慎み深さ(その1):概要
説明: イスラームにおける慎み深さの重要性と意味、そしてそれは西洋における慎み深さとどのように異なるのか。
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 12 Sep 2011
- 編集日時 08 Jan 2012
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慎み深さや恥じらいの精神は、創造主と創造物の関係の中で、とても重要な部分です。全ての預言者たちは、人々が慎み深くあるように奨励しましたし、預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)はこのようにも言いました。
「まさに、最初の預言者たちの教えの中に、『恥ずかしいと感じないのならば、好きなように振る舞いなさい。』というものがあります。」(アル=ブハーリーによる伝承)
人間の中にある恥じらいの精神や羞恥心といった慎み深さは、悪行から魂を遠ざけ、他人に悪い振る舞いをしたり、他人に悪い振る舞いをさせたりすることを避けるのに役立つ性質です。イスラームの教義における慎み深さとは、服装や他人の前での振る舞いだけを問題とするのではありません。それは他人に対しては公の場で、そして神に対しては誰も見ていない時に、イスラーム教徒の話し方、服装、そして行動に反映されるのです。慎み深い会話とは、つまり体裁だけでなく、心から始まるものでなければなりません。慈悲深い預言者は「慎み深さは信仰の一部である。」1と言っていますし、その信仰の一部は心の中になければならないのです。
控えめな話し方をしましょう。イスラームにおける全てのものがそうであるように、話し方は控えめでなければなりません。怒りを発散するために声をはりあげるのは、怒りを抑える能力が不足しているのを示しているだけで、害だけしか生まれません。抑えきれなかった怒りのために暴力的な言葉づかいをし、また実際に暴力を振るってしまっても、それは与えられたはずの謙遜のベールをはがし、恥ずべき自我をさらけ出すだけなのです。預言者はこう言いました。
「強者とは、敵を地面に投げ倒すことの出来る人ではありません。強者とは、怒った時に怒りを抑制できる人のことをいうのです。」(サヒーフ=ブハーリー)
神が全知だということを知っているので、強者は神と彼の創造物の前に慎み深くなります。彼は、主に逆らうことをためらい、それが公の場であろうとなかろうと、罪を犯すことや間違った行動をすることを恥じます。このような慎み深さは後天的なものであり、その人の信仰に直接関係します。神を意識すればするほど、彼の前で慎み深くなるのです。
イスラームの教えでは、慎み深さにも先天的なものと後天的なものがあります。人間の中に備わっているある種の慎み深さは男女の子どもたちに先天的に与えられているものです。例えばもし陰部が露出されてしまったとしたら、人は自然にそれを隠そうとします。クルアーンによると、アダムとイブが禁断の果実を食べてしまったとき、陰部が露呈されていることに初めて気付き、その先天的な慎み深さから、楽園の木の葉で陰部を隠したとされています。
イスラームの学者たちは、この慎み深さが、人間と動物を区別する特性だと考えます。動物は恥ずかしさや、善悪の区別無しに本能に従います。それゆえ、慎み深さが少ないほど、その人は動物に近い存在であるといえます。そしてより慎み深いほど、人間らしいということです。イスラームでは、人間の中にある慎み深さをより高めるための義務が課されています。それらの義務とは、部屋に入るときには許可を得なければいけないことから、用を足すときには他の人のいないところでしなければいけないこと、男女に決められた服装の規則まで、様々です。他にも、自らの慎み深さを高めるために、慎み深い人々、その人の前では恥ずべき行動をとれないと感じる人々と交わるのも良いでしょう。預言者はこう言っています。
「あなたの仲間のうちで敬虔な者の前で恥じらいを感じるように、崇高なる神の前で恥じらいを感じるようにしなさい。」2
他人の目の前で恥じらいを感じることで、人は慎み深い格好をするようになります。子どもたちが他人の前で恥ずかしがって、母親のスカートの中や、父親の足の後ろに隠れたりするのを見ても分かることです。イスラームでは他人の目、特に異性の目から体の大半の部分を隠すことは、不貞や婚前交渉を防ぐための義務です。神はこう言われました。
