西アフリカにおけるイスラームの広がり(1/3):ガーナ帝国

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説明: サハラ以南の西アフリカ地域において、いかにイスラームが広まり、偉大な文明が築かれ、現地民を多神教から唯一神への崇拝へと導いたかについて。第一部:イスラームの西アフリカ到達、そしてガーナにおけるイスラーム帝国の歴史。

  • より A・ラフマーン・I・ドイ教授
  • 掲載日時 26 Dec 2011
  • 編集日時 16 Oct 2021
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Spread_of_Islam_in_West_Africa_(part_1_of_3)_001.jpgムスリムの地理学者や歴史学者たちは、アフリカにおけるムスリムの人々や為政者たちについての卓越した記録を残しています。それらにはアル=ハワールズィミー、イブン・ムナッバフ、アル=マスウーディー、アル=バクリー、アブル=フィダー、ヤークート、イブン・バトゥータ、イブン・ハルドゥーン、イブン・ファドルッラー・アル=ウマリー、マフムード・アル=カーティー、イブン・アル=ムフタール、アブドッラフマーン・アッ=サァディーなどが含まれます。イスラームは西暦8世紀にサバンナ地帯に到達し、それと共に西アフリカの歴史が記録され始めました。イスラームは早ければ西暦850年に、テクール王国のジャオゴ族によって受け入れられました。彼らはイスラームを受け入れた最初のアフリカ黒人でした。交易は新たな物質的文化をもたらし、それと共に識字能\力も広がったため、知的発展を遂げたのです。

著名なアラブ人歴史家やアフリカ人学者たちは、ガーナ、マリ、ソ\ンガイ、カネム・ボルヌなどの諸帝国について記録しています。彼らはガーナ帝国の発展へとつながるシジルマサからアウダゴストのタガザ、またシジルマサからガオのトゥアト、またはトンブクトゥといった、アフリカの有名な交易ルートについて記録しています。アル=バクリーは、ガーナが11世紀にはすでに高度な発展を見せ、経済的にも豊かな国だったと記しています。また13世紀のマリにおけるイスラームの影響、そしてその名声がスーダン、北アフリカ、果てにはヨーロッパにまで轟いたマンサ・ムーサーによる支配についても記しています。

西アフリカにおけるイスラームの広まり

イスラームは西暦8世紀にサバンナ地帯に到達し、それと共に西アフリカにおける歴史の記録が始まりました。8世紀の初頭に、ムスリムのアラブ人歴史家が西アフリカの記録を付け始めたのです。著名な学者であるイブン・ムナッバフは、西暦738年には既に記録を開始しており、西暦947年にはアル=マスウーディーがそれに続きました。イスラームがサバンナ地帯に広がるのと同時に、北アフリカからの商業の結び付きも確立し出しました。また、交易は物質的文化の新たな要素をもたらし、それに伴った識字能\力の普及と共に知的発展もみせ、それゆえにスーダンの一部はその後何世紀にも渡って有名となった程でした。セネガル両岸に位置するテクール王国では、支配層であるジャオゴ王朝により、西暦850年頃にイスラームが受け入れ始められました。この王朝は、最初にイスラームを受け入れたアフリカ黒人たちによるものでした。

こういった理由により、ムスリムのアラブ人歴史家たちは、テクール王国(ビラードッ=テクール)を、「黒人ムスリムの地」として言及しています。ラビスの息子、ワルジャビはテクール最初の統治者であり、彼の統治によってテクールにおけるイスラームは確立され、イスラーム法が施行されるようになりました。ムラービト朝のアル=ムラービトゥーンによってテクールが攻撃された1042年には、その地域におけるイスラームの影響はとても深いものでした。アル=イドリースィーは1511年、テクールについて「安全かつ平和で、のどかである」と述べています。テクールの首都も同様にテクールと呼ばれ、商業の拠点として栄えました。商人たちはモロッコから毛織物を商用として持ち込み、その対価として金やビーズなどを運び出していました。

