アーミナ・ヘルナンデス 米国出身の元キリスト教徒(上)
説明: 米国人女性による改宗記。第一部。
- より アーミナ・ヘルナンデス
- 掲載日時 27 Jul 2015
- 編集日時 27 Jul 2015
- プリント数: 19
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1980年代に米国で育った私にとって、イスラームに関する知識は最小限のもので、それも間違ったものでした。父は私と弟に、世界情勢や他文化について見識を持ち、たくさん読書をするよう教えました。当時、メディアはイラン革命とパレスチナ情勢を元にイスラームを描写していました。女性問題の描写は、映画「星の流れる果て(原題:Not Without My Daughter)」のそれに限定されていました。その映画を実際に見たことはなかったものの、当時の私の理解は、ムスリム女性は夫の奴隷であり、一夫多妻制の数に制限はなく、女児を出産した妻たちは暴力を振るわれるか、もしくは殺害され、男児を生み続けない限りは軽視されるのだというものでした。顔を覆うベールや、幾層もの黒装束に完全に包まれた女性たちの光景を見せつけられ、マドンナやシンディー・ローパーの時代に育っていた私たち少女はとても強い恐怖心を植え付けられました。それらの問題に加え、中東の女性たちは家から出ることができず、貧困の中に暮らし、他の妻たち、そして子どもたちと部屋を共有し、夫に会うことは稀であると私たちは学校で教えられてきました。イスラームの歴史・文化についての非常に限定的な授業では、中東文化と宗教としてのイスラームとの違いが示されることはありませんでした。私はアラブ人や一部のアフリカ系米国人の他にはムスリムがいるとは全く知らず、すべてのアラブ人がムスリムではないということも知りませんでした。
私は父から、「最高の教育とは読書による独学である」と教わったため、真剣に読書をするようになりました。私の外出先は必ずと言っていいほど図書館で、私は読書に没頭していたことから、両親は私へ罰を与えたいときは私の本を取り上げたものでした。アルハムドゥリッラー(アッラーに讃えあれ)、読書を愛する気持ちは私の中に留まり、全く予期してはいなかったものの、それは私をイスラームへと導くことになります。小学5年生のときにマルコムXの伝記を読んだとき、私の気持ちはイスラームに傾倒することはなかったものの、豚肉を食べることがなくなりました。それは、私の考え方には大きな変化をもたらすことはなかったものの、後日思い返してみると、それは私の心に何かを植え付けたことを自覚することになります。ただ、当時の私はそれについて認めたくも考えたくありませんでした。
それ以降、私は虐待や乱暴を受けたり、他人に利用されたりしました。そうして私は16歳で実家から出ることにしました。弟は家に残りましたが、ギャングに関わっており、そのことで問題を抱えていました。私は無事に高校を卒業し、自分自身で責任ある生活をしていたことに誇りを持っていました。その当時は神については殆ど考えたこともありませんでした。私はウィッカ(白魔術)に一時関わるようになりましたが、遊び半分でやっていたため、自分自身や他人に深刻な被害を与えることがなかったことにほっとしています。また、伝統的ケルト・アメリカ先住民の精神世界(私はアメリカ先住民とアイルランド人の血筋です)、そしてヒンズー教・仏教などをかじり始めました。ただし、それらのいずれも理解した訳でも、「超越した存在」と交信できた訳でもありませんでした。
私はかなり奔放な性生活、薬物使用、クラブやパーティー通いをしていました。私は誰をも「愛し」、未来や来世のことなど省みることなく、快楽主義的な生活を満喫していました。私は重度の鬱病にも苦しみました。実際、鬱には幼い頃からキリスト教徒の両親による厳しい躾が一役買っていました。私は時には自殺を試みたりもしましたが、アッラーの恩寵により、私の心も身体も一生消えない傷を負うことはありませんでした。
私は社会運動に関わるようになり、様々な運動を支援・支持しましたが、私の人生自体は無責任極まりないものでした。私は定職についていませんでしたし、その日暮らしでだらしのない生活を送っていました。お金はなかったものの、私自身は物質主義者で独りよがりでした。私は社会に対して本当に有益なことはしたことがなく、金銭的には家族や友人たちに依存していました。
私が弟のギャングメンバーたちと密接に関わり出したのはその頃でした。私との関係によって、弟と彼の友人たちはギャングを去ったものの、多くの試練が待ち受けていました。私の新たな恋人は深刻な薬物依存症で、私はそれに対して為す術を持ちませんでした。私たちは非常に多くの法律違反を犯し、処分を避けるために他の州に逃げたりしていました。その当時が最も過酷な時期で、私は公園で暮らし、餓死寸前までいき、複数の流産を経験し、お金のためにはそれまで考えたこともなかったようなことまでするようになっていました。
