イスラームにおける教養(上):バグダードの書物
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 02 Mar 2015
- 編集日時 20 Nov 2017
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暴力によって支配され続けてきたバグダードは、幾度にも渡り苦難の時を乗り越えてきました。いまやバグダードは「混乱」「死」「破壊」を連想させる都市です。バグダードの現状は、苦痛に叫びながら、煙幕の内側で死にゆく過程にある都市です。テレビ画面に映し出される現状からは、過去にはそこに世界中の知が集結した都市だったことを想像するのは困難かも知れません。「バグダード」と「書物」は、数百年に渡り同義語でした。家庭には本棚が並び、バグダードの市街には書店が並んでいました。現在もバグダードの瓦礫と混乱の中で、住民たちは書物を買い求めます。「これはイラクの病気なのです。人々は食物ではなく、書物にお金を費やすのですから。」NBCニュースのイラク人通訳者は冗談を交えてそう言います。
ヨーロッパが暗黒時代と呼ばれた時期にあったさなか、バグダードは書物に熱狂していました。ヨーロッパ中の教会では、そこにわずか数冊の本が置いてあれば幸運であると見なされていた時代、バグダードには100店もの書店が並ぶ通りがあり、それぞれが書物か文房具、あるいは双方を販売していたのです。当時の西洋世界を見渡しても、読み書きのできる人々は裕福な家庭や宗教権威に限定されていましたが、バグダード市内には30もの図書館があったのです。
預言者ムハンマドの死から200年もしない内に、小さなイスラーム国家は西はアラビア半島から北アフリカ諸国、そして東はペルシャからウズベキスタンを超え、インドよりも先の地域にまで拡大していました。チグリス川の川岸に発展した都市であるバグダードは、西暦およそ750年にイスラーム帝国の首都として制定されました。その地理的な位置は、周辺諸国はもちろん、果ては中国までの交流を可能とし、バグダードは政治上・行政上だけでなく、文化と学びの中心地となりました。
帝国の諸地域の男女はバグダードへ押し寄せ、そこへ当時の既知世界からの様々な知識をもたらしました。
ムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、ゾロアスター教徒、さらに素性不明な諸宗教の人々もバグダードに居住していました。様々な書物がバグダードの生活を描写するようになりました。街路には作家、翻訳家、写本家、啓蒙家、司書、製本家、収集家、販売者などで溢れていました。しかし、それら多様な出自の人々はつながりを共有する必要性を持っていました。こうしてアラビア語が学問の言語として発達し、つながりが確立されたのです。
プラトン、アリストテレス、プトレマイオス、プルタルコスの作品はアラビア語に翻訳されました。ユダヤ人哲学者たちは、ギリシャ哲学書のアラビア語訳を通して論文などを著しました。ヨーロッパが暗黒時代から啓蒙時代に突入した際には、帝国の基盤を取り戻すためにアラビア語の書物に頼ったのです。
バグダードで翻訳された原本の多くは、それらが著された本国では既に消失していた場合が多々あり、アラビア語の訳本だけが残されていました。バグダードの学者たちはギリシャ、ローマ、エジプト、さらにはペルシャ、インド、中国などの古典を保持する責任を負っていました。それらの著作はアラビア語からトルコ語、ペルシャ語、ヘブライ語やラテン語などの元の言語へ再び翻訳し直されたのです。カトリック教会のトマス・アクィナスは、バグダードの学者たちによって訳されたアリストテレスの哲学書を読み、かの有名な「理性と信仰の調和」について著しています。
バグダードの学者たちは、名高い作品群を収集・編纂しただけでなく、それらを知識体系に組み込みました。彼らは天文力学といったような新たな学問の分野を開拓していき、世界に代数学や幾何学をもたらしたのです。バグダードの学者たちは、医学書としては世界初とみられる解剖図を含む眼科学の教本を制作しました。それは洋の東西を問わず、決定的な功績となり、8世紀以上に渡り使用され続けました。
バグダードが学問の中心地となると、時のカリフだったハールーン・アッ=ラシードとその息子のアル=マアムーンは、歴史上最も著名なシンクタンクであるバイトル=ヒクマ(英知の館)を建設しました。英知の館に集った学者たちは、近代のそれとは異なり「専門分野」を持ちませんでした。アッ=ラーズィーは哲学者であり数学者であり内科医でもありましたし、アル=キンディーは論理、哲学、幾何学、算定、算術、音楽、天文学について著しています。その著作の中には「一部地域に降雨が少ない理由(The Reason Why Rain Rarely Falls in Certain Places)」、「目眩の原因(The Cause of Vertigo)」、「ハトの異種交配(Crossbreeding the Dove)」などがあります。
