イスラームにおける預言者性(1/2):預言者性の本質
説明: 預言者性の目的、そして全ての預言者たちと彼らの教えに共通する特徴。
- より iiie.net(IslamReligion.comによる編集)
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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預言者の概念はユダヤ教、キリスト教などの啓示宗教にとって馴染み深いものです。特にイスラームでは、預言者性における特別な地位と重要性があります。
イスラームでは、神は人間を高潔な目的ゆえに創造したとされます。それはつまり、かれを崇拝し、かれの教えと導きに従った高徳な人生を歩むことです。一体神が明確で実践的な教えを私たちに啓示しなければ、人はいかにして自らの役割と目的を知ることが出来るでしょうか?ここで預言者の必要性が生まれます。神はかれの教えを人々に伝えるため、全ての民族と国家に対して少なくとも一人の預言者を遣わしたのです。
それでは預言者はいかにして選ばれ、どのような人物がこの偉大な栄誉に授かることが出来るのでしょうか?
預言者性とは、神がお望みの者にお与えになる祝福と寵愛とされています。しかし歴史上の様々な使徒について研究すれば、預言者性には以下の三つの特徴が含まれていることが解ります:
1.預言者は彼が属する社会の中で、最も道徳性と知性において優れています。これは、預言者の人生がその追従者にとっての模範となることからも必須なのです。預言者はその人格によって人々を彼に惹きつけ、そして彼の教えを受容させるのであって、欠落した人格によって人々を離れ去らせるようであってはいけません。また啓示を受けた後には、彼には無謬性が伴います。すなわち彼は全く罪を犯しません。小さな失敗は犯すかもしれませんが、一般的には啓示によってそれを正されるのです。
2.彼は様々な奇跡によって、彼が偽預言者ではないということを裏付けられます。それらの奇跡は神の御力とお許しによって授けられ、一般的に彼が属する社会において卓越する分野で発生し、そしてその中でも至高であることが認知されるのです。私たちは世界宗教であるユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの、三人の預言者たちの奇跡を引用することによってそれを説明することが出来ます。
例えばモーゼの時代の人々は魔術に秀でており、彼の主要な奇跡は当時のエジプトの最も有名な魔術師に打ち勝つことによって起こされました。またイエスの時代の人々は卓越した医師として認知されていたゆえ、彼の奇跡は死人を蘇らせ、不治の病を治癒するという形をとりました。そして預言者ムハンマド(彼に神の称賛あれ)の時代のアラブ人たちは、その雄弁さと見事な詩を作る能力で知られていました。それゆえ預言者ムハンマドの主な奇跡はアラブ詩人、雄弁家たちがこぞって挑み、そしてその度重なる挑戦にも関わらず作り出すことの出来なかったクルアーンだったのです。またその他にも、ムハンマドの奇跡には特別な意義が存在します。つまり過去の全ての奇跡は時と場所において限定されていました。つまりそれらは特定の人々と特定の場所においてのみ示されたのです。しかし預言者ムハンマド(彼に神の称賛あれ)のクルアーンに関しては、そうではありません。クルアーンこそは普遍的であり、不滅の奇跡なのです。過去の世代と共に未来の世代も、その文体と内容、そして精神的高揚をもたらす奇跡的性質を目の当たりにするのです。これらは現在に至っても証明済みであるため、それゆえにクルアーンの神受性を証明することが出来るのです。
3.全ての預言者は、彼らが授かったものは彼ら自身によって作り出されたのではなく、神によって人類の幸福のためにもたらされたものだということを明確に述べています。また各預言者は、彼以前に啓示されたものと彼以後に啓示されるものを確証します。預言者はそうすることによって、唯一・真実の神から委ねられた、あらゆる時代のあらゆる人々に対する教えを広めているだけであることを示しているのです。従ってそれらの教えは根本的には同一であり、目的を共有しています。よって啓示はそれ以前に下ったもの、またそれ以後に啓示されるものから逸脱しない性質のものであるはずなのです。
預言者の存在は、神の教訓と導きを人類に伝えるために必要です。そうでなければ、私たちは自分たちが創造された目的を知ることが出来ません。私たちの死後には何が起こるのでしょうか?死後も生命は続くのでしょうか?私たちは自らの所業に責任を問われるのでしょうか?これらの質問と、神、天使、楽園、火獄などに関するその他全ての質問は、創造主であり、不可視の世界を知る者による直接の啓示がなければ答えることは出来ないのです。それらの回答は真性であることに加え、私たちが信じ、尊敬する個々人によってもたらされなければなりません。これが、諸使徒がその社会での道徳的品行、そして知的能力において、最も選び抜かれた者でなければならない理由なのです。
このような理由ゆえ、偉大なる諸預言者に対する中傷的な内容を含んだ聖書の物語の数々は、ムスリムに認められていません。例えばロトは聖書の中で、酔った際に近親相姦を行なったと記述されています。またダビデは彼の指揮官の一人を、その妻を娶る為に死に追いやったとされています。諸預言者はムスリムにとって、これらの物語が示すものよりも偉大です。これらの物語はイスラーム的観点において、真実ではあり得ません。
諸預言者はまた神の奇跡による支持を受けており、神によってその教えの連続性を確証するよう指示されています。諸預言者の人類への教えの内容は以下のように要約されます:
a)神の性質、かれによる創造、何がかれに帰され、また何がかれに帰されるべきでないかといった神の概念を明確にすること。
b)不可視の世界、諸天使、ジン(霊的存在)、そして楽園と火獄の観念を明確にすること。
c)なぜ神は私たちを創造したのか、そしてかれは私たちから何を求め、かれへの服従と不服従にはどのような報奨と懲罰があるかについての説明。
d)いかにして私たちの社会を神の意志に基づいて運営するかについて。すなわち明確な指導と法が正しく適用されれば、円滑に機能する、調和のある社会が実現すること。
以上の議論により、諸預言者にはいかなる代替物もないことが明確になります。現在のような科学的発展の時代においてでさえも、超自然的世界の唯一の正しい情報源は啓示のみなのです。神による導きは科学、または神秘的体験によってもたらされるものではありません。前者は唯物論的であり、それには限界があります。そして後者は主観主義的であり、人をたびたび迷わせるのです。
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