病気に罹ったときの振る舞い方(上):苦痛への忍耐
説明: 神の許しなくしては、いかなる病気や怪我もありません。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 30 Dec 2013
- 編集日時 28 Mar 2021
- プリント数: 35
- 観覧数: 16,932
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
病気や怪我に見舞われた信仰者がいかに振る舞うべきかについて語る前に、現世での人生についてイスラームが教えることを、まず理解することが重要です。地球における私たちの存在は、真の人生である来世までの束の間の滞在に過ぎないものです。天国か地獄が、永久の住処となります。現世とは、試練と試みの場なのです。現世は私たちの享楽のために神が創られたものですが、それは現世的な楽しみに限定された場ではありません。私たちは、ここで真の目的を達成します。それはつまり、神の崇拝に基づいた人生を生きることです。私たちは笑い、遊び、泣き、苦しみ、悲しみますが、あらゆる条件や感情は神からのものです。私たちは永続する報奨を求め、忍耐し、感謝し、希望を持ちます。私たちは永続する懲罰を怖れ、神こそがあらゆる慈悲と赦しの源泉であることを確信するのです。
“現世の生活は、遊びや戯れに過ぎない。だが来世こそは、真実の生活である。もしかれらに分っていたならば。”(クルアーン29:64)
神は、徒らに私たちを創り、人生の享楽と試練にさらされたのではありません。神は諸使徒・諸預言者をお遣わしになり、私たちを導く啓典をお伝えになりました。また神は、数えきれない程の祝福を私たちにお授けになりました。それらの祝福のそれぞれは、人生を素晴らしいものとし、時に我慢を必要とさせます。少し立ち止まり、私たちの存在について思いを巡らせると、神の祝福は明白となります。空から降る雨、優しい日差し、胸を律動的に打ち鳴らす心臓の鼓動。これらは神による祝福であり、私たちの家、子供、健康などと共に感謝すべきものの1つです。しかしながら、神は私たちを試みるということを述べています。
“われは、恐れや飢え、と共に財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。”(クルアーン2:155)
神は、私たちが試練や苦難に辛抱するよう勧めています。しかし、それはこの世に起きるすべてのことは神の許しによって起きているということの理解なくしては難しいことです。神の許しなくしては、木の葉一枚として木から落ちることはありませんし、会社の倒産、自動車事故、離婚なども神の許しなくして起きることではないのです。神は全能なる御方です。神は、時に私たちの理解を超える物事を、理由の有無を問わず成されます。ただ、神はその無限の叡智と慈悲により、私たちにとって最善のことをお望みになります。最終的に私たちにとって最善のこととは、永遠なる祝福の場である楽園における永遠の生命なのです。
“主は、親しく慈悲と満悦を与えられ、かれらのために永遠の至福の楽園の吉報を与えられる。”(クルアーン9:21)
あらゆる試練において、信仰者は神が善きもの以外にはお授けにならないことを確信しなければなりません。善きものとは現世での享楽も含まれますが、それが来世になる場合もあります。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう述べています。「信仰者の諸事とは何と良きことだろうか。その諸事とはすべて良いものである。何か良いことが起きたなら、彼はそれに感謝し、そのことは彼にとって良いことであり、何か悪いことが起きたなら、彼はそれに忍耐をもって対処し、そのことは彼にとって良いことなのだ。」1神は人生における試練と苦難によって私たちを試みられ、もしも私たちが忍耐をもってそれらを耐え忍ぶのであれば、私たちは偉大なる報奨を受けることになります。状況の変化や試練の時によって神は私たちの信仰をお試しになり、私たちの忍耐の度合いをお確かめになり、私たちの罪の一部をお赦しになります。神は慈愛遍く御方、全知なる御方であり、私たちが自分自身を知るよりも私たちのことを良くお知りになります。私たちは神の慈悲なくして天国に入ることはなく、神の慈悲は現世における試練と苦難において明白です。
現世の生活は、偽りに過ぎないものです。私たちにとって最も有益なこととは善行を行うことです。家族は試練となり得ます。神は、家族が私たちを正道から背かせることもあるということを述べられますが、家族は私たちを天国に導くこともあります。富は試練です。それを切望することは私たちを貪欲かつ吝嗇にしますが、それを分け与え、必要とする人々のために使うことは、その人物を神により近づけます。健康もまた、試練です。健康であることは、私たちが無敵であるかのような錯覚を与え、神は必要ではないという勘違いをもたらすことがありますが、不健康は私たちを謙遜させ、神にすがることを強いらせます。信仰者が人生の様々な状況でいかに反応するかは非常に重要なことです。