歴史家アル=マクリズィーは、西暦1004年の英知の館の開館について次のように叙述しています。「学生たちはそこに住み込み、他の(多くの)図書館からも本が持ち込まれました。・・・そしてそこは一般市民にも解放されていました。そこでは誰であれ、いかなる本でも読みたければ読むことができ、複写したければそうすることができました。学者たちはクルアーン、天文学、文法、辞書学、医学などを学びました。建物はカーペットで装飾され、すべてのドアや廊下にはカーテンが掛けられており、管理者、使用人、清掃員やその他の従業員が一体となり施設全体を維持していました。」
本は常にバグダードの生活に関わってきました。西暦11世紀のバグダードでは、一冊の写本は「近代の本と同等の大きさで、良質の紙の裏表に文字が書かれており、革装丁されていました。」一般的な書店には、クルアーン、クルアーンの注釈書、言語学、カリグラフィ、キリスト教およびユダヤ教の聖典、歴史書、政府の関連書、裁判の記録、イスラーム以前・以降の詩、様々な宗派の思想書、伝記、天文学、ギリシャ医学、イスラーム医学、文学、フィクション小説、旅行ガイド(インド、中国、インドシナ半島)など、数百冊もの本が並んでいました。
現在、周辺で爆撃が繰り返されるような危機的状況の中でも、バグダードの人々は文学的遺産を捨ててはいません。瓦礫の中でも書店主は仕事に精を出しますし、バグダード市民は読書をするか、食事をするかで悩みます。イスラームには長い文学の伝統があるため、それは驚くべきことではないのです。預言者ムハンマドに下された最初の啓示は、「イクラ(読め・学べ・理解せよ)」だったのです。
第2部ではクルアーン、そして預言者ムハンマドにまつわる伝承から、教養・知の探求がどのように言及されているのかについて見ていきます。
イスラームにおける教養(中):知の探求
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 09 Mar 2015
- 編集日時 09 Mar 2015
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イスラームは、教養と深く関わっている宗教です。クルアーンが啓示されたときの最初の言葉は「イクラ(読め・学べ・理解せよ)」でした。マッカ郊外の洞窟で、天使ガブリエルは預言者ムハンマドの胸を締め付け、彼が読むよう要求しました。読み書きのできない預言者(神の慈悲と祝福あれ)は、こう答えました。「私は読むことができません!」
“読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。」読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」”(クルアーン96:1−5)
預言者ムハンマドは読み書きができませんでしたが、教養の重要さは理解していました。当時のアラブ人たちの大半は読み書きができなかったものの、非常に雄弁で、言語への愛着を持っていました。アラブ人たちは、詩、物語り、そして系譜の暗記など、話し言葉を究めています。教養の激励は、自然な進歩なのです。
ムスリムは、クルアーンの言葉を神の言葉そのものであると信じており、それを保持することは最も重要な関心事でした。イスラームの最初期から、預言者の教友たちはクルアーンの言葉を書き留め始めていました。そのために樹皮、動物の革、さらには石なども用いられました。これは教養の新たな時代に寄与したのです。
初期ムスリムの多くはマッカ社会において地位や権力がなく、あるいは奴隷で貧困にあえいでいました。イスラームは彼らが平等と敬意を勝ち取る機会を与えました。預言者ムハンマドは、彼の追従者たちが良い教育を受け、教養があれば、彼の新たな国家は存続し、発展するであろうと賢明にも理解していました。
マッカの抑圧者たちとの最初の戦争であるバドルの戦いにおいて、ムスリム軍は70名の捕虜を得ました。預言者ムハンマドは、捕虜たちの大半が読み書きができたことを知っていたため、ムスリムに読み書きを教えることができた10人の捕虜を解放しています。
新ムスリムたちは、それぞれの人生の中でクルアーンの教えを実践する重要性を理解し始めました。その当時は現在と同様に、信仰者が周りの世界を見回し、創造の驚異について熟考し、創造主の偉大さを理解するには教養が必要でした。信仰者たちは、クルアーンを読んで神と親密になろうと心がけます。彼らは知を求めて自らの信仰を強化させます。彼らは真の服従と確信によって神を崇拝するため、そうした知識を実践に移すのです。