この地域はアラブ人歴史家により、ビラードル=スーダーン(黒人の地)として知られていたため、多くの歴史的資料が存在しています。中世において建国された有名な諸帝国には、現在も知られるガーナ、マリ、ソ\ンガイ、カネム・ボルヌがあります。アル=バクリー、アル=マスウーディー、イブン・バトゥータ、イブン・ハルドゥーンなどのアラブ人歴史家たちはこれらの土地の栄光の時代を書き記していますが、現地の学者による著作も存在しています。例えば、アッ=サァディーによるターリーフ・アッ=スーダーン(スーダンの歴史)、またムハンマド・アル=カーティーによるターリーフ・アル=ファッターシなどが残されています。

また、そこにはいくつかの有名な交易路が存在していました。ガーナ帝国へとつながるシジルマサから(アウダゴストの)タガザに続くもの、そしてシジルマサからガオのトゥアト、さらにトンブクトゥに続くものです。また、現在のナイジェリアとトリポリをフェズ経由でつなぐもの、そしてガダメス経由でチュニジアとナイジェリアをつなぐものなども存在しました。これらの交易路は、上記のすべての街を交易の中心地として、またイスラーム学問・文明の地として有名にしました。以下では簡潔に、西スーダンの諸帝国におけるイスラームの発展について見ていきましょう。

ガーナ帝国におけるイスラーム

ムスリム地理学者であるアル=バクリーは、ガーナの初期ソ\ニンケ帝国についての情報を提供しています。彼の著書、キターブ・フィー・マサーリク・ワル=ママーリク(諸王国と諸陸路の書)では、1068年のガーナの高度な発展について記されています。そこは経済的にも繁栄した国だったのです。国王はムスリムの通訳者を雇っており、大臣や財務官の大半もムスリムでした。ムスリムの諸大臣はアラビア語で記録を付ける程に学識があり、国王の代理として他の為政者たちとやり取りも交わしました。“また、彼らはムスリムであることから、イスラーム世界というより大きな政治に携わっており、それによって国際関係の樹立を可能\としたのです。”

アル=バクリーは11世紀のガーナにおけるイスラームの概要として、次のように述べています:

ガーナ市は平地に位置し、2つの街によって成り立っており、そのうちの1つの大きな街にはムスリムが居住し、12のモスクがあり、そのうちの1つでは金曜合同礼拝が行われていた。それぞれのモスクにはイマーム、ムアッズィン(アザーンを行う者)、そして有給で働くクルアーン朗唱家がいた。街には大勢の法学者、権威者、学識者がいた。

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西アフリカにおけるイスラームの広がり(2/3):マリ帝国とソンガイ帝国

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説明: サハラ以南の西アフリカ地域において、いかにイスラームが広まり、偉大な文明が築かれ、現地民を多神教から唯一神への崇拝へと導いたかについて。第二部:マリ帝国、ソンガイ帝国の歴史。

  • より A・ラフマーン・I・ドイ教授
  • 掲載日時 26 Dec 2011
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マリ帝国におけるイスラーム

アル=バクリーによると、マリにおけるイスラームの影響は、その為政者がイスラームに改宗した15世紀にさかのぼります。マリ帝国はガーナ帝国の跡地から勃興しました。マリにおけるイスラームでは、二人の著名な人物がいます。スンジャータ(1230−1255)とマンサ・ムーサー(1312−1337)です。スンジャータはマリ帝国の創立者でしたが、イスラームの実践においては混合主義を採ったため、ムスリムとしての信仰は弱く、学者たちからも嫌悪されています。マンサ・ムーサーに関しては敬虔なムスリムで、マリ帝国における事実上の設計者であると見なされています。1255年になりスンジャータが死去すると、ガーナの旧従属国家だった多くの国々もマンサ・ムーサーの支配下に置かれるようになりました。彼の後には、マッカ巡礼を果たしたマンサ・ウリー(1255−1270)が登場しました。

