預言者からビザンチン皇帝への手紙(上
説明: この手紙が書かれた背景と、その手紙の内容、そしてどのようにそれが受け取られたか。
- より Jeremy Boulter (ゥ 2012 IslamReligion.com)
- 掲載日時 16 Apr 2012
- 編集日時 17 Oct 2022
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この記事の内容
この記事の第一部では、第二部と第三部で語られる二つの物語の内容と背景を紹介します。主な内容はアブー•スフヤーン•ブン•ハルブからアブドゥッラー•ブン•アッバースに伝えられた、彼のエルサレムでのヘラクレイオスとの対面についてで、サヒーフ•アル=ブハーリーに収録されているものです。それに加えて、エルサレムの統率長イブン•アン=ナトゥールによる物語もあります。これらの物語で記録された出来事によれば、ホムスの民へのヘラクレイオスによるイスラームへの招待は、アブー•スフヤーンとエルサレムで会ったあとに起きたようです。
しかし同時に、アラビアに預言者が現れたと聞いたとき、ヘラクレイオスがアブー•スフヤーンを呼び寄せたのも明らかです。さらに、アブー•スフヤーンがヘラクレイオスと会ったときには、ヘラクレイオスが預言者からの手紙を持っていたというのも間違いありません。なので、ここではアン=ナトゥールの物語の中で、二つの違う場所で起きた出来事を違うエピソードとして分けてあります。最初はエルサレムでのヘラクレイオスとアブー•スフヤーンの会合で、二つ目はヘラクレイオスがエルサレムを去った後のホムスです。アブー•スフヤーンの物語も二つに分けてあります。両方の物語とも、イブン•アッバースによって伝えられたものです。
アブー•スフヤーン•ブン•ハルブ
アブー•スフヤーンは、最終的にはイスラームに改宗しましたが、預言者の生前のほとんどの間は、イスラームに激しく反対していました。彼はクライシュ族のウマイヤ家の長で、クライシュ族全体の長でもあり、預言者の生前においては、マッカでもっとも権力のある者の1人でした。彼の曾祖父がアブドゥッ=シャムス•ブン•アブドゥル=マナーフであり、彼の弟がハーシム、つまり預言者ムハンマドの曾祖父だったので、彼らは遠い従兄弟どうしの関係だでした。アブー•スフヤーンは権力のために、預言者ムハンマドを彼の権力の脅威であり、クライシュ族の神々の異端者と感じていたのです。アブー•スフヤーンが長をつとめるクライシュ族と初期のムスリムたちとの敵対関係は悪化し、ムスリムたちがマディーナに移住したあとは数々の戦闘があり、そのときクライシュ側につき戦い、ウフドの戦い(625年)ではクライシュ族を率いたのが彼でした。
フダイビヤの条約(628年)のあと、彼はシリア地方までキャラバンを率い、エルサレムのカエサルに招かれました。そして彼がマッカに帰ろうとしているとき、預言者ムハンマドとの条約が、クライシュ側によって破られたのです。ムスリム達が1年半前に結ばれたその条約から解放されたと知り、彼は自分の足でマディーナへ向かい、それを繕おうとしましたが、失敗しました。ムスリム達は630年にマッカを攻撃しました。壁書きを見て、アブー•スフヤーンはマッカから逃げましたが、後にイスラームを受け入れるため帰ってきたのです。
預言者と皇帝
預言者ムハンマドと皇帝ヘラクレイオスは同世代です。年齢は5歳しか離れておらず、両者とも当時60代でした。ヘラクレイオスの統治は軍事活動において浮き沈みの激しいものでした。609年、彼が40歳だったときに預言者ムハンマドは啓示を受け、預言者としての人生を歩み始めました。610年、ヘラクレイオスはフォカスを退き皇帝となりましたが、彼の統治は614年から619年にパレスチナとトルコを失うところから始まりました1。これらの失敗と、後のローマ帝国に対する勝利はクルアーンの中でも述べられています。