“また知識を与えられている者たちは、この(クルアーン)があなたの主からの真理であることを知り、心を謙虚にしてそれを信じる。本当にアッラーは、信仰する者たちを正しい道に導かれる方である。”(クルアーン22:54)
ムスリム学者たちによって細心の注意と共に、念入りに記録された預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の言行録において、彼は追従者たちが知識1の探求をするよう激励していたことが伝承されています。人が知識を求めて道を歩むのであれば、神はその人物のために楽園への道を容易なものにする2と彼は述べています。また彼は、知識とは死後も続く3つの善行のうちの1つ3であるということも述べています。
人間には頭脳と知性があります。私たちにはまた理性の力、そして知識を受け入れるか拒絶するかの自由意志もあります。神は知識を得るための道具とともに人間を創造されました。かれは人類の父アダムに、あらゆるものの名前を教えました。アダムには言語能力、またいかに知識を応用すべきか、そして計画を立てて決断し、目的を達成する能力が与えられたのです。私たちアダムの子孫は、地上に繁栄し、最善の方法で神を崇拝することのできるよう、それらの能力を受け継いだのです。
“かれはアーダムに凡てのものの名を教えた。”(クルアーン2:31)
“アッラーはあなたがたが何も知らない時、あなたがたを母の胎内から生まれさせ、聴覚や視覚や心(知能感情)をも授けられた。必ずあなたがたは、感謝するであろう。”(クルアーン16:78)
イスラームにおいては、知識の探求が重要視されます。預言者ムハンマドは、その信徒たちに勉強会に参加するよう激励し、またクルアーンの教師を周辺部族や遠方の諸都市へ派遣しています。彼は信徒たちと座り、イスラームの基本を教え、彼らの朗誦するクルアーンを慎重に聞きつつ、たびたび涙を流したものでした。預言者ムハンマドは、クルアーンを学んだ後に他者に教える者が、彼の信徒たちの中でも最善の者であると述べていました4。
初期のムスリムたちは、クルアーンやイスラーム学を学べる学校を設立しました。当初、イスラームは迫害の恐れから秘密裏に実践されており、アルカムという人物の家でイスラーム知識が伝播されていました。21世紀の現在も、最初のイスラーム学校を記念し、ムスリム世界の各地ではダールル=アルカム(アルカムの家)という名の学校が多々あるのです。
イスラームは知識、教育、教養、そして知的探求を徳の高いものとみなします。イスラームの歴史を通して、学校や大学、図書館などの設立は数え切れません。ムスリムたちは教育論は確立させ、カリキュラムを設定し、文学や芸術を追求し、知の探求をさらなる高みに引き上げました。
第3部では教育論、そして学校や教育センターの設立について見ていきます。
イスラームにおける教養(下):全人への教育
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 09 Mar 2015
- 編集日時 09 Mar 2015
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“読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。」読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」”(クルアーン96:1−5)
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)に啓示されたクルアーンの最初の言葉は、「読め」でした。それは、主の御名において読めというものです。神は信仰者が読み、知を求め、宇宙とその驚異について熟考し、感謝するよう求めています。イスラームは最も初期から教養と教育を推奨していました。神はクルアーンを通して、教育の重要性を何度も繰り返します。
“アッラーはあなたがたの中信仰する者や、知識を授けられた者の位階を上げられる。”(クルアーン58:11)
“あなた(預言者ムハンマド)に対する啓示が完了しない前に、クルアーンを急いではならない。寧ろ(祈って)言いなさい。「主よ、わたしの知識を深めて下さい。」”(クルアーン20:114)
イスラームは、その創始当初から学びを推奨してきました。それは科学的探求、学びの輪、地域における資料の活用、集団による調査、問題解決のアプローチ、弁論の技術、無料教育を推進します。学びの重要性は、預言者ムハンマドが教育をイスラームの重要な一部として確立させたことにより強調されています。
預言者ムハンマドはダールル=アルカムにおいて、初の知の会合を開きました1。彼は礼拝後モスクに座り、教友たちは彼の回りに集まると、イスラームの基礎について、倫理の重要性について、そして最も重要なこととして、神の唯一性について教えられました。預言者ムハンマドは知の会合において、弟子たちにクルアーンの章句を教え、彼らをマッカ・マディーナ外の共同体へ、クルアーンの教師として派遣しました。