出身州に戻ってくると、恋人は逮捕され、私は再び妊娠していたことが判明しました。アッラーの奇跡により、私の子は健康で、出産まで至ることができました。その後しばらく経つと、留置場の中で弟がイスラームに改宗し、その後釈放されました。彼は引っ越して連絡がつかなくなっていたものの、私の子が生まれると、家族を訪れてやってきました。彼は自分が学んでいることをたくさん教えてくれましたし、私は彼の性格や態度の変化に感銘しました。イスラームの規則性は彼に、好影響を与えたようでした。彼はそれ以前に、統合失調感情障害(統合失調症に幻覚症状や重度の鬱病が混在するもの)を患っていましたが、改宗後には症状がなくなり、治療も必要なくなりました。 弟は穏やかで物腰が柔らかくなり、服装もきちんとし、尊厳ある男性となりました。彼はイスラームの基本を私に教えてくれ、私も彼がイスラームの信仰を見出したことに喜びを感じましたが、私自身の人生を変えることには関心がありませんでした。
ーミナ・ヘルナンデス 米国出身の元キリスト教徒(下)
説明: 米国人改宗者による回顧録。第2部。
- より アーミナ・ヘルナンデス
- 掲載日時 27 Jul 2015
- 編集日時 26 Jul 2015
- プリント数: 19
- 観覧数: 9,174
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息子の父は服役していたため、私は息子のためにきちんとした人生を歩む努力をしました。私は母と教会に通い始めました。弟が実家を訪れた数ヵ月後、彼は全身にベールをまとった妻を連れてきましました。そしてその数カ月後、彼女は男児を妊娠しました。私は新しい義理の姉妹と懇切にしようと心がけたものの、今思うと私は自分自身の生き方を恥じており、彼女の慎ましさを受け入れることができませんでした。そうした私の態度にも関わらず、私にイスラームを紹介し続けてくれた彼女の忍耐と情熱に対してアッラーが祝福してくださいますように。弟もまた、友人を家に連れてきて母とイスラームについて話をしていました。この男性は、弟以外に私が会った最初のムスリムで、彼による訪問は、私がその存在を全く知らなかった自分の新たな一面を引き出しました。そのムスリム男性は、常に明るい光るを放っていました。今となれば、彼の顔にはヌール(光、輝き)があったからだと分かりますが、その当時は彼の顔を直接見ることは恥ずかしさのあまりできませんでした。彼が訪問するときは必ず、私はより多くの衣服で身体を覆ったものでした。彼による影響はとても大きかったことから、今日も私は彼の安全と幸福のためにドゥアー(祈願)しますが、それ以来彼を見ることはありませんでした。当時、私には付き合っていた男性がおり、彼は優しく責任感があるように見えました。それから弟の家族が私と息子、そして母が暮らしていた母の家に引っ越してきました。私の婚約者は毎日私を訪れていました。甥っ子が生まれる数ヶ月前、私は全く会話も何もない状態になるまで義理の妹と確執状態であったため、弟家族はアパートに引っ越してしまいました。それから私は婚約者と結婚し、私たちも母の家から引っ越しました。
甥っ子の誕生、そして私の結婚後、私はまた弟家族を訪れるようになりました。私は彼らの家族生活と家庭内の平穏さに心を打たれました。義理の妹は、私と息子が訪問したときは出来る限りもてなしてくれ、イスラームについても沢山話してくれました。しかし夫は弟のことが気に入らず、彼に面と向かって、また彼の陰でも彼を蔑む発言を繰り返し、私は屈辱感に苛まれました。このことは結婚生活に亀裂をもたらし、夫は私を働かせてくれもしなかったため、私は弟の家で多くの時間を過ごすようになりました。しばらく経つと、私は義理の妹のベールに興味をもつようになり、彼女の感じているプライバシーの心地良さというものを理解するようになりました。また、その生地も私が常に思い込んでいたような抑圧的かつ暑さを助長するものではありませんでした。夫にベールの着用を示唆すると、彼は私を嘲りました。彼はいつも私があらわな姿をしていることを勧め、「セクシー」な妻と一緒にいることは彼をいい気にさせましたが、私は周りから敬意を感じることはありませんでした。結婚から数ヵ月後、そして教会での洗礼儀式から僅か一週間後、彼は浮気をしていること、そして結婚生活を終わらせたいという意志を明らかにしました。私の人生は再び修羅場の様相を呈し、私は息子と母のいる実家に戻ることになりました。
もちろん、私は義理の妹とより多くの時間を過ごすことになりました。弟家族だけが、夫に見放された私をサポートしてくれました。私が通っていた教会は、夫が浮気をする原因はその妻にあるのだといつも言っていました。また彼らによると、私は仕事を探したり(夫から外出許可を得ていたにも関わらず)家から外出すべきではなく、夫の帰宅を忍耐強く待たずに彼抜きの時間を過ごすことは罪だと主張していました。教会は、私が神による「夫の心変わり」を待つことのできるよう、息子の衣食やオムツを提供してはくれませんでした。彼らは単に私を判断していたのであり、そのことは私を非常に悲観的にさせました。弟家族は私が息子の世話をしなくてはならないこと、そして私の結婚生活が終わったことを理解してくれていました。彼らは私が一緒に住むことを提案してくれ、私が仕事に行くことのできるよう、息子の子守りまでしてくれました。彼らは結婚・離婚・女性の権利におけるイスラーム的観点について教えてくれました。私はいわゆる「マゾヒスト的宗教」が、実際には教会よりも現実的であり私の苦境に理解を示しているということを発見し、非常に驚きました。
