるいは推測していました。そのとき、彼が会合の席で読もうと、以前受け取った預言者からの手紙を取り出したのは、実にこの時のことだったのです。
ヘラクレイオスが彼の演説を終え、手紙を読み終わったときには、王室は、マッカの人々がそうであったように、叫びと困惑に覆われました。アブー•スフヤーンは彼の仲間達にこう言いました。「イブン•アビー•カブシャ1の宗教は、バニー•アスファル(白い肌の者たち)の王を脅かすほど大きなものとなった!」
アブー•スフヤーンは後に、伝承者2にこう伝えています。「私は神に誓って、おじけづき、鳴りを潜め、ムハンマドの教えは勝利をつかむと確信しました。そして私はついに、神によってイスラームへと導かれたのです。」
ホムスのヘラクレイオス
また、イブン•アン=ナトゥールの伝承によると、ヘラクレイオスは自分と同じほどの知識があるとしていた知人に、彼が受け取った手紙3について相談しています。彼はエルサレムを去り4、シリアのホムス(ローマ帝国の時代のエメサ)に行って、そこで返事を待ちました。
彼が知人から返事を受け取ると、その中に、その知人も新たな指導者の到来の兆候があること、そしてその指導者こそが予期されていた預言者だと同意する旨を見い出しました。そこでヘラクレイオスはホムスの宮殿で会議を開き、ビザンチンの高官達を招きました。
高官達が集まったときには、ヘラクレイオスは宮殿の全ての扉を締めました。そして彼はこう言いました。「おお、ビザンチンの民たちよ。もし繁栄と、神からの正しい導き、そして帝国の存続を望むなら、この新たな預言者と同盟を組みなさい。」
この招待を耳にした教会の高官たちは、ロバの群れのように扉へと逃げて行きましたが、扉は閉められたままでした。ヘラクレイオスは、彼らのイスラームに対する嫌悪に気付き、彼らがイスラームを受け入れることはないだろうと悟り、彼らが部屋に戻るように命じました。彼らが戻ってきた後、ヘラクレイオスはこう言いました。「私があなたに言ったことは、単にあなたがたの信念を試すためのものでした。そして私には、それがよく分かりました。」
人々はヘラクレイオスに跪き、喜びました。こうしてヘラクレイオスはイスラームから背を背けたのです。
ホムスの事件を機に、伝説は大きくなりました。ヘラクレイオスはまず彼の聖職者たちにイスラームを受け入れるように言ったとされていますが、受け入れられず、その後イスラームの預言者に帝国から贈り物を送るように言いましたが、これも拒絶されました。また彼は、ムスリムたちと平和条約を結ぶことを勧めましたが、これも拒否されました。そしてシリアからビザンチンに戻った後は、アンティオキアの南部と東部の帝国支配に一切興味をなくしてしまいました。個人的にムスリムの土地を奪うことを禁じ、中東の守り役として無能な大佐たちを送ったのです。確かなことは、彼が手紙と預言者の発言に真剣に向かい合い、それから背き去る前は、彼らの民もそこに導こうと最善を尽くしたということです。
家宝
歴史家アッ=スハイリーは、ヘラクレイオスに宛てられた手紙に関わるさらに2つの逸話を伝えており、イブン•ハジャルが解説とともにその記録を残しています5。解説によるとアッ=スハイリーは、持ち主の位の高さを表すダイアモンドで飾られたケースの中にある手紙のことを聞き、それは彼の時代まで家宝として大事に残され、フランジャ王の手元にまで届いたということでした6。彼の子孫たちはトレドを征服したときに彼の手に渡ったと思い込んでおり7、イスラーム軍の指揮者アブドゥル=マリク•ブン•サアドが12世紀に子孫達の一人8を通してそのことを知ったのです。アブドゥル=マリクの同士達は、彼がフランジャ王9と会い、王が彼に手紙を見せたと伝えています。彼はその巻物を見て、それがとても古いものだと気付き、その繊細な骨董物に口づけをさせてもらえるように頼みましたが、王から断られたのでした。
アッ=スハイリーはまた、2つ以上の情報源からこう聞いたと伝えています。裁判官であるヌールッディーン•ブン•サ−イグ•アッ=ディマシュキーはサイフッディーン•フリーフ•アル=マンスーリーが、アル=マンスーリー•カラウン王10からの贈り物とともにモロッコに使わされたと言いました。モロッコ王11はフランジャ王に贈り物を送り12、ある秘密の願い事をしてそれが受け入れられました。フランジャ王はその使いを彼の王国にしばらく滞在させようとしましたが、その使いはそれを断りました。しかし、使いのサイフッディーンが去るときに、王は彼に、ムスリムの彼が興味を示すであろう貴重品を見たいかと尋ねました。王は各々の仕切りの中が宝で埋め尽くされている箱を持ち出しました。