“ローマの民は打ち負かされた。近接する地において(打ち負かされた)。だが彼らは、(この)敗北の後直ぐに勝つであろう。”(クルアーン30:2−4)
その手紙
預言者が送った手紙はアブー•スフヤーンの伝承に一致し、ヘラクレイオスが高官たちの前で読み上げた、そのままの形で残っています。
慈悲深く、慈愛あまねき神の御名において
この手紙は神のしもべでありその預言者であるムハンマドから、ビザンチン皇帝ヘラクレイオスへ送るものである。
正しい道を歩む者に平安あれ。
私はあなたをイスラームに招く為に書いています2。もしあなたがイスラームを受け入れたのなら、あなたは安全となり、神が倍の報酬をお与えになるでしょう。しかしこのイスラームへの招きを断れば、あなたの民を誤った道に招いた罪を負うことになるでしょう3。次のことに注意を払ってください。
おお、啓典の民よ。あなたにとっても私たちにとっても聞き慣れた教え、つまり神だけを崇拝し他の何者とも並べないという教えを守りなさい。そして彼らがそれから背くのならこう言いなさい。「我々がムスリムであるということの証人になってください。」
神の預言者ムハンマド4
同じような手紙を送られたホスロー2世とは違い、ビザンチン皇帝ヘラクレイオスはその手紙を手元に残し、内容について確認をとりました。ササン朝のホスロー2世とは全く違います。アブドッラー•ブン•アッバースによると、手紙はアブドッラー•ブン•フダーファ•アッ=サフミーからバーレーンの統治者を通して渡されました。
そしてホスローが手紙を読んだとき、彼はそれを破りました。サイード•ブン•アル=ムサイヤブはこう言いました。「預言者はそのとき、神がホスローと彼に従う者たちを完全に、そして厳しく滅ぼすことを祈っていました。」(サヒーフ•アル=ブハーリー)
ササン帝国はそのあとすぐに、まずローマの手によって、そして新たなイスラーム帝国によって滅ぼされました。ビサンチン帝国もヘラクリウスの支配下でエジプト、パレスチナそしてシリアに征服されましたが、ササン帝国とは違い、ビサンチン帝国はその後800年も、コンスタンチノープルが陥落するまで形を変えながら存続してきました。それも、手紙の受け取られ方の違いのためなのかもしれません。
Footnotes:
1 Heraclius. (2006). In Encyclopædia Britannica. Retrieved August 22, 2006, from Encyclopædia Britannica Premium Service.
2 アッラー以外に崇拝されるべき神はなく、ムハンマドは彼の預言者である。
3 彼が拒絶したという罪に加えて、という意味。
4 この手紙はいくつかの歴史書に残されており、手紙の原文はマジード•アリー•カーン博士(1998年)の「最後の預言者ムハンマド」(イスラミックブックサービス、ニューデリー、インド)からとったものであり、キリスト教の支配者たちに送った手紙は、イスタンブルのトプカピ宮殿博物館に残されています。
預言者からビザンティウム皇帝への手紙(中):受理
説明: ヘラクレイオスに訪れた預言者到来の知らせと兆し。そして手紙の差出人の信憑性を確認するヘラクレイオス。
- より Jeremy Boulter (ゥ 2012 IslamReligion.com)
- 掲載日時 16 Apr 2012
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預言者ムハンマドの知らせを聞いたヘラクレイオス
イブン•アン=ナトゥールはヘラクレイオスに仕えるエルサレム知事でシリア地方のキリスト教徒の長でした。イブン•アン=ナトゥールは彼がエルサレムにいたときにこう伝えました。
ヘラクレイオスが悲しそうな表情で起きてきました。司祭たちは彼に理由を尋ねました。
天文学を学んでいたヘラクレイオスは、将来の展望を明らかにしようとしました。