“男の信者たちに言ってやるがいい。「(自分の係累以外の婦人に対しては)かれらの視線を低くし,貞潔を守れ。」それはかれらのために一段と清廉である。アッラーはかれらの行うことを熟知なされる。信者の女たちに言ってやるがいい。かの女らの視線を低くし,貞淑を守れ。外に表われるものの外は,かの女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからヴェイルをその胸の上に垂れなさい。”(クルアーン24章30節)
この節は他人とは呼ばれないような人たちの前では、覆い隠す必要のない人々について触れています。またこの義務は年をとった人に対しては緩和されます。結婚の望みがない老人の女性は、着ているものの上から覆い隠す必要はないのです。3
この節から分かるように、慎み深さは女性だけに限らず男性にも必要とされています。つまり男性も慎み深い格好をし、ゆったりとして透けない服装で腰からひざまでの部分が隠された服を着なければなりません。タイトなズボンや半透明の服は禁じられています。世界のイスラーム教徒の衣装を見ても分かるように、彼らは太ももを隠す長さの短パンや、ゆったりとしたズボンを履いています。
しかしながら、実際には女性が「慎み深い服装」の矢面に立つように思われるかもしれません。しかし、違法な肉体関係の捕食者と獲物についてよく考えてみたとき、隠れた獲物は犠牲にならずに済みます。さらには他の節では、服装の慎み深さは女性が信仰者として確認される一つの特徴であると述べられていますし4、敬虔なイスラーム教徒の男性、または上品な男性が、搾取する相手ではなく守るべきものと認知する女性になるのです。
慎み深さを高める方法として、両親の前でも罪を犯すかどうかを考えてみる、というものがあります。恥じらいの精神がほんの少しでも心にある人なら、両親の前でみだらな行動はしないでしょう。神は彼らよりはるかに、あなたが目の前で恥ずべき存在ではないでしょうか?それゆえイスラームにおいては、信仰者の神の前での慎み深さは、人々の前での慎み深さよりも、大きなものでなくてはなりません。その証拠に預言者は、家の中で一人で裸でいることに関して尋ねられたとき、こう答えています。
「神は他の誰よりも、その前で羞恥心を感じるべき存在です。」(アブー・ダーウードによる伝承)
初期のイスラーム教徒はこう言っていました。「公の場で人々の前で羞恥心を感じるように、神の前で一人でいるときにも、羞恥心を感じなさい。」他にも、「公の場では敬虔な神の僕でありながらも、一人のときには神の敵になるようではいけません。」という言葉もあります。
慎み深さは、社会におけるモラルや道徳を維持し追求する手段です。人々の前で、社会の前で恥じらいを感じることは、慎み深くなる理由にはなるかもしれませんが、その場合、世俗的な社会の中で恥ずべき行動が受け入れられるものとなったときに、慎み深さが失われる可能性があります。それゆえに慎み深くなるための鍵は、神が私たちの行動に関して全知であると理解し、かれが禁じているものから身を遠ざけることです。神は、私たちにとって最善のことしか望みません。それゆえ私たちの最善を求めるということは、神が私たちのために用意したものに従うということなのです。何が最善かを知るのに最も適した方法は、神の預言者ムハンマドに啓示されたものを信じ、預言者が私たちに示した、イスラームという宗教を受け入れることなのです。
慎み深さ(その2):慎み深さについての物語1
説明: 恥じらいなどの慎み深さの特徴と、それを自ら追求することから生じる上品な行動との関係を示す、預言者の言行録からの3つの物語。
- より ウンム・サルマーン
- 掲載日時 19 Sep 2011
- 編集日時 19 Sep 2011
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ムハンマドの神の前での慎み深さ
預言者(彼の上に慈悲と祝福あれ)はこう言いました。
“全ての宗教には特徴があります。そしてイスラームの特徴は、慎み深さなのです。(アル=ムワッタァによる伝承)”
みだらな、または妬みに溢れた目から自らと所有物を守るという意味での慎み深さは、自らをその言動でどのように表現するか注意するということです。誰も他の人におかしな目で見られたり、非難の対象として見られたくはありません。慎み深さは他人の前で、また神の前で、振る舞いや考えを正すのに役立ちます。預言者はある時、彼の教友たちにこう言いました。
