アリー・ブン・アビー・ターリブ(前半):少年期

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説明: 預言者ムハンマドの4代目の後継者が、いかにイスラームを受け入れたかについて。

  • より アーイシャ・ステイシー
  • 掲載日時 18 Mar 2013
  • 編集日時 18 Mar 2013
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Ali_Ibn_Abu_Talib_(part_1_of_2)_001.jpgアリー・ブン・アビー・ターリブは預言者ムハンマドの若き従兄弟でした。年長の従兄弟を深く敬愛していたこの少年は、イスラームにおける高貴な戦士、クルアーンの優れた注釈者、そしてムスリム共同体の指導者となりました。

アリーはヒジュラ暦600年にマッカに生を受けました。彼の父は、預言者の叔父で、彼の支援者でもあったアブー・ターリブでした。アリーが幼いとき、大きな飢饉がマッカの周辺地を襲い、多くの家庭では子供たちに食べさせることが出来なくなっていました。当時、まだ預言者ではなかったムハンマドは、幼い従兄弟を預かって世話をすることを申し出ました。こうしてアリーはムハンマドと彼の妻ハディージャによって育てられました。アリーは年長の従兄弟を敬愛し、彼に同行し、彼の行為を模倣しました。アリーは成長するに従って、ムハンマドの気高い慣習も踏襲し始めました1

アリーが10歳頃のとき、ムハンマドは全能なる神から最初の啓示を下されました。ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)が彼の家族に対し、彼が神の使徒としての使命を受けたことを打ち明けたとき、アリーはその場にいました。伝承によると、アリーはムハンマドとハディージャが一緒に礼拝しているのを目撃し、二人が何をしていたのかを尋ねました。預言者ムハンマドがイスラームの教えについて、彼の若き従兄弟に説明すると、アリーはすぐさまそれを真実として受け入れました。しかし、彼はイスラームに入信する前、彼の父がそれにどのような反応を示すか考え込みました。翌朝、アリーは唯一なる神であるアッラー以外に崇拝に値するものはなく、ムハンマドがかれの使徒であることを証言しました。アリーは、イスラームを受け入れた最初の子供という名誉を有するのです。

一部のイスラーム学者たちによれば、アリーがイスラームに改宗したのは10歳よりも後のことであり、それゆえ様々な書物には、アリーが青年としての第一の改宗者であるというものも見出すことが出来ます。しかしながら重要なことは、アリーの年齢ではなく、彼が学ぶこと、そして神への正しい崇拝を熱望した、頭脳明晰な少年であったということです。多くの学者たちは、彼が預言者ムハンマドの周囲にいた男女の内の一人であったことから、イスラーム以前のアラブの宗教である多神教の儀式などには一度も参加しなかったことを指摘しています。アリーは唯一なる真実の神以外の何者に対しても、一度も額づいたことはなかったのです。

アリーは少年期を、ムハンマドとハディージャの末娘であるファーティマと過ごしました。数年後、ムスリム共同体がマッカからマディーナへと移住したとき、アリーは預言者ムハンマドのもとを訪れ、ファーティマとの結婚を申し込みました。

しかし、アリーは自身が貧しく、婚資としてファーティマに差し出すものが何もないことに失望していました。預言者ムハンマドは、彼が持っていた盾の売却を提案しました。アリーはウスマーン・ブン・アッファーンに盾を売り、嬉々として帰途につこうとしたところ、ウスマーンは彼を呼び止めて盾を彼に返し、それを結婚祝いとしてアリーとファーティマに贈呈したのです。ファーティマとアリーが結婚したのは彼らが10代半ば、もしくは後半の頃だったと見なされており、彼らの結婚式は、預言者ムハンマド自身が執り行なっています。