マンサ(皇帝の意)・ムーサーは1312年に為政者となり、彼の名声はスーダン、北アフリカ、そしてヨーロッパにまで轟きました。マンサ・ムーサーは1312年から1337年まで国を治め、1324−1325年にはマッカへの巡礼(ハッジ)を行いました。彼は大勢のムスリム学者や建築家らを従えて帰国し、初の焼煉瓦建てのモスクを5軒造らせました。こうしてイスラームは、マンサ・ムーサーの時代に大きな後援を得たのです。多くの学者たちは、マンサ・ムーサーはイスラームへの愛着心を元に、自らの統治における様々な新しい発想を思いついたのであると合意しています。著名な旅行家であり学者でもあるイブン・バトゥータは、マンサ・スライマーンの統治時代(1341−1360)にマリを訪れており、マンサ・ムーサーによる政策の遺産である、マリの政治と経済発展についての卓越した記録を残しています。マンサ・ムーサーによる巡礼は、多くのムスリム商人や学者たちを魅了した、マリの多大な富と可能性を投影しているのです。これらのムスリム学者、商人たちは、マリの文化と経済の発展に大きく貢献しました。彼の統治期において、チュニジアとエジプトとの外交関係が確立し、マリは世界地図にその姿を現すこととなったのです。

ソンガイ帝国におけるイスラーム

およそ11世紀頃、支配層であるザー、もしくはディア族によってイスラームが受容されたのと同時に、イスラームはソンガイ帝国に広まりました。そこは、ガオとの盛んな交易により繁栄していた地域でした。13世紀になると、マリ帝国の支配下に置かれましたが、14世紀末には独立し、帝国はスンニーと改名されました。ソンガイの開拓地は拡大し、15世紀にはスンニー・アリーの支配の元、1464−1492年の間を統治し、西スーダンの主要な街はすべてソンガイ帝国の統治下となりました。イスラーム学問の重要都市であったトンブクトゥやジェンネは、1471−1476年の間、彼の支配下にありました。

スンニー・アリーは、イスラームを利用した名目上のみのムスリムでした。彼はムスリム学者たちを追放し、土着のカルト信仰や魔術を実践していたのです。著名な学者であるアル=マギッリーがスンニー・アリーを異教徒であると名指しすると、彼は懲罰を受けました。しかしながら、カルトや魔術の信仰はソンガイにおいて目新しいものではありませんでした。それらは18世紀に盛んになった信仰復興運動の時代まで西アフリカに存在していたのです。スンニー・アリーに関しては、礼拝や断食をしていたものの、土着信仰とイスラームの折衷を試みていたと言われています。学者たちは、それを単なる冒涜であると呼んでいました。

スンニー・アリーによる混合の試みは、当時イスラーム学問と文化の中心地だったトンブクトゥの権力者や学者たちによって異論が唱えられるようになりました。ベルベル人学者たちで有名なアジト族は、司法長官の職務を担っており、為政者たちに対する勇敢な反抗で知られていました。スンニー・アリーは生前、(1469年、1486年に)トンブクトゥの学者たちにとって不利な対策を採用していました。しかし彼の死と同時に状況は一変し、イスラームとムスリム学者たちは大勝利を収めました。軍の司令官だったムハンマド・トウリーが、スンニー・アリーの後継者だったスンニー・バロウに対し、公の場で自身のイスラーム信仰について明らかにするよう求めたのです。バロウがそれを拒むと、ムハンマド・トウリーはクーデターを起こして政権を奪い、アスキヤ王朝という自らの名を冠した新しい政権を樹立しました。スンニー・アリーはマリのスンジャータと不正の度合いが比較され、アスキヤ・ムハンマド・トウリーはマンサ・ムーサーとイスラームへの情熱において比較されます。

権力に就く際、彼はイスラーム法を確立し、大勢のムスリムたちに裁判官としての訓練を施しました。彼は学者たちに惜しみない援助をし、広大な土地を贈与しました。彼は有名な学者だったムハンマド・アル=マギッリーの親友となり、彼の支援によって著名なムスリム学者たちはトンブクトゥに惹きつけられ、そこが16世紀に学問の地となったのです。トンブクトゥは西アフリカにおける初のムスリム大学であるサンコレ大学を設立したことも知られています。その名は現在でもイバダン大学の職員居住区の通りの名前として残されています。

マリのマンサ・ムーサーのように、アスキア・ムハンマド・トウリーは巡礼に赴き、アラブ諸国のムスリム学者たちと懇切になりました。マッカでは国王による表敬を受け、ターバンを与えられました。彼は国王から、西スーダンにおけるカリフの称号と剣を贈呈され、1497年にマッカから帰国した際には、アル=ハーッジの尊称を得ました。

