人生の意味(パート3/3):現代における偽りの神々
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 10 Jan 2011
- 編集日時 10 Jan 2011
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崇拝行為を必要としているのは誰か?
神は私たちの崇拝行為などそもそも必要とはしていません。むしろ神を崇拝することを必要としているのは、人間なのです。もし誰一人神を崇拝する者がいなかったとしても、それが神の栄光を損ねることなどは決してありません。またもし全人類が神を崇拝したとしても、それが神の栄光に何かを付加することなどもないのです。神を必要としているのは誰ならぬ、私たちなのですから:
「われ(神のこと)はあなた方からの糧も欲しなければ、あなた方がわれに食を与えることも望んではいない。実に神こそがこの上ない御力を備えられ、(万有に)糧を授けられるお方なのであるのだ。,(クルアーン 51:57−58)
「…しかし神こそは(何ものも必要とされない)豊かなお方で、あなた方こそが貧しき者なのである…」(クルアーン 47:38)
神への崇拝の仕方:そしてその理由。
神はその使徒を通して啓示した法に従うことにより、崇拝されます。例えば新約聖書においてイエスキリストは、天啓法に従うことを天国への鍵としています:
「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」(マタイによる福音書19:17)
また同様に新約聖書では、イエスが戒律を厳格に遵守することを強く主張している様子が報告されています。彼はこう言いました:
「それだから、これらの最も小さいいましめ一つでも破り、またそうするように人々に教えたりするものは、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」(マタイによる福音書5:19)
どうして人間は天啓法に従うことによって、神を崇拝する必要があるのでしょう?答えは簡単です。天啓法への服従はこの人生に平安を呼び、来世においては救済をもたらすからです。
天啓法は人間に、人生と対人関係におけるあらゆる側面において、明確な指針を与えてくれます。創造主こそが被造物に最善のことを最もよく知っているお方なのですから、その法は人間の魂と身体、そして社会を害悪から守ってくれます。人類が創造の目的を完遂するためには、神の命令に従うことによってかれを崇拝しなければなりません。
現代における偽りの神々
神こそは人生に意味と指針を与えてくれる存在です。しかしその一方で、現代的生活には一つの基軸、指針、目的、意義が欠如しています。そこにはいかなる普遍的原則や指針などもないのです。
イスラームは神を、愛と畏敬、報奨への期待をもって仕えるべき存在として捉えていますから、現代的生活は多くの神に仕えているということが出来るでしょう。そして現代的神々は、現代人の人生に意味と背景を与えています。
私たちは、言語という家の中に暮らしています。そして私たちの表現は、そこから世界を眺める窓なのです。現代における漠然としたイデオロギーとしては、進化論、ナショナリズム、フェミニズム、社会主義、マルクス主義、また民主主義、自由主義、平等主義などもその方法次第によってはそこに含まれるでしょう。ドイツの言語学者ウヴェ・ペルクセンの言葉を借りるならば、社会の目的、あるいはともすると人間そのものの目的を形作り、定義するために、神の力と権威を不法使用するための“プラスチック(空虚で本質のない)の言葉”が使用されてきました。そしてこれらの言葉は、“感じのよい”オーラを内包しています。漠然とした言葉は、不定形の観念となり得ます。そして観念を不定形にすれば、無限のニーズが覚醒され、これらの無限のニーズが一旦覚醒すれば、それらは“自明”のであるかのように映るのです。
偽りの神々を崇拝するという習慣に陥ることは容易であることから、人々は、現代的思想が強要するような神々の多様性に対する抵抗力がないと言えます。そして“プラスチックの言葉”は、彼らの代弁者として話す“使徒たち”に大きな力を与えます。というのも、彼らは他の人々を黙らせるため、“自明の”真実という名によって語るからです。そして私たちは、あたかも私たちの健康や福祉、幸福と教育のために法律を敷いてくれる公理の専門家であるかのような彼らの権威に従わされているのです。
今日私たちが事実を知るための現代性という窓は、裂け目や汚れ、盲点や沁みなどで覆われています。それは事実を隠蔽しています。そしてその事実とは、「人々には神以外に真に必要とするものなどない」ということなのです。しかし今日では、これらの空虚な“偶像”が人々の献身と崇拝の対象に成り果ててしまいました。クルアーンはこう言っています:
「あなたは、自らの私欲を神とする者を見たか?」(クルアーン 45:23)
これらの“プラスチックの言葉”は人の目に、他の言葉を原始的で時代遅れのもののように映らせます。現代性を偶像とする“信仰者”は、これらの神々の崇拝を誇りに思っているのです。そして友人や同僚らは、そのような行為を開化したものと捉えています。“古い”神を固守することにいまだに固執する者でさえも、その神と共に新しく現代的な神々を崇拝することにより、そうすることにおける当惑を覆い隠そうとするのです。明らかに、“古風の神”への崇拝を主張する多くの人々は、この出来事において神の教えを歪曲しようとしています。そしてそれは、神自身が私たちにそれらの“プラスチックの言葉”に奉仕せよ、と言っているかのように思わせるためなのです。
偽神崇拝は個人的・社会的腐敗だけでなく、自然界の腐敗すら及ぼします。人々が、神が彼らに命じた通りに神に仕え、神を崇拝することを拒否する時、神がそれゆえに人間を創造したところのいくつかの要素を完遂することが不可能になります。そしてその結果、私たちの世界はこれまで以上に混沌としたものになるのです。それは、クルアーンが次のように述べている通りです:
「人々が行ったところの罪悪ゆえに、陸に海に諸悪が現れたのだ。」(クルアーン 30:41)
イスラームにおける人生の意味や目的への回答は、人間の基本的なニーズを満たしてくれます。つまりそれは、「神への回帰」です。しかし望もうが望むまいが、誰もがいつかは神の許へと帰ることにはなっているのですから、問題は単に帰るということではなく、「いかに帰るか」ということになります。一体それは、屈辱的な苦渋を与える鎖の中で待ち受けている懲罰なのでしょうか?それとも、神が約束していた偉大な歓喜なのでしょうか?もし後者を待望するならば、神はクルアーンと預言者ムハンマドの教えを通じて、人々に永遠の幸福を保証しつつかれの御許へと回帰させてくれるのです。
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