“「神の前で、かれに相応しい羞恥心を持って、慎み深くありなさい。」
彼らはこう言いました。「ああ、神の預言者様。神に讃美あれ。私たちは恥じらいを知っています。」
彼はこう答えました。「そうではないのです。神の前でかれに相応しい羞恥心とは、あなた方が学ぶことにおいて自らの意識を守り、食において自らの意識を守ることなのです。そして死と、それに伴う苦難を思い出すことです。誰でも来世を望む者は、この世の美飾を避けるものです。ゆえにこれらを全て行う者は、神の前で本当にかれに相応しい羞恥心を持って、慎み深くある者なのです。」”1
慎み深さと恥じらいは、人生の全ての部分で適用されます。神の存在を意識することは、私たちが関わる全ての活動において、無理することなく慎み深く上品に振る舞うことの一助となります。それは善いことを勧め、間違った行動を避けさせる効果があるため、モラルのある振る舞いや慣習を完成させます。 神が見ている、という意識は、間違った行動に対して恥じらいを抱かせるので、肉体の敬虔さと魂の清らかさの盾となります。
「慎み深さは信仰からくるものであり、信仰は楽園にあります。」(アフマドによる伝承)
ムハンマドと婚礼の祝い
預言者は、ジャフシュの娘ザイナブとのマディーナでの婚礼の際に、人々を婚礼の祝いに招待しました。それは夜遅くに行われたお祝いだったので、ほとんどの人々は慣習通り、食べ終わったあとに帰って行きました。しかし、新郎がまだ座ったままだったので、何人かの人たちは、きっと彼らも居残るべきだと思ったのでしょうか、預言者と共に、他の招待客が去った後も残っていました。礼儀上、預言者は人々に帰るように伝えるのを嫌い、後見人であるイブン・アッバースとともにその部屋を去りました。
彼は、新婦ザイナブの部屋に行く前に、もう一人の妻アーイシャのもとへ行き、招待客が察してくれることを期待しました。しかし、彼らはまだ同じ場所に居残っていたので、また後見人とともにアーイシャの部屋へと行きました。
次に戻ったときには、人々は去っていたので、預言者は部屋の中に入りました。イブン・アッバースは彼に従おうとしましたが、預言者ムハンマドはカーテンを閉め、出口を閉めたのです。2
この物語から得られる教訓は、他人の家は私的なものであり、招待されたからといって居残ることは恥じるべき行動だということです。さらには、預言者ムハンマドの優しさから、彼は人々に去るように言えなかったという点で、どのようにして傷つけることなく教訓を学ばせることが出来るかという例も得られます。彼は言葉ではない手段を使って、招待客が去るべきだということを示し、彼の私的な場所を取り戻したあと、また別の言葉ではない手段を使って、宴は終わったのだということを示したのです。
モーゼとザフォーラ
男性たちの中でたった2人だけが女性という状態で、彼女たちは長い間列に並んでいました。しかし、ついにある男性が、彼女たちを助けてくれました。彼のおかげで、彼女たちは羊とやぎの群れを家に連れて帰ることができたのです。彼女たちの父親は年老いており、彼女たちには外の仕事をする兄弟がいませんでした。最も負担のかかる仕事である、家畜のための井戸の水汲みは男性によってなされますが、その日は運良く助けを得て、新鮮な水と共に家路につくことができました。彼女たちの早い帰宅に驚いた父親は、彼女たちに理由を聞き、彼女たちは旅人風の男性から助けてもらったのだ、と伝えました。
父親は一人の娘に、その男性を招待するようにと言いつけました。娘は井戸に戻り、恥ずかしげに彼のもとへと近づきました。彼女が声の届くところに着いたときに、彼女は彼に、助けてくれた感謝のしるしとして、父親が彼を招待することを願っている、と伝えました。彼は、その視線を地面に下げたまま、あなた方を助けたのは神のご満悦を望んでしたことであり、感謝は必要ありません、と答えました。しかし、これが神からの助けだと気付いた彼は、その招待を受け入れました。彼女が彼の前を歩き出したときに、風で彼女のドレスがうきあがってしまい、彼女のくるぶしの辺が露わになりました。そこで彼は、彼女が後ろに来るように頼み、道筋で分岐点に着いた際に、方角を示してくれるように頼みました。