質問に対してヘラクレイオスはこう答えました。「昨夜星を見ていたとき、割礼を行う民たちの中から指導者が生まれるのを見た。そしてその者が自分の土地を統率するだろう。しかし割礼を行う民とは誰だろうか?」
司祭たちは言いました。「ユダヤ人以外に割礼を行う者たちはいません。心配しないで下さい。ただ国内のユダヤ人達を殺す命令をお出しになればよろしいのです。」
話し合いの途中にガッサーン1の王からの使いが来て、ヘラクレイオスに神の預言者の到来が伝えられました。
(この知らせとは預言者からの手紙のことかもしれません。)
この知らせを聞き、ヘラクレイオスは司祭に、使いの者が割礼を施されているかどうか、調べさせました。身体検査を行ったところ、使いの者には割礼が施されていました。ヘラクレイオスは使いの者に、アラブ人の慣習について尋ねました。使いはこう言いました。「アラブ人も割礼を行います。」
これを聞いたヘラクレイオスは言いました。「アラブ人の治世が始まった。彼らの王国はすぐに台頭するだろう。」2
これから述べる物語は、預言者の教友たちの伝承から取られたものです。この物語はアブー•スフヤーンからアブドゥッラー•ブン•アッバースに伝えられたもので、後に他の者達に伝わりました3。イブン•アッバースは預言者ムハンマド(彼の上に神の慈悲と祝福あれ)の熱心な弟子で、尊敬されたクルアーン学者です。
アブー•スフヤーンとヘラクレイオス•カエサルの対面
神の預言者の死の3年前である629年に、ヘラクレイオスはエルサレムを勝利と共に取りかえし、その15年前にホスロー2世に戦利品として奪われていた、キリスト教徒の崇敬の対象である現物の十字架を取り戻しました4。そしてヘラクレイオスがエルサレムに住んでいたときに、おそらくその一年前に届けられたと思われる預言者ムハンマドからの手紙が、彼のもとに届きました。彼がその手紙を読んだ後、彼の領地に届出人と同じ出身地の者はいるかと尋ねました。そこでマッカから貿易用のキャラバンを連れて近くで貿易をしていたアブー•スフヤーンの名が挙がりました。アブー•スフヤーンと彼の仲間達が、エルサレムにある皇帝の宮廷に召喚され、ビザンチンの高官達に囲まれたヘラクレイオスの前に出されたのです。
ヘラクレイオスからの質問とその答え
ヘラクレイオスは質問をするために通訳の者を連れ、彼らの中で預言者と名乗る者に最も近しい親戚関係があるのは誰かと尋ねさせました。
アブー•スフヤーンは答えました。「(この中では)私が最も彼に近い親戚です。」
ヘラクレイオスは尋ねました。「では、あなたと彼の関係は何ですか。」
アブー•スフヤーンは言いました。「彼は父方の遠い従兄弟です。」5
ヘラクレイオスは言いました。「彼を近くによらせなさい。」アブー•スフヤーンの仲間達も彼の後ろに並べられました。そしてヘラクリウスは通訳にこう命じました。「私が今から、預言者と名乗る男について質問をすると彼の仲間たちに伝えよ。もし彼が嘘をついたのなら、すぐに嘘だと言うようにと。」
「あなたがたの間で、彼の家柄はどういうものですか。」ローマ皇帝は続けました。
「誇り高い家柄の者です。」アブー•スフヤーンは言いました。
ヘラクレイオスはさらに質問を続けました。「あなたがたの間で同じことを言い出した人はいましたか?」「預言者だと名乗る前、彼はよく嘘をつく傾向がありましたか?」「彼の祖先の中に王はいますか?」
全ての問いに関して、アブー•スフヤーンは否定するしかありませんでした。
「地位の高い者達と貧しい者たち、どちらが彼に従いますか?」
アブー•スフヤーンは答えました。「地位の高い者というより、権力のない者たちが彼に従います。」
ヘラクレイオスは言いました。「その人数は増えていますか? 減っていますか?」
「増えています。」というのが、答えでした。
そしてヘラクレイオスは尋ねました。「彼の宗教を受け入れた者で、後になって不満足でやめてしまう者は出ましたか。」
“No.”