年長の従兄弟にどこでもついて行った少年は、高貴な若き戦士に成長しました。神が次の節を啓示したとき、預言者ムハンマドは彼の親類を全員食事に招待しました。「あなたの近親者に警告しなさい。」(クルアーン26:214)彼らが食事を終えたとき、預言者は彼らに語りかけ、彼の親類の内の誰が神の道に入るかと尋ねましたが、10代前半の少年以外には、誰一人としてその呼びかけに答える勇気を持った者はいませんでした。その少年こそがアリーで、彼は嘲笑と罵りのなか、ひるまずに一人立ちあがり、預言者ムハンマドの手助けをすることを表明したのです。将来的に直面することになる困難な時代においても、彼はしっかりと直立し、彼による神とその使徒への敬愛、そして勇敢さを示し続けたのです。

マッカの不信仰者たちが預言者ムハンマドを暗殺しようと企てたとき、彼とアブー・バクルは闇夜の中、マッカから去る必要が生じました。二人が暗い砂漠の中へと消えていった後には、アリーがムハンマドの寝床に入って身代わりとなり、暗殺者がやってくるのを待ったのです。アリーは無事生き延び、預言者ムハンマドによって託された金品を、彼の代理としてその保有者へ返却しました。預言者ムハンマドは彼の若き従兄弟について、教友たちの中でも最も勇敢な者、信頼の置ける者、そして敬虔な者の一人としてみなしていました。時を経ずして、アリーも敬愛する従兄弟の待つマディーナへと移り住みました。

預言者ムハンマドは、アリーを大変かわいがっていたため、様々な好感を抱かせる、愛情のこもった名で彼を呼びました。その中でもアリーが最も気に入っていたのは、アブー・トラーブ(砂埃の父)でした。ある時アリーがモスクの中庭で眠っていたとき、彼の背中は砂埃にまみれていました。預言者ムハンマドは彼に近づき、彼の足元にアリーを引っ張り寄せ、背中の砂埃を払い、笑いながら彼のことをアブー・トラーブと呼んだのです。また、預言者ムハンマドは彼のことをアリー・ハイダラ(ライオン)とも呼びました。預言者ムハンマドを慕う少年は、イスラームにおける有名な戦士となったのです。



Footnotes:

1 イブン・カスィールによる著作「正統カリフ伝」に基づいています。

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アリー・ブン・アビー・ターリブ(後半):戦士からカリフへ

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説明: “ライオン”、アリーの人生。

  • より アーイシャ・ステイシー
  • 掲載日時 25 Mar 2013
  • 編集日時 31 Mar 2013
  • プリント数: 46
  • 観覧数: 15,005
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Ali_Ibn_Abu_Talib_(part_2_of_2)_001.jpgアリーは第4代目の正統カリフ1でした。彼は預言者ムハンマド、アブー・バクル、ウマル、そしてウスマーンのあとを継ぎ、ヒジュラ暦656年から661年まで、神の法に基いてムスリム帝国を治めました。アリーは預言者ムハンマドの年少の従兄弟、そして義子でもあり、その幼少期を敬愛する従兄弟の崇高な性質を模倣したり、イスラームを学んだりして過ごしました。アリーは高貴な戦士として成長し、強靭な肉体を持った自己主張の強い男性となりましたが、神とその使徒ムハンマドを愛してやまず、慎ましい心を持っていました。ムスリムたちはアリーの勇敢さ、誠実さ、他者への思いやりと親切心、そして彼によるイスラームへの絶え間なき献身によって彼を記憶しています。

マディーナへと移住した後、アリーは預言者ムハンマドの娘であるファーティマと結婚しました。アリーは現世的な富に関心がなく、神のご満悦と来世での永久の至福しか望まなかったため、二人は質素で飾り気のない生活を送りました。彼らは召使いや奴隷を持ちませんでした。アリーは水を汲んでそれを持ち運び、ファーティマは手が荒れて痛くなるまで穀物を挽きました。ある時、この二人の若き夫婦が預言者ムハンマドを訪れ、召使いが欲しいと頼んだ時、彼は飢えた貧しい人々がモスクに沢山居るのに、彼らにそのような贅沢を与えることは出来ないと叱責したのです。