彼らが家に着くと、父親は食事を用意し、彼がどこから来たのかを尋ねました。彼は自らがエジプトからの亡命者であることを伝えました。彼を家に連れて来た方の娘が、父親にこう囁きました。「お父さん、彼を雇ってください。最善の働き手とは強くて信頼のおける者です。」
父親は彼女に尋ねました。「どうやって彼が強いと分かるのか?」
彼女は言いました。「彼は、沢山の男性たちでしか持ち上げられない井戸の石蓋を、一人で持ち上げました。」
父親は彼女に尋ねました。「どうやって彼に信頼がおけると分かるのか?」
彼女は言いました。「彼は、私の姿を見ずに済むように、私に彼の後ろを歩くように頼み、私が後ろにまわってからも、恥じらいと敬意から視線を下げたままだったからです。」
これが預言者モーゼ(彼に神の慈悲と祝福あれ)です。彼は、誤って殺人を犯した後にエジプトから逃避しました。娘たちの父親はミディアン部族の敬虔な男で、息子はいませんでしたが、この二人の娘を授かったのでした。
このクルアーンの節では、預言者モーゼに近づいた娘の振る舞いが強調されています。
「二人の娘のうちの一人が慎み深く彼のもとに近づき…(クルアーン28章25節)」
ザフォーラが預言者モーゼに近づいたときと、預言者モーゼが必要以上に彼女を見なかったときの振る舞いは、正しい礼儀作法を示しています。彼女には付き添いがいたわけでも、他の人が見ていたわけでもありませんが、両者ともお互いに対して最高の礼儀作法で振る舞いました。これらの行動は、全てを見ている主への畏れから出たものです。その結果として、父親は彼に、娘たちのうちの一人と結婚するように申し出、預言者モーゼ自身も彼女たちを妻として適した女性だと見なしました。父親と娘たちも、預言者モーゼを導きと守りを生涯通して与えてくれる夫として必要な性質をとりそろえた男性だと見なしました。預言者モーゼは婚姻を受け入れ、また10年間羊飼いとして雇われることも受け入れたのです。
慎み深さ(その3):慎み深さについての物語2
説明: 恥じらいなどの慎み深さの特徴と、それを自ら追求することから生じる上品な行動との関係を示す、預言者の言行録からの3つの物語。
- より ウンム・サルマーン
- 掲載日時 19 Sep 2011
- 編集日時 19 Sep 2011
- プリント数: 185
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預言者ムハンマドとカアバの再建
預言者ムハンマド(彼の上に慈悲と祝福あれ)の慎み深さは、彼の性格の中で最も顕著なものでした。幼いときから、イスラーム以前のアラビアの開放された社会の中でも、彼の羞恥心は特筆するべきものでした。その一つの例として、カアバ神殿から財宝が盗まれたときに、盗人が室内に入れないようにと、カアバ神殿に屋根をつけて再建設した際のエピソードがあります。預言者ムハンマドはまだ若かった頃に、その再建に参加しました。彼は彼の叔父であるアッバースとともに石を運ぶために出かけていきました。彼の伯父は、彼に腰巻きを首に巻き重い石の鋭い部分から身を守るように言いました。
彼がその懸命な助言に従おうとしたときに、彼は目眩を覚え倒れてしまいました。彼の視線は空で泳ぎ、彼の背中が地面についたときに、彼の腰巻きが、陰部は隠していたものの、はだけてしまいました。そのあとすぐに、体を起こし、「腰巻きを!腰巻きを!」と叫んだと言われています。
彼は急いで、腰巻きをしっかりと巻き付けました。それ以降、彼の家族以外で、彼の腰部を目にした人は一人もいません。
上記の物語は、預言者の教友であるアブドゥッラーの息子ジャービルによって伝えられたもので、啓示が下る前でさえも存在していた、預言者ムハンマドの体が露出されることに対する恥じらいの精神と作法を示しています。彼は、神から啓示が下る前も下った後も、身を隠す処女よりも慎み深かったと伝えられています。
モーゼと中傷者
預言者モーゼ(彼の上に神の慈悲と祝福あれ)に関して、彼が若き預言者ムハンマドと同じくらい、体の露出に対して羞恥心を持っていたことを示す、もう一つの物語があります。彼は常に、人前では体を覆った状態で現れていたので、イスラエルの子孫たちから冷笑されていました。彼らは「モーゼはハンセン病か血膿といった皮膚病があるから、いつも体を覆っているのだ。」と言いました。
神は、預言者モーゼについてのこの中傷を明らかにしようとしました。ある日、預言者モーゼが人目のない場所で体を洗うために服を脱ぎ、その服を石の上に置きました。体を洗い終えたあと、服を着るために石に手を伸ばしましたが、その石が預言者モーゼの服を持って逃げてしまったのです。彼は裸であったにも関わらず、杖をとり「石よ!服を返せ!」と言いながら石を追いかけていったのです。