「いいえ。」
ヘラクレイオスは言いました。「彼は約束を破りますか。」
キャラバンの長でもあるアブー•スフヤーンは答えました。「いいえ。私達は今、彼との間に休戦条約を結んでいます。彼が破るのではないか、と怖れてはいますが。」
質問は容赦なく続きました。「彼と戦ったことはありますか?」
「はい。」
「どのような結果に終わりましたか?」
「彼が勝つときもあれば、私たちが勝つときもあります。」
「彼の教えとは何ですか。」
「私たちに、ただ唯一の神を崇め、他の神々を崇めないこと、そして私たちの祖先が崇めてきた偶像崇拝を止めるように言っています。また礼拝をし、喜捨をし、貞操を守り、約束を守り、家族と親戚を大切にするようにとも言っています。」
後にアブー•スフヤーンは、仲間達が後ろで聞いていたので、嘘をつけば恥をかくことになるのを怖れて、本当のことを言うしかなかったということを認めています。したがって、彼はすべての質問にできるだけ正直に答えました。預言者が条約を破るかもしれないと述べたが、それだけが彼にとって預言者に関するネガティブな発言をできる最高の機会だったとも言っています。
質問について査定する皇帝
皇帝がアブー•スフヤーンに預言者のことを問いただしたあと、彼はアブー•スフヤーンに、彼がその答えから学んだことを伝えることにしました。通訳がそれをアブー•スフヤーンに伝えました。
彼は言いました。「私はあなたに彼の家柄についてたずねました。そして彼は良い家柄の者だと分かりました。まさに、神の預言者は皆、尊い家柄の出身なのです。」
また私は、彼の部族の中の誰かが、彼と同じことを主張したことがありましたか、と尋ねましたが、あなたはいいえと答えました。もしそうなら、私は彼は誰かの真似をしているだけだと考えたでしょう。
また私は彼が以前によく嘘をついていたかということも尋ねましたが、あなたはいいえと答えました。他の人々のことについて嘘を言わない者は、神についても嘘をつかないものです。
また私は彼の祖先の中に王がいたかと尋ねましたが、あなたはいいえと答えました。もしそうなら、私は彼がただ祖先の王朝を取り戻そうとしていただけだと考えたでしょう。
また地位の高い者と貧しい者どちらが彼に従うかということも尋ねましたが、あなたは貧しい者がほとんどだと答えました。まさに、貧しい者が常に、神の預言者に従うものたちです。
また私はあなたに彼に従う者の数は増えているかどうか尋ね、あなたは増えていると答えました。本当の宗教では、それが完成させるまで従う者の数が増え続けるのです。
また私はあなたに、彼の信仰を受け入れた者で後になって止めてしまう者はいるかと尋ねましたが、あなたはいいえと答えました。これこそが真実の宗教です。その喜びが信者の心にしみわたるのです。
また私は彼らとの戦ったことはあるかと尋ねました。あなたはあると答え、勝つこともあれば負けることもあるとも教えてくれました。すべての預言者たちがそうであったのです。しかし最後の勝利は彼のものでしょう。
また私はあなたに彼が不実かどうか尋ね、あなたはいいえと答えました。すべての預言者たちがそうなのです。彼らは決して不実な行動をとりません。
そして私は、彼の教えがどのようなものかを尋ねました。あなたは彼が、ただ唯一の神を崇拝し、他の神々を崇拝するのをやめること。祖先からの偶像崇拝をやめること。礼拝を守り、喜捨を出し、貞操を守り、約束を守り、信頼関係を守ることを説いていると言いました。これこそが神の預言者の教えなのです。
このようにして、ビザンチンのカエサルは、預言者の正統性を認めたのでした。
預言者からビザンチン皇帝への手紙(下):部下をイスラームへ招こうとするヘラクレイオス
説明: ムハンマドを預言者と認め、配下の者たちをイスラームに招こうとするヘラクレイオスとその反応。手紙が家宝として残されたという伝説についての議論。
- より Jeremy Boulter (ゥ 2012 IslamReligion.com)
- 掲載日時 23 Apr 2012
- 編集日時 23 Apr 2012
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手紙の公共開示
ヘラクレイオスがムハンマドを預言者と認めたあと、彼はこう言いました。
私は神の預言者が現れることを知っていたが、それがあなたがたの間から出てくるとは思っていなかった。もしあなたが言ったことが事実なら、彼は私の足下にあるこの土地まで統治するだろう。もし彼に会うことが叶うと分かっていたのなら、私は自ら彼のもとにおもむき、会ったあかつきには、彼の足を洗うだろう。
