クルアーンの逸話(4/4):過去と現在、そしてあらゆる時代
説明: 私たちが手にするクルアーン写本の起源について。
- より アーイシャ・
- 掲載日時 17 Jun 2013
- 編集日時 17 Jun 2013
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天使ガブリエルを介して預言者ムハンマドにクルアーンが啓示されたとき、それは7つのアラビア語方言によって下された1ため、教友たちが朗誦すると、時には発音に微妙な違いがありました。預言者ムハンマドの生前は、発音の相違における議論を彼自身が明確にし、解決させていました。
預言者ムハンマドにまつわる伝承として、ウマル・ブン・アル=ハッターブは、いかに預言者の周囲の人々がクルアーンの信頼性の保持を切望しており、預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)が意見の相違を仲裁していたかについての逸話を伝えています。彼はこう述べています。
私はヒシャーム・ブン・ハキームが私とは異なる方法で朗誦していたのを耳にした。それゆえ、私は彼(の礼拝中)に抗議しようとしたほどだったが、彼が終えるまで待ち、彼を神の使徒へと連れて行き、こう言った。「私は、あなたが私に教えたのとは異なる方法で、彼が朗誦しているのを耳にしました。」預言者は私が彼を放すように言い、ヒシャームに朗誦するよう言った。彼が朗誦すると、神の使徒は言った。「啓示はこのように下されたのです。」それから彼は、私が同じ節を朗誦するよう言った。私が朗誦すると、彼は言った。「啓示はこのように下されたのです。クルアーンは7つの異なる朗誦法があるため、あなたにとって容易な方法で朗誦しなさい。」2
預言者ムハンマドの死後、数十万人もの非アラブ人がイスラームへと改宗しました。ウスマーン・ブン・アッファーンがイスラーム国家の指導者になった頃には、クルアーンが複数の発音や方言によって朗誦されるようになっていました。それについて新改宗者を始め、多くの人々は混乱するようになり、預言者ムハンマドの教友たちの一部はクルアーンの信頼性が損なわれることを恐れるようになりました。
預言者ムハンマドの教友の一人は旅路の中、イスラーム国家の中でも複数の朗誦法が混在していることに気付きました。彼はウスマーンに対し、クライシュ族の方言による朗誦法、そしてマディーナで使われていた方法で書き留められたものを公式版として制定するよう提言しました。アラビア語における方言はすべてのものがその美しさにおいて認知されていましたが、クライシュ族の方言は最も表現豊かかつ明瞭であったため、時が経つと共にクルアーンの方言として知られるようになったのです。
ウスマーン・ブン・アッファーンはクルアーンを暗記しており、その内容における深い知識とそれぞれの節に関わる背後関係や状況を把握していたため、彼はクルアーンの標準化における監督役として適していました。承知のように、クルアーンはアブー・バクルの時代に収集され、ウマル・ブン・アル=ハッターブの娘であり、預言者の妻でもあったハフサのもとに保管されていました。ウスマーンはハフサに依頼し、ムスハフの原本を入手しました。真正の伝承によると、この出来事は以下のように述べられています。
シリア・イラクの人々がアルメニア・アゼルバイジャンと戦争していた時、フザイファがウスマーンのもとを訪れた。彼は彼ら(シリアとイラクの人々)の朗誦法の相違について心配しており、ウスマーンにこう言った。「信仰者の長よ、ユダヤ教徒やキリスト教徒たちが彼らの啓典について論争をしたように、人々がクルアーンについて論争を始める前にこの共同体をお救い下さい。」それゆえ、ウスマーンはハフサにこう依頼した。「私たちが写本を作成することの出来るよう、原本をお送りください。原本はお返しします。」3
再び、ムスリム国家の指導者たち、そして預言者の教友の男女は神の言葉の保持に多大なる労力をつぎ込み、その教えに忠実に従いました。ウスマーンはザイド・ブン・サービトを含む、教友たちの中でも最も信頼のある者たちを集め、ムスハフの複製を作成することを命じてこう言いました。「あなたがたに異論が生じた場合、クライシュ族の方言で書き写しなさい。」4
写本の原本はハフサのもとに返却され、ウスマーンはその他すべての非公式の写本を焼却、または廃棄するよう命じました。こうして論争に終止符が打たれ、ムスリムたちは統一したのです。ウスマーン版ムスハフは現在、世界中の12億人のムスリムたちによって使用されています。クルアーンは世代を超えて保持されているのです。各ムスハフは、原本とは寸分の違いもありません。
“本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである。”(クルアーン15:9)
ウスマーンによって何冊の写本が作成されたのかは分かっていませんが、彼自身の写本を含まなければ、それらは5冊であると信じられており、マッカ、マディーナ、ダマスカス、クーファ、バスラにそれぞれ1冊ずつ送られています。初期イスラーム文学を通してそれらの写本が引用されており、トルコとウズベキスタンには今なおそれらが保管されています。
イスラーム世界の著名な冒険家イブン・バトゥータは、ウスマーンによって作成されたクルアーン写本を、14世紀のグラナダ、マラケシュ、バスラやその他の都市で見たと述べています。著名な学者イブン・カスィールは、ダマスカスとパレスチナに持ち込まれたクルアーン写本を見たことがあり、それが「それは非常に大きく、おそらくラクダの羊皮紙によって作成されており、墨の濃い、美しく明瞭な文体で書かれてあった」5と述べています。冒険家イブン・ジュバイルは、1184年にマディーナでウスマーン版の写本を見たと述べています。一部では、それが第一次世界大戦のときにトルコ人たちによって持ち去られるまでそこに留まったと言われています。ベルサイユ条約には、以下の箇条が含まれています。
第246条:現在の条約が施行される6ヶ月以内に、ドイツはヒジャーズ国王陛下に対し、トルコ権力によってマディーナから持ち去られ、ヴィルヘルム2世元皇帝に献上されたとされる、ウスマーン版のクルアーン写本原本を返還させる。6
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