しかしその石は、イスラエル人たちがいる場所まで行き、そこで止まりました。イスラエル人たちは預言者モーゼの、覆われていない状態を見て、彼が神の創造した中でも最も美しい姿形を恵まれた者だいうことを知ったのです。
神は彼を、彼に対する中傷から救ったのでした。しかしモーゼはとても怒っていました。彼は服をとり、急いで身につけました。そして杖で石を叩きつけたのです。この物語を伝えているイスラームの預言者ムハンマドは、その石には今日に至っても、まだ叩き付けられた痕が3、4カ所残っていると伝えました。神はこのように語っています。
“信仰する者よ、ムーサーを悩ました者のようであってはならない。だが神はかれらの言った中傷から、かれを清められた。神の御許で、かれは栄誉を与えられていた。”(クルアーン33章69節)
この物語から預言者モーゼが、公の場で体を露出することに対し、どれだけ恥じらいを感じたかが分かります。事実、彼の体を覆うものが手元にないという焦りが彼の体を公に露出させたのですが、それは神の意志によるもので、神は中傷者から預言者モーゼを守ったのです。もちろん、彼は神の意思に背く露出には耐えられず、服を石からとりあげました。その石により彼の体は露呈され、彼の中傷者によって作り上げられた話を否定することができたのです。
預言者ムハンマドと庭の井戸
どこまで見てよいか、というのはもちろん人によって異なります。女性の体をどこまで夫に見せてよいかは、どこまで兄弟に見せてよいか、そしてまったくの他人にどこまで見せてよいかということとも異なりますし、逆も然りです。また、同性同士でどこまで見せてよいか、ということも同様です。父親、兄弟、息子がどこまで見てよいかというのも、他人の体のどこまで見てよいかということとは異なりますし、母親が、娘や姉妹のどこまで見てよいかは、他人の女性の体をどこまで見てよいか、ということとも異なります。
ある日、預言者はある庭園に行き、教友アブー・ムーサー・アル=アシュアリーにその門を見張らせることにしました。庭園には井戸があり、預言者はその中に足を投げ出した状態で座りました。しばらくするとアブー・バクルがやって来て、その庭に入りたいと請いました。アブー・ムーサーは預言者に、彼の義父が一緒に庭で休みたいと願っている、と伝えました。預言者は「彼に、楽園の庭園が用意されているという知らせを届け、中に入れなさい。」と言いました。
アーイシャの父親であるアブー・バクルは庭に入り、預言者の隣に座りました。預言者は彼の膝より少し上まで腰巻きをまくしあげていました。アブー・バクルは預言者のように、足を井戸の中に投げ出しました。そしてすぐに、ウマル・ブン・アル=ハッターブがやってきました。彼も庭園に入りたいと願いました。アブー・ムーサーが預言者の許可を得るために、預言者にもう一人の義父が訪ねてきたことを伝えました。預言者は「彼に楽園の庭園が待っているという知らせを伝え、中にいれなさい。」と言いました。
ハフサの父親であるウマルは預言者の隣に座り、同じように井戸の中に足を投げ出しました。
両者とも賢明なことに、預言者の隣に座ったので、預言者はひざにあった腰巻きを下げる必要なしに礼儀を守ることができたのです。
そのあとに、彼の娘ルカイヤと結婚した義理の息子であるウスマーン・ブン・アル=アッファーンが庭園に入りたいと願いました。アブー・ムーサーが許可を得に来たときに、預言者はこう言いました。「いくつかの試練のあとに楽園の庭園が待っていると彼に伝え、中に入れなさい。」彼が中に入ったときには、井戸の三面が開いておらず、預言者の向かい側、つまりは預言者の足が、他の二人よりもよく見える場所しか開いていませんでした。ウスマーンがためらったので、預言者は彼の腰巻きを膝下までおろし、ウスマーンを向かい側に座らせました。
イスラームでは、体の部分で公に見せてはいけない部分があります。その部分が陰部に近づくほど、露出されるのが厳しく禁止されています。三人とも預言者が膝を見せるほど近しい家族関係にあったにも関わらず、彼の太ももが見えそうになったときには、彼はそれを隠そうとしたのでした。
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