その日の夜、預言者ムハンマドはアリーとファーティマの家を訪ねました。彼は二人の寝床の端に座り、二人に神を唱念する言葉を教えました。彼は、神を思い起こすことが、家事を手伝う召使いや奴隷を持つことよりもずっと良いということを教えたのです。アリーと彼の家族は神の称賛に多大な努力をし、自分たちすら食べるのに困るほど、より貧窮している人々に施しました。アリーの寛大さはとどまるところを知らず、彼は敬意と思いやりをもって全ての人々に接したのです。

大学者イマーム・アフマドは、最も徳のある教友の一人に、預言者の熱心な支持者として知られていたアリーを挙げました。アリーは当然のことながら強靭な戦士としても知られ、マッカの不信仰者たちとの決定的な戦いであったバドルの戦いにおいてその名を轟かせました。若き“ライオン”は、一つの例外を除き、イスラーム初期のすべての戦役に参加しました。預言者ムハンマドにまつわる真正の伝承によると、ハイバルの戦いにおいて預言者ムハンマドはその年少の従兄弟に対して偉大な名誉を与えています。

そのとき、預言者ムハンマドは教友たちにこう告げ知らせていました。「明日、私は神をその使徒を愛し、神とその使徒からも愛される男にこの軍旗を手渡す。彼は戦場から逃げ出したりはせず、神は彼によって勝利をもたらされるであろう。」預言者ムハンマドの教友たちは、一体誰に軍旗が渡されるのかと一晩中思案していました。ウマル・ブン・アル=ハッターブは、彼が自分に統率者としての地位を望んだのはそのときだけだったと述べたと言われていますが、その名誉はアリーに授けられたのです。

ムスリム国家に奉仕したウスマーン・ブン・アッファーンが殺害されたとき、アリーが4代目の正統カリフとして選ばれました。多くのムスリムたちはアリーが指導権を握ることを期待していましたが、アリー自身は既に信仰者たちの間に反抗心が芽生え始めていたことに懸念していました。彼は、預言者ムハンマドに一番近かった教友たちの一部がそうするよう説得し、彼らの援護を約束するまで躊躇していました。ウスマーンの殺害事件は、若きムスリム国家を「苦難の時代」として知られる時期へ移行させました。アリーのカリフ職には、苦難と試練が終始つきまといましたが、彼は自らの信念に忠実で、預言者ムハンマドのもとで倫理と価値観を学びつつ育てられた人物として相応しい統治をしたのです。

アリーは極めて信心深い人物でした。彼はイスラームに献身し、日常的にクルアーンと預言者ムハンマドの正しき慣行を遵守する指導者として尽力しました。ムスリム間で戦争が発生したとき、アリーは反逆と内乱の蔓延る国家を統率しようと試みました。こうした内戦の時代を通して、アリーは先代から続く偉大なる任務の遂行を常に心がけていました。彼はムスリム国家の命運を握っていたのです。

アリーとウスマーンはイスラームにおける兄弟であるということが明確に述べられなければなりません。彼ら二人は共に神とその使徒、そしてイスラームという宗教に奉仕したのです。二人は共に慎ましく、謹厳かつ敬虔な精神に基いてムスリム国家を統治しました。

アリーは毒のぬられた剣によって殺害されました。暗殺者はアリーがモスクで礼拝をしている最中に、彼を襲撃してその命を奪ったのです。アブー・バクル、ウマル・ブン・アル=ハッターブ、ウスマーン・ブン・アッファーン、そしてアリー・ブン・アビー・ターリブは皆、卓越した道徳的資質を持った高貴な人物で、彼らはクルアーン、そして預言者ムハンマドによって説かれた教訓に基づいた統治をしました。



Footnotes:

1 カリフ:預言者ムハンマドの後継者として、ムスリム共同体を指導する者のこと。

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