クルアーンを暗記・理解することは、イスラーム教育において今なお最も重要とされる科目です。それに次いで、預言者にまつわる伝承集の学習と暗記が来ます。それらの伝承は、真正が保証された伝承経路を通して伝えられています。それは今日、学問の正統性において参考文献一覧が使用されることと似通っています。
それらの教師たちは、預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の模範に忠実に従いました。彼らは弟子たちと半円を作って地面に座りました。教師の横には最も信頼の置ける優秀な弟子が座り、教師の言葉を書き留めました。イスラームの教育は、小さな輪からモスク付属の学校へと急速に発展していきました。イスラームのカリフ国家では、短い期間で領土内のあちこちに大きな学校や大学が建てられ始めたのです。
カリフ国家が拡大すると共に、かつて預言者の用いた方法論が広まりました。クルアーンやイスラーム知識を収集・伝播することは、称賛すべき職であると見なされました。クッターブ(学識者)やムアッリム(教師)はイスラーム圏のあらゆる町や村に存在していました。イブン・ハウカルは、シチリア島への訪問時、現地には300人の初等学校教師がいたと証言しています。後に初期のイスラーム・カリフ国の官僚・総督となるジュバイル・ブン・ハイヤは、ターイフ(マッカ近郊の町)の学校の教師でした。著名なアル=ハッジャージや詩人のアル=クマイト、アッ=ティリンマらも教師であったと言われています。
尊敬の対象となる著名な学者たちも、教育は名誉であると見なしていました。伝統派の注釈学者であり文法学者でもあるイブン・ムザーヒム(西暦723年没)は、3,000人もの子供たちが出席した学校をクーファに持っていました。弟子たちへの行き渡った指導のために、彼はラバに乗って子どもたちの列を巡回していました。
イスラームの教育には、他の科目が追加され始めました。それらはイスラーム的作法、イスラーム法学、数学、文法、医学、農業、倫理学、市政学、経済学、歴史などです。教師陣、その助手、そして生徒たちは皆教育を真剣に受け止めていました。ある教師の教授法は、以下の引用で説明されます。
“彼は法学書の一節を数回読み返しました。生徒たちが暗記すると、それを復習し、イマーム・マーリクとアブー・ハニーファの相違した裁定を始め、ときには他者による同様のもの、そしてテキストの中で明らかにされていない箇所などに特に注意を促しました。そして彼は典拠を引用し、非常に明確な言葉遣いで類推を説明し、生徒たちの頭に残るよう、異なる言い回しも使ってそれらを繰り返しました。”2
一般的にモスクや学校は、慈善事業によって寄贈されたものでした。教養・教育はとても熱心に激励されていたことから、学校や先生を見つけることのできない生徒は一人もいませんでした。貧困によって教育を受けられないということはなかったのです。初期イスラームの慣習における手法と、現在の教育機関のそれとには驚くべき共通点が多々存在しています。詩や弁論大会における優秀者に対する懸賞、試験の実施、そして学位の授与などがそれらの一部です。
また、著名な教育者としては、思想家、医師、教師だった(西洋でアビセンナとして知られる)イブン・シーナーがいます。西暦10世紀において、彼は800年以上に渡り医学界の主要な参考書として使用された医学書を著しています。またイブン・シーナーは、長年の使用に耐え得る教育課程や教育論も残しています。
彼は子どもたちに対するクルアーン、詩、篤信、倫理の学習の必要性を強調しました。一方で、子どもたちが遊び、運動し、気晴らしをする必要性も無視しませんでした3。教育の全体的な目的とは個々人の身体的・精神的・倫理的成長であると考えていたのです。彼は教育について、子どもたちを社会に持続的に貢献させるための準備であると捉えていました。
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は文盲だったものの、教養と教育の重要性を理解していました。彼は信徒たちに、知の探求をし、それを他者に継承するよう喚起していました。彼はクルアーンを暗記する重要性と、それが伝える知識に基づいた行為をするよう説いたのです。また彼は信徒たちが、周囲にある神の偉大さのしるしを探すよう勧めました。神を愛するためには、神を知ることが必要で、神を知ることはかれが創造した世界の素晴らしさを知ることによってもたらされます。知識こそが、私たちの創造主を愛し、最善の方法でかれを崇拝するための鍵なのです。
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