もしも現世の享楽が、急に苦痛となったらどうするべきでしょうか? 私たちは病気や怪我に罹ったとき、どのように振舞うべきでしょうか? 私たちは運命を受け入れ、苦痛や悲しみ、災難に耐えるべきです。なぜなら、私たちはそれを通して神が善いことをもたらすということを確信するからです。預言者ムハンマドは述べています。「いかなる信仰者も、それによって神が彼の罪の一部を赦されることをなくして、不幸や病気、悲嘆や哀しみ、害悪や疲労に見舞われることはないのだ。たとえそれがとげのちくりとする痛みであろうとも。」2しかし、私たちは不完全な人間という存在です。私たちはそれらの言葉を読み、理解さえしますが、時にはそれを受け入れてそのように振舞うことは非常に困難な場合があります。自らの置かれた状況を嘆き悲しみ、泣き明かすことはより簡単ですが、慈悲あまねく神は私たちに明白な導きをお与えになり、2つのことを約束されました。それは、もし私たちが神を崇拝し、神の導きに従ったのであれば、天国という報奨にあずかり、困難が安楽になるということです。
“本当に困難と共に、安楽はあり”(クルアーン94:5)
信仰者は心身の修練を義務づけられているため、良い健康状態を保とうとすることは重要なことです。しかし、病気や怪我になったときには神の指導に従うことが必要不可欠となります。信仰者は医療扶助を求め、治癒や回復のためにはあらゆる手段を尽くすべきですが、それと同時に礼拝、神の想念、崇拝行為などを通して助けを乞うべきなのです。イスラームは、心と身体の健康が密接な関係を持つ、包括的な生活規範です。後半では、病気や怪我になったときに行うべきことについてより深く掘り下げます。
病気に罹ったときの振る舞い方(下):神の慈悲は無制限であること
説明: 病気や怪我になったときに取るべき実践法。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 30 Dec 2013
- 編集日時 30 Dec 2013
- プリント数: 28
- 観覧数: 18,806
- 評価者: 130
- メール数: 0
- コメント日時: 0
前半では、忍耐と、何事も神の許しなくしては起きることがないという理解と共に、試練や苦難を乗り越えることについて語りました。
“幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。”(クルアーン6:59)
病気や怪我になる理由には、はっきりとしないもの、また私たちの理解を超えるものがあります。しかし、神は人類にとって良いことだけをお望みになります。それゆえ私たちは、それらの苦難の裏には偉大なる英知が潜んでいることを確信し、それが私たちと神とのより良い関係を築くことの出来る機会であるということを知るべきなのです。私たちは、人間として自由意志があるため、あらゆる状況において行動の選択肢がありますが、最善の反応とは忍耐と承認なのです。
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、私たちが各々の信仰の度合いによって試されること、そしてそれらの試練から来る最低限の善きこととして、罪から清められることを挙げています。人は宗教的な献身の度合いに応じた試練を受け、それらの試練はその神のしもべが全く罪の負担のなくなった状態になるまで続くのだと彼は言っているのです1。
病気や怪我によって打ちのめされてしまったとき、不安を感じるのは自然なことです。時に私たちは、なぜ神がこのようなことを起こすのかと憤慨すらすることでしょう。私たちは問いかけ、不平をこぼしますが、そういったことは、実際には自らの悲嘆や苦悩を強調させる以外の役割を果たしません。神は、その無限なる英知と慈悲により、病気や怪我になったときはいかに振舞うべきかという明白な指針を私たちに授けてくれました。その指針に従うのであれば、苦難に際してそれを冷静に受け止め、感謝すら出来るようになります。病気や怪我になったとき、信仰者は神に信頼を寄せ、神によって授けられた状況を何であれ感謝し、医療扶助を求めます。
医療扶助はイスラームにおいて許されたものであり、それを求めることは私たちによる神への信頼を否定・無効とするものではありません。預言者ムハンマドの言葉はそのことを明確にしています。「あらゆる病気は、それに対する治癒なくしては定められなかったのである。」2信仰者は医師を訪れ、病気や怪我の治療を求めることが出来ます。また、心因性・感情的な疾患の診断や治療を求めることもできます。しかし、それは例えばアルコールのような禁じられたものから治癒を求めないという条件付きのものです。神は決して、禁じられたものの中に治癒の効果を宿らせることなどありませんでした。
占い師、易者、またはその手のいかなる詐欺師からも治療を求めることは許されていません。そうした者たちは人々を騙し、唯一なる真実の神から彼らを遠ざけ、自らに不可視の知識が備わっていると主張します。また神は、お守りや魔除けを使って病気や怪我から守られようと試みることも禁じられています。あらゆる御力は神のみに属すのであり、治癒や安全を神以外の何かに頼ることは、極めて重大な罪となります。
現世において治療や回復を求めると同時に、精神療法を通して治癒を求めることも重要です。まず、神について前向きな良い考えを持ち、神に対する信仰を確証させ、神の御名と性質について熟考すべきです。神こそは慈悲あまねく慈愛深き御方で、全知なる者なのです。私たちは神の御名によって、私たちの必要とすることを神に呼びかけることを勧められています。
“最も美しい凡ての御名はアッラーに属する。それでこれら(の御名)で、かれを呼びなさい。”(クルアーン7:180)
神は私たちを試練や苦難だけに晒されたのではなく、指針と共に苦悩に対する最も強力な武器である、想念・祈願・礼拝の言葉としてのクルアーンを授けられました3。21世紀の現代において、私たちは伝統的な精神療法の代わりに医療扶助に頼るようになりましたが、それら双方をうまく組み合わせることによって非常