彼が取り出した箱から、彼はダイアモンドで覆われた長細い箱(筆箱のようなもの)を取り出しました。彼はそれを開け、中から巻物を取り出しました。巻物の紙は傷んでおり、中身は少しかすれていましたが、保存する際に巻かれた絹の布に挟まれ、ほとんどの部分はきちんと保存されていました。フランジャ王はこう言いました。「この手紙は、私の祖先であるカエサルがあなたの預言者から受け取り、私の代まで家宝として受け継がれたものです。カエサルは子孫たちに、もし帝国の存続を望むなら、この家宝を大事に取っておくようにと伝えました。この手紙に敬意を払い、大事に隠しておけば私たちは守られているのです。帝国はこうして受け継がれてきたのですから。」13
ローマ帝国のカエサルだったヘラクレイオスの王国が彼に本当に受け継がれたかどうかは、東方でビザンチン帝国がまだ存続し、そのあと150年も続いたという点で疑問は残りますが、ヘラクレイオスは前述のようにローマに手紙を送り、それが保管され、カール大帝が800年、法王レオ3世に王と任命されたとき、帝国の西ゴート族に手紙が渡った可能性はあります。
手紙が何世紀にも渡って保存され続けたとは、断定して言い切れませんが、これらの物語がその可能性を示唆しています。依然として預言者の手紙の1つは、トプカプ宮殿博物館に元来の羊皮紙のまま残されています。
結論
ヘラクレイオスが、その背景や動機、彼の民に対する努力、彼の性格、功績、そして教えをもとに預言者ムハンマドの主張が正しいと言うことを伝えようとしたため、多くの人が彼が密かにイスラームを受け入れたと考えます。アブー•スフヤーンへの返答と、彼がホムスの高官達をイスラームに招いたということから、預言者ムハンマドが本物であるということは確信したようです。彼の心は預言者ムハンマドの手紙の中で示された唯一神の教えに傾き、彼の支配下にある民を間違った道へ導く罪を避けようとしました。しかし彼の部下は強く拒否し、彼はその圧力に負け、民の反感を怖れて信仰に入ることは出来ませんでした。つまり、預言者ムハンマドが預言者だと知り、彼の半生を預言者を守るために費やしたにも関わらず、彼の仲間に対する羞恥心のためにイスラームに帰依しなかった預言者の伯父アブー•ターリブと同じように、ヘラクレイオスもイスラームと神の預言者の不信仰者として亡くなったのです。
Footnotes:
1 預言者ムハンマド(彼の上に神の祝福と慈悲あれ)のこと。
2 イブン•アッバースのこと。
3 彼が実物の手紙を査定のために送ったということも考えられますが、そのことは明確には伝えられていません。
4 歴史上では、ネストリウス派によって聖墳墓教会から奪われた聖なる十字架を、630年3月に彼が取り戻したことが記録されていますが、それは彼がアブー•スフヤーンと会った数ヶ月後の話でした。その後間もなくホムスから出発したのでしょう。
5 イブン•ハジャル•アル=アスカラーニー著「ファトフ・アル=バーリー」。
6 フランジャとはイベリア半島の海岸沿いの王国を意味するスペイン語です。この物語のフランジャの王達とはオーストリア、ガリシア、レオン、(レオンから派生した)カスティリャのジミネズとブルゴーニュ地帯からの王です。レオンは910年にアストリアが3つに別れたときに誕生しました。
7 アルフォンソ6世(1085年)。
8 ブルゴーニュ国のレオンの王達。
9 名前は挙げられていませんが、おそらくは「皇帝」アルフォンソ7世かカスティリャとレオンのフェルデナンド2世でしょう。
10 おそらく、マムルーク朝のエジプト王(統治時期1278年〜1290年)。
11 おそらくマリーン朝のアブー•ユースフ•ヤークーブ(統治時期1259年〜1286年)。
12 おそらくカスティリャとレオンの王アルフォンソ10世(1252年〜1284年)彼には「レックス•ロマノルム」(ローマの王)という称号が与えられ、カート大帝の子孫だと家族が主張したため、王として選ばれました。
13 アルフォンソ7世。彼の父親は、レオンとアストリアの王は伝統的に西ゴート聖ローマ皇帝の子孫とされており、イベリア帝国の祖先として知られていたので「皇帝」として知られていました。
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