アスキアはイスラーム法の確立に力を注ぎ、彼の友人だったムハンマド・アル=マギッリーにイスラーム神学についての数々の質問をしました。アル=マギッリーは彼の質問への詳細な返答をし、それをアスキアはソンガイ帝国に広めたのです。それらの質問は、「真のムスリムとは誰のことか」、「異教徒とは誰のことか」などといった信仰における根本的なものでした。シェイフ・ウスマーン・ダン・フォディオの著作を読むと、アル=マギッリーを典拠とする議論が引用されているのが分かります。つまり、アスキヤ・ムハンマドによって提示された諸問題の、アル=マギッリーによる詳細な議論は、シェイフに多大なる影響を与えたということなのです。

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西アフリカにおけるイスラームの広がり(3/3):カネム・ボルヌ帝国、ハウサ・フラニ帝国

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説明: サハラ以南の西アフリカ地域において、いかにイスラームが広まり、偉大な文明が築かれ、現地民を多神教から唯一神への崇拝へと導いたかについて。第三部:カネム・ボルヌとハウサ・フラニ帝国の歴史。

  • より A・ラフマーン・I・ドイ教授
  • 掲載日時 02 Jan 2012
  • 編集日時 02 Jan 2012
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カネム・ボルヌ帝国におけるイスラーム

13世紀のカネム・ボルヌの領地は、南はチャド湖周辺地から、北はフェザーンにまで達しました。今日、カネムはチャド共和国の北部に位置しています。1085−1097年の間に支配した、カネムの為政者ウメ・ジルミーによって、カネム・ボルヌにイスラームをもたらしたムハンマド・マニという学者を介し、初めてイスラームは受容されました。ウメ・ジルミーは敬虔なムスリムになりました。彼は巡礼の旅に出ましたが、マッカに到着する前にエジプトで死去しました。また、アル=バクリーはアッバース朝によって粛清の危機に陥ったウマイヤ朝の避難民がバグダードから逃れて定住した土地がカネムであったと言及しています。[21,22]

カネムにおけるイスラームの広がりにより、中央スーダンではムスリムの影響力が増し、中東のアラブ世界、そしてマグリブとの関係が築かれました。ウメの息子、ドゥナマ一世(1092−1150)も巡礼を果たし、マッカへの三度目の旅ではスエズ運河に向かう途中のエジプトで王冠を授けられています。歴史家イブン・ハルドゥーン(1406没)が言及するように、ドゥナマ二世(1221−1259)の統治期である1257年頃には、チュニジアにカネム大使館が設置されました。それとほぼ時期を同じくして、マドラサ・イブン・ラシークという宿泊施設付属の大学がカイロに出来ました。13世紀末になると、カネムはイスラーム学の中心地となり、著名な教師たちが教職のためマリからカネムへとやってきました。13世紀中頃には、カネムは(アルジェリアのサハラ地帯)トゥアトとの外交関係、そしてチュニスのハフサ朝との大使レベルの関係を築きました。カネムの学者や詩人たちは、非常に高水準の古典アラビア語を書くことが出来たと言われています。1391−1392年におけるカネム法廷の書記長による手紙から、その証拠を見出すことが出来ます。

歴史家イブン・ハルドゥーンは、ドゥナマ二世を「カネムの王、ボルヌの主」と呼んでいます。なぜなら、彼の帝国は西はカノ、東はワダイにまで拡大したからです。ドゥナマ二世は人々によって神聖視されていたタリスマン(ムンニ、またはムニー)を切り開いたため、受難の時代をもたらしたと言われました。彼はイスラームへの情熱から、この「忌まわしき行為」を行ったのです。タリスマンは伝統的かつ神聖なシンボルであり、彼は国民の多くから反感を買ったのです。

14世紀末、1476−1503年の間を統治したアリー・ドゥナマ、(別名アリー・ガーズィー)によって、カネム帝国の新首都がボルヌのニガザラガムに設置されました。繁栄を収めたこの首都は、1811年まで存続しました。アリーはイスラームを復興させ、イスラーム諸学の学習に没頭しました。彼はイマーム・ウマル・マスランバを訪れ、イスラーム法も学習しました。また彼は自らの模範によって、貴族や首長たちの妻を四人までに制限するよう説得しました。

