人生の意味(パート1/3):理性と啓示
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 27 Dec 2010
- 編集日時 27 Dec 2010
- プリント数: 232
- 観覧数: 19,010 (日平均: 4)
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
はじめに
「人生の意味と目的とは何ですか?」これは歴史上問われてきた、最も重要な質問でしょう。時代を超えて、哲学者たちはこれを最も根本的な質問と見なしてきました。科学者、歴史家、哲学者、文筆家、心理学者、そして人類一般が、その人生のどこかの時点でこの質問と格闘するのです。
理性は十分なる指針となり得るか?
「なぜ私たちは食べるのか?」「なぜ私たちは眠るのか?」「なぜ私たちは働くのか?」これらの質問に対しての私たちの回答は、似通ったものです。「生きるために食べるのだ。」「生きるために眠るのだ。」「自分自身と、家族を支えるために働くのだ。」しかし人生の目的は何か、となると、人々は混乱します。彼らの混乱は、私たちがどのような回答を得るかによって窺い知ることが出来ます。若者たちは、こう言うかもしれません:「俺は酒と女性のために生きてるんだ。」また職業をもっている中年は、こう言うかもしれません。「私は、快適な退職後の生活に十分なものを蓄えるために、生きているのです。」また老人は、こう言うかもしれないでしょう:「私は自分の人生の大半において、なぜ自分がここにいるのかということを問い続けてきた。もし目的があったのなら、もう気にしないのだが。」そして恐らく最も多い返事は、「本当に分かりません!」というものでしょう。
それではあなたは、どうやって人生の目的を見つけますか?基本的には2つの選択肢があります。一番目は、啓蒙主義運動の名高い業績である「人間理性」の指針に委ねることです。結局のところ、啓蒙主義は私たちに、自然界の注意深い観察に基づく現代科学を提供してくれました。しかしポスト啓蒙主義の哲学者らは、それを見つけ出しましたか?カミュは、人生を「不条理である」と言いました。サルトルは「苦悩と放棄、そして絶望」について語りました。これらの実存主義者たちにとって、人生には何の意味もありません。またダーウィン主義者たちは、生命の意味は生殖することであると考えました。ウィル・デュラントは、ポストモダニズム的な男性の苦境を表現して、こう書きました:「信仰と希望は消滅する。疑念と絶望が、今日の風潮なのだ…空っぽなのは私たちの家や金庫なのではなく、私たちの“心”なのである。」生命の意味に関しては、最も賢明な哲学者たちでさえ、ただ憶測するだけです。前世紀の最も有名な哲学者であるウィル・デュラントと、イリノイ州・ノースウェスタン大学の哲学教授ヒュー・ムーアヘッド博士は、いずれも「人生の意味」という題名の別々の本を書きました[1]。彼らは、当時の世界における最も有名な哲学者、科学者、作家、政治家、知識人に手紙を書き、こう質問しました:「人生の意味は、何ですか?」それから彼らは、彼らの返答を出版したのです。彼らの内のある者は、彼らにとっての最善の推測を提供しました。またある者は、人生の目的は自分自身で決めたに過ぎないことを告白し、また別の者は正直に「分からない」と答えました。実際のところ、何人かの有名な知識人は著者に対し、人生の目的が解明されたのなら教えてくれるよう返答を頼んだほどだったのです!
天に「語らせよ」
哲学者に決定的な回答が出来ないなら、その答えは私たち自身が備えている知性と心の範囲内で見つかるかもしれません。あなたは澄み切った夜に、広大な空を見たことがありますか?そこであなたは、数え切れない数の星を目にするでしょう。望遠鏡を通して見て下さい。あなたは、そこで今も新星が形成され続けている、巨大な渦状銀河と美しい星雲を見るでしょう。また星の末期の苦しみによって引き起こされる古代の超新星爆発の残存物や、土星の素晴らしいリング、木星の周りの衛星を目にすることが出来るでしょう。黒いビロードの層の上に細氷のように輝く、夜空に広がるこれらの無数の星の光景を目にして心を動かされないことなど、ありえるでしょうか?星のまた向こうへと続いていく数あまたの群星はその余りの密度ゆえに、きらめく霧の繊細な粒子へと溶け込んでいくかのように映ります。その壮大さは私たちを謙虚にさせ、興奮させると同時に、探求への熱望を吹き込み、私たちの熟考を呼び起こします。それはどのように形成されたのでしょうか?私たちとそれとの関係はいかなるもので、またそこにおける私たちの立場とはどのようなものなのでしょうか?私たちは、天が私たちに「話しかけてくれる」のを聞くことが出来るでしょうか?
「実に諸天地の創造と昼夜の変転の中にこそは、思慮ある者たちへのみしるしがある。彼らは立ち、座り、横になってアッラーをズィクル(唱念)し、天地の創造に思いを馳せてこう言う:「私たちの主よ、あなたはこれら(の創造)を徒にお創りになったのではありません。(そのような無益さや落ち度から)遥かに崇高なお方よ…」(クルアーン 3:190−191)
本を読む時、私たちは著者が存在することを認めます。また家を見る時、私たちは建築者が存在することも認めます。いずれの場合もその作成者により、ある目的のために作られているのです。そして私たちの周囲の世界と同様、宇宙の設計と秩序、そしてその複雑さの全ては、完璧な設計者である最高の知性が存在することの証拠です。全ての天体は、物理学の緻密な法則によって管理されています。一体法律家なしに法律が存在する、などということがあるでしょうか?ロケット工学者であるフォン・ブラウン博士は、以下のように述べています:「私たちが月へ飛ぶための宇宙船を組み立て、その飛行時間を秒単位の細かい精度で計算することに困難を見出さないのは、宇宙の自然法則の非常な正確さの賜物です。これらの法則は、誰かによって設けられたものに違いありません。」また物理学教授ポール・デービスは、人類の存在は単なる運命の気まぐれなどではないと結論づけ、こう述べています:「私たちは本当に、ここにいることを意図されていたのです。」また彼は、宇宙に関してこう言っています:「科学的研究を通して、私はこのようにますます強く信じるようになりました:“私は、余りにも驚くべき精巧さをもって創られている自然宇宙を、単なる冷酷な事実として受け入れることは出来ない。”もっと深いレベルの説明があるに違いない、と私には思われるのです。」宇宙、地球、地上の生物は全て、知的かつ強力な一つの創造主を無言で訴えています。
私たちが創造主によって創られたとするならば、創造主にはきっと私たちを創る理由や目的があったに違いありません。こうして、私たちの存在における神の目的を知るための探求が、重要になってきます。この目的が明るみに出た後、私たちはそれと調和して生きたいかどうかを選ぶことが出来るのです。しかし創造主からのいかなる情報もなしに、私たちが自分自身の装備のみでもって私たちに求められていることを知ることは、可能でしょうか?特に神が私たちにその成就を望んでいるとしたら、神自身が私たちにその目的を教えてくれないなどということは、自然なことでしょうか?
推測への代替案:神に訊け
このことは私たちに、二つ目の選択を提供します:つまり人生の意味と目的に関する推測の代替案は、啓示であるということです。ある発明品の目的を知るための最も簡単な方法は、その発明者に尋ねることなのです。あなたの人生の目的を発見するには、神に尋ねてみて下さい。
Footnotes:
[1] “On the Meaning of Life” by Will Durant. Pub: Ray Long & Richard R. Smith, Inc. New York 1932 and “The Meaning of Life” by Hugh S. Moorhead (ed.). Pub: Chicago Review Press, 1988.
コメントを付ける