これがイブン•アン=ナトゥールの記録にある、ヘラクレイオスが天文学的に未来を予想しようとしたという伝承の後に配置すべき物語です。彼はアラブの民から偉大な預言者が現れていることを知っていたか、あるいは推測していました。そのとき、彼が会合の席で読もうと、以前受け取った預言者からの手紙を取り出したのは、実にこの時のことだったのです。
ヘラクレイオスが彼の演説を終え、手紙を読み終わったときには、王室は、マッカの人々がそうであったように、叫びと困惑に覆われました。アブー•スフヤーンは彼の仲間達にこう言いました。「イブン•アビー•カブシャ1の宗教は、バニー•アスファル(白い肌の者たち)の王を脅かすほど大きなものとなった!」
アブー•スフヤーンは後に、伝承者2にこう伝えています。「私は神に誓って、おじけづき、鳴りを潜め、ムハンマドの教えは勝利をつかむと確信しました。そして私はついに、神によってイスラームへと導かれたのです。」
ホムスのヘラクレイオス
また、イブン•アン=ナトゥールの伝承によると、ヘラクレイオスは自分と同じほどの知識があるとしていた知人に、彼が受け取った手紙3について相談しています。彼はエルサレムを去り4、シリアのホムス(ローマ帝国の時代のエメサ)に行って、そこで返事を待ちました。
彼が知人から返事を受け取ると、その中に、その知人も新たな指導者の到来の兆候があること、そしてその指導者こそが予期されていた預言者だと同意する旨を見い出しました。そこでヘラクレイオスはホムスの宮殿で会議を開き、ビザンチンの高官達を招きました。
高官達が集まったときには、ヘラクレイオスは宮殿の全ての扉を締めました。そして彼はこう言いました。「おお、ビザンチンの民たちよ。もし繁栄と、神からの正しい導き、そして帝国の存続を望むなら、この新たな預言者と同盟を組みなさい。」
この招待を耳にした教会の高官たちは、ロバの群れのように扉へと逃げて行きましたが、扉は閉められたままでした。ヘラクレイオスは、彼らのイスラームに対する嫌悪に気付き、彼らがイスラームを受け入れることはないだろうと悟り、彼らが部屋に戻るように命じました。彼らが戻ってきた後、ヘラクレイオスはこう言いました。「私があなたに言ったことは、単にあなたがたの信念を試すためのものでした。そして私には、それがよく分かりました。」
人々はヘラクレイオスに跪き、喜びました。こうしてヘラクレイオスはイスラームから背を背けたのです。
ホムスの事件を機に、伝説は大きくなりました。ヘラクレイオスはまず彼の聖職者たちにイスラームを受け入れるように言ったとされていますが、受け入れられず、その後イスラームの預言者に帝国から贈り物を送るように言いましたが、これも拒絶されました。また彼は、ムスリムたちと平和条約を結ぶことを勧めましたが、これも拒否されました。そしてシリアからビザンチンに戻った後は、アンティオキアの南部と東部の帝国支配に一切興味をなくしてしまいました。個人的にムスリムの土地を奪うことを禁じ、中東の守り役として無能な大佐たちを送ったのです。確かなことは、彼が手紙と預言者の発言に真剣に向かい合い、それから背き去る前は、彼らの民もそこに導こうと最善を尽くしたということです。
家宝
歴史家アッ=スハイリーは、ヘラクレイオスに宛てられた手紙に関わるさらに2つの逸話を伝えており、イブン•ハジャルが解説とともにその記録を残しています5。解説によるとアッ=スハイリーは、持ち主の位の高さを表すダイアモンドで飾られたケースの中にある手紙のことを聞き、それは彼の時代まで家宝として大事に残され、フランジャ王の手元にまで届いたということでした6。彼の子孫たちはトレドを征服したときに彼の手に渡ったと思い込んでおり7、イスラーム軍の指揮者アブドゥル=マリク•ブン•サアドが12世紀に子孫達の一人8を通してそのことを知ったのです。アブドゥル=マリクの同士達は、彼がフランジャ王9と会い、王が彼に手紙を見せたと伝えています。彼はその巻物を見て、それがとても古いものだと気付き、その繊細な骨董物に口づけをさせてもらえるように頼みましたが、王から断られたのでした。
アッ=スハイリーはまた、2つ以上の情報源からこう聞いたと伝えています。裁判官であるヌールッディーン•ブン•サ−イグ•アッ=ディマシュキーはサイフッディーン•フリーフ•アル=マンスーリーが、アル=マンスーリー•カラウン王10からの贈り物とともにモロッコに使わされたと言いました。モロッコ王11はフランジャ王に贈り物を送り12、ある秘密の願い事をしてそれが受け入れられました。フランジャ王はその使いを彼の王国にしばらく滞在させようとしましたが、その使いはそれを断りました。しかし、使いのサイフッディーンが去るときに、王は彼に、ムスリムの彼が興味を示すであろう貴重品を見たいかと尋ねました。王は各々の仕切りの中が宝で埋め尽くされている箱を持ち出しました。
