祝福の月
説明: ラマダーンにおける寛大さについて。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 23 Dec 2013
- 編集日時 19 May 2019
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イスラームが推奨する人間性の特質の一つとして、寛大さがあります。家族、友人、隣人、見知らぬ人、さらには敵にまで寛大に接しなければならない必要性を、クルアーン全体、及び預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)にまつわる真正の伝承は、繰り返し言及しています。寛大さについて話すタイミングとして、ラマダーン月よりも優れた時はないでしょう。
これを書いているのは、2009年のラマダーン最後の日々です。ムスリムたちは、自分たちの人生について考察し、自分たちの日々の行いが創造主のご満悦を得ているのか自問します。ラマダーンにおける熱烈な奉仕は、信仰者たちに、自らの心と精神を精査させるのです。
ラマダーンは断食月としてよく知られていますが、イスラームの新改宗者たちは、それが喜捨と親切さの月でもあることに気付きます。日中の断食と、夜間の礼拝は心を柔らかにし、思いやりと善意の波をつくります。この奉仕の月は、素早く訪れ、優しく留まり、神の祝福と慈悲、そして赦しが下るのです。ラマダーンの祝福は、親切心の川に流れ出ます。
“預言者(神の称賛あれ)は、人々の中でも最も親切で、(天使)ガブリエルが彼を訪れたラマダーン月の最中は、更に親切でした。そしてラマダーン中、ガブリエルは一ヶ月を通して毎晩、彼を訪れていました。預言者はガブリエルにクルアーンを朗誦していましたが、ガブリエルが彼と会うと、彼は(雨やその他の祝福をもたらす)疾風よりも親切になりました。」(サヒーフ・ブハーリー)
29〜30日間の断食を通して、ムスリムは寛大に施します。彼らは懐の奥にまで手を伸ばし、慈善団体や困窮者へと公けに、または密かに施します。イスラームにおける慈善は、金銭を与えるだけのものではありません。それは神のご満悦を得るための、心からの善行なのです。施しとは、笑顔のようなごくシンプルなものから、学校や病院の設立のような大きなものまで、多種多様です。それには、あらゆる親切な行為が含まれます。
ムスリムはあらゆる時において親切であることが勧められていますが、ラマダーンはそれを思い起こさせるものとして機能します。現世の悩み事や、人生の試練が耐えがたいような時、弱い存在である人間は、神が数えきれない程の祝福を供給されていることを忘れがちになります。ラマダーンは、それらの祝福が独り占めされるべきものではないということを想起させます。神は私たちが寛容の心を持ち、神によって供給されたものを分け与えるよう求めているのです。
神は「アル=カリーム」、つまり最も寛大な御方です。すべてはかれを起源とし、やがてかれへと帰り着きます。それゆえ、私たちの所有物や富は、信託であると見なされるべきなのです。私たちへと供給されたものは、それが何であれ、保持・保護され、最終的には共有されなければならないものなのです。
“言ってやるがいい。「本当にわたしの主は、そのしもべの中から御心に適う者に、御恵みを豊かに与え、また或る者には乏しく授けられる。かれはあなたがたが(主の道のために)施すものはすべて返される。かれは最も優れた御恵を与える方であられる。」”(クルアーン34:39)
ラマダーンを通し、ムスリムは預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)と彼の教友たちの慣行を模範とし、寛大さの真の意味について熟考します。それは、自らが既に必要としなくなったものを手放すことではありません。それは自らが愛し、欲しているもの、または大半の場合、必要としているものを与えることなのです。
アーイシャ(預言者の妻)は言いました。「ある女性が、彼女の二人の娘と共に私の元を訪れて施しを乞いましたが、私には一つのナツメヤシの実しかなく、それを与えると彼女は二人の娘のために二等分しました。」(サヒーフ・ブハーリー)
預言者ムハンマドの周囲の男女は、親切さの真の価値について理解していました。彼らは親切・寛大な行為が未来への投資であることを認識していたのです。私たちの善行、思いやりの言葉、そして親切さは、来世において潤沢な報奨を受けます。神のご満悦を得るために私たちが支払う金銭は、何倍にもなって帰ってくるのです。私たちが与える所有物は、この現世で帰ってこないのであれば、来世で帰ってくるのです。
親切さは年間を通しての善行ですが、ラマダーン中の善行や親切さ、寛大さは何倍にも増加されて報奨されます。それは慈悲の月であり、神が私たちに享受させてくださる報奨は、その重さにおいて、私たちが年間を通して積み上げてきた罪をも上回るのです。ラマダーンは、神の親切さ、寛大さ、そして赦しをまんべんなく思い起こさせる月です。神は、たとえそれが海の泡沫1ほど多いものであれ、人間の過失・罪をお赦しになります。かれの赦しと慈悲は、ラマダーンに限定されたものではありませんが。
この一ヶ月間は、崇拝に1,000ヶ月費やすよりも良い一日が含まれており(クルアーン97:1−5)、それは人類に対する神の愛情のしるしです。ラマダーンは、信仰者たちがその30日間を特別な奉仕と親切さのために取っておく期間です。ラマダーンの断食は、この世界には満足に飲食することが出来ない人々がいることを、信仰者に思い起こさせます。ラマダーンは信仰者たちにとって、自らの時間・富・所有物において寛大であれる機会です。
親切さと善行は、心を幸せにします。神をご満悦させるためだけの純粋な心によって富や所有物を差し出す者は誰であれ、それらの行為が喜びに満ちたものであることを知っています。しかし、少しも金銭を持たず、分け与えることの出来ない者についてはどうなのでしょう? 神のおやさしさは無限です。最も困窮する者でも、寛大になることが出来るのです。
人々は預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の元を訪れて尋ねました。「もし与える物が何もない人はどうすれば良いのでしょうか?」彼は言いました。「彼は自分の手で働き、自らを益した上で、(その稼ぎから)施せば良いでしょう。」人々はさらに尋ねました。「もし彼に、そうすることすら出来なければ?」彼は答えました。「彼は助けを求める困窮者を助けるべきでしょう。」人々は尋ねました。「彼にそうすることが出来なければ?」彼は答えました。「ならば、善行をし、悪行から離れるのであれば、それが施しと見なされるでしょう。」(サヒーフ・ブハーリー)
ラマダーンは断食月として知られますが、ラマダーンは神からの贈り物であり、神の慈悲の顕れであり、人類に内在する善意を思い起こさせます。ラマダーンは施しと寛大さの月なのです。
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