不幸にも、私が弟に一緒に住む用意ができたことを告げようとする前に、弟家族は思いもよらない引っ越しを余儀なくされました。彼らが落ち着いた後、義理の妹は私に手紙を書いて連絡を取ってくれました。その後数ヶ月、私の人生は依然として混沌としており、そのことにうんざりした私は、自分自身の生き方をしようと決心しました。弟の元上司だったムスリムを見つけた私は、彼に私と息子を弟の家に連れて行ってくれるよう頼み込みました。彼は喜んで応じてくれ、道中ではクルアーンの英訳を読ませてくれました。この人物は非常に親切かつ礼儀正しく、息子にも配慮を示してくれました。彼は結婚を申し込んでくれましたが、私はショックを受け、時間をくれるよう求めました。彼はことなく弟の家まで送ってくれ、仕事に戻って行きました。
弟家族との暮らしは想像していたよりも辛いもので、私たちは非常に貧しい生活を余儀なくされました。しかし私はシャハーダ(信仰宣言)をし、一日5回のアザーンが響き渡る、ムスリムたちが多く暮らす町に住むことができました。その当時は多くの問題も抱えていましたが、美しい思い出ばかりで恋しいです。弟夫妻はウドゥー(お清め)や礼拝の仕方、神への称念など、ムスリムとして知っておくべきことのすべてを教えてくれました。
やがて私は実家に戻り、息子のために仕事を探してよりよい生活をさせてやる必要に迫られました。私はヒジャーブとニカーブ(頭部のベール)の着用を止め、仕事を見つけるために必要なことをしなければなりませんでした。私の基本的モラルは向上し、自分がムスリムであると誇りを持って言うことができましたが、ムスリムとして生活することについては大きな困難を見出していました。地元のムスリムコミュニティは密接なものではなく、私の改宗前の過去が知れ渡ってしまったことから、残念ながら姉妹たちは私との会話を避けていました。アルハムドゥリッラー、私はインターネットへの接続がある仕事を見つけ、イスラームについての情報を検索したり、本を購入したりしました。そうして私はヒジャーブやニカーブも購入するようになりましたが、職場ではヒジャーブの着用を認められませんでした。ネット上で多くのムスリマの友人を作り、自分だけの小さなコミュニティを築きました。また、新しい夫も見つけました。自分の忍耐力の弱さ、そして特定の厳格な価値観から、その結婚生活も失敗に終わり、彼との離婚を求めました。彼と別れた後、私は再びヒジャーブやニカーブをしなくなり、徐々に奔放な生活に戻って行きました。そのことを隠しながら、一時全くと言って良いほどイスラーム的な生活からは遠ざかってしまいました。今も、その夫と留まっていたならいかに人生が好転していたかと考えたりもしますが、アッラーは別のことをお望みだったのでしょう。
私はまた、ある男性と出会いました。彼は親切で優しく寛大で、私は恋に落ちました。ただ、彼はムスリムではありませんでした。私は自分がムスリムであることを正直に打ち明け、ムスリム男性としか結婚できない旨を伝えました。私が再びヒジャーブを着け始めると、彼はそれを受け入れました。彼はシャハーダをしてイスラームに改宗し、私たちは結婚しました。しばらくして、私はまたインターネットに接続できる仕事を見つけるという祝福があり、ムスリム姉妹たちとのコミュニティを再び築きました。私は遂に、常々やりたいと願っていた執筆活動を始めることができました。ネット上の姉妹らの援助によって、私はイスラームの逸話や記事を書き始めました。私の雇用主も、私が社会奉仕においてもたらしたイスラーム的観点と職場においてもらたした秩序を感謝してくれました。彼らは私のヒジャーブの着用を喜び、非ムスリムとして可能な限りの援助を惜しみませんでした。
私は努力を続けているものの、人生は容易ではありません。私は他人と同じように苦労し、時には信仰心が消え入るように思えます。しかし、すべての物事はアッラーの御手に委ねられており、私が自らのナフス(自我)と戦い続け、アッラーに従う限りは、かれは私を守ってくれるということを忘れないようにしています。私は世界中にムスリマの友人がいるという祝福を授かっていますので、インシャーアッラー、いつの日か、強い信仰者たちの共同体に移住できればと思っています。アッラーが私の弟を通して私を真実へとお導き下さったことを忘却することは不可能であり、私はそうした祝福が特別のものであると認識しています。両親はイスラームについて伝聞することを好みませんが、私はこうした恩寵について話し合うことのできる家族がいるということだけで祝福されているということを知っています。私は自分の文章によってアッラーを称賛し、他者がその道を歩んでくれることをドゥアーしています。それは、幸福と良き人生の唯一の道――イスラーム――なのです。
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