ボルヌのイスラーム化は、マイ・イドリース・アルーマ(1570−1602)の時代にさかのぼります。私たちは、年代記録者のアフマド・ブン・ファルトゥワを通して彼のことを知ります。9年間に渡る統治において、彼はマッカへ巡礼し、そこにボルヌからやってくる巡礼者たちのために簡易宿泊所を建てました。彼はイスラームの実践を復興させ、人々にそれらを遵守させました。また、彼はカーディー法廷を設立し、従来の慣習法に代わってイスラーム法を導入したのです。また彼は、既存の葦で出来たモスクを煉瓦のモスクとして建て替えました。

1810年、マイ・アフマドの時代にボルヌ帝国の栄光は終焉を迎えましたが、イスラーム学問の中心地としての重要性は存続したのです。

ハウサ・フラニにおけるイスラーム

ハウサ建国に関し、カネム・ボルヌに移住したベグ出身のバヤジダ(バヤズィード)にまつわるハウサの伝説があります。当時のボルヌにおけるマイの為政者はバヤジダを歓迎し、自分の娘を娶らせましたが、彼の追従者の複数からは略奪を受けたため、彼は妻と共にマイを離れ、ガヤ・マイ・カノに辿り着き、カノの金匠に剣を造らせました。伝説では、井戸からの水の汲み上げを阻んでいた大蛇をバヤジダは殺し、カノの人々を助けたことになっています。そして、ダウラと呼ばれた女王が感謝の気持ちとして彼と結婚したとされます。バヤジダはこの結婚からバオと名付けられた子供を授かり、その後バオにはビラン、ドクラ、カツィナ、ザリア、カノ、ラノ、ジェビルと名づけられた7人の子供ができ、彼らはハウサ国の創設者になったとされます。この伝説の信憑性はどうあれ、ナイジェリア北部のハウサ語とその文化がいかに始まったかという説明が試みられています。

イスラームは14世紀にハウサの土地に広まりました。およそ40人のワンガラワ農民たちが、アリー・ヤジによる1349−1385年のカノ統治時代にもたらしたとされています。モスクが建設され、アザーン(礼拝開始の呼びかけ)を行うムアッズィン(呼びかけ人)、そして宗教裁定を下す裁判官が任命されました。ヤァクーブという為政者の統治期(1452−1463)には、あるフラニ人がカノへと移住し、イスラーム法の書物を紹介しました。ムハンマド・ルムファの統治期(1453−1499)になると、イスラームはカノにおいてしっかりと根ざしていました。彼の統治期にムスリム学者たちはカノを訪れましたが、一部はイスラームを伝道するためトンブクトゥからも訪問したのです。

ムハンマド・ルムファは、政策についてムスリム学者たちの指導を仰ぎました。彼こそが、著名なムスリム神学者アル=マギッリーが15世紀にカノを訪れた際に、イスラーム政治についての本を書くよう求めた人物でした。その本は名高い名著であり、「君主の義務」と銘打たれています。アル=マギッリーは後にカツィナへと出向き、そこは15世紀における学問の地となりました。神学書が語源学書などを携えたトンブクトゥのサンコレ大学の学者たちも同様にそこを訪れていました。13世紀には、ムハンマド・ダン・マリナや、ムハンマド・ダン・マスィナ(1667没)などといった、今日も著作の残されている現地出身の学者たちをカツィナは輩出しています。

シェイフ・ウスマーン・ダン・フォディオ、また彼の兄弟アブドッラー、そしてその息子ムハンマド・ベロによる文学作品は、18世紀末におけるハウサ・フラニの混合主義的実践について記述されています。ウスマーン・ダン・フォディオによる1904年の運動は、シェイフによってビドア・アッ=シャイターニーヤ(悪魔の宗教革新)と呼ばれた混合主義を排除するためのイスラーム復興主義として紹介されました。

アフリカにおけるイスラームの広まりは、その一部がここで述べられたように、歴史的、地理的、心理的な部分、またムスリム共同体の分布などの多くの要素がからんでいました。アフリカにおける最初の出現以来、イスラームは拡大し続けて、その当初から現地の学者たちは皆アフリカ人でした。イスラームはアフリカに根ざした宗教となり、そこにおいて多種多様な影響を与えてきたのです。

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