彼が取り出した箱から、彼はダイアモンドで覆われた長細い箱(筆箱のようなもの)を取り出しました。彼はそれを開け、中から巻物を取り出しました。巻物の紙は傷んでおり、中身は少しかすれていましたが、保存する際に巻かれた絹の布に挟まれ、ほとんどの部分はきちんと保存されていました。フランジャ王はこう言いました。「この手紙は、私の祖先であるカエサルがあなたの預言者から受け取り、私の代まで家宝として受け継がれたものです。カエサルは子孫たちに、もし帝国の存続を望むなら、この家宝を大事に取っておくようにと伝えました。この手紙に敬意を払い、大事に隠しておけば私たちは守られているのです。帝国はこうして受け継がれてきたのですから。」13
ローマ帝国のカエサルだったヘラクレイオスの王国が彼に本当に受け継がれたかどうかは、東方でビザンチン帝国がまだ存続し、そのあと150年も続いたという点で疑問は残りますが、ヘラクレイオスは前述のようにローマに手紙を送り、それが保管され、カール大帝が800年、法王レオ3世に王と任命されたとき、帝国の西ゴート族に手紙が渡った可能性はあります。
手紙が何世紀にも渡って保存され続けたとは、断定して言い切れませんが、これらの物語がその可能性を示唆しています。依然として預言者の手紙の1つは、トプカプ宮殿博物館に元来の羊皮紙のまま残されています。
結論
ヘラクレイオスが、その背景や動機、彼の民に対する努力、彼の性格、功績、そして教えをもとに預言者ムハンマドの主張が正しいと言うことを伝えようとしたため、多くの人が彼が密かにイスラームを受け入れたと考えます。アブー•スフヤーンへの返答と、彼がホムスの高官達をイスラームに招いたということから、預言者ムハンマドが本物であるということは確信したようです。彼の心は預言者ムハンマドの手紙の中で示された唯一神の教えに傾き、彼の支配下にある民を間違った道へ導く罪を避けようとしました。しかし彼の部下は強く拒否し、彼はその圧力に負け、民の反感を怖れて信仰に入ることは出来ませんでした。つまり、預言者ムハンマドが預言者だと知り、彼の半生を預言者を守るために費やしたにも関わらず、彼の仲間に対する羞恥心のためにイスラームに帰依しなかった預言者の伯父アブー•ターリブと同じように、ヘラクレイオスもイスラームと神の預言者の不信仰者として亡くなったのです。
Footnotes:
1 預言者ムハンマド(彼の上に神の祝福と慈悲あれ)のこと。
2 イブン•アッバースのこと。
3 彼が実物の手紙を査定のために送ったということも考えられますが、そのことは明確には伝えられていません。
4 歴史上では、ネストリウス派によって聖墳墓教会から奪われた聖なる十字架を、630年3月に彼が取り戻したことが記録されていますが、それは彼がアブー•スフヤーンと会った数ヶ月後の話でした。その後間もなくホムスから出発したのでしょう。
5 イブン•ハジャル•アル=アスカラーニー著「ファトフ・アル=バーリー」。
6 フランジャとはイベリア半島の海岸沿いの王国を意味するスペイン語です。この物語のフランジャの王達とはオーストリア、ガリシア、レオン、(レオンから派生した)カスティリャのジミネズとブルゴーニュ地帯からの王です。レオンは910年にアストリアが3つに別れたときに誕生しました。
7 アルフォンソ6世(1085年)。
8 ブルゴーニュ国のレオンの王達。
9 名前は挙げられていませんが、おそらくは「皇帝」アルフォンソ7世かカスティリャとレオンのフェルデナンド2世でしょう。
10 おそらく、マムルーク朝のエジプト王(統治時期1278年〜1290年)。
11 おそらくマリーン朝のアブー•ユースフ•ヤークーブ(統治時期1259年〜1286年)。
12 おそらくカスティリャとレオンの王アルフォンソ10世(1252年〜1284年)彼には「レックス•ロマノルム」(ローマの王)という称号が与えられ、カート大帝の子孫だと家族が主張したため、王として選ばれました。
13 アルフォンソ7世。彼の父親は、レオンとアストリアの王は伝統的に西ゴート聖ローマ皇帝の子孫とされており、イベリア帝国の祖先として知られていたので「皇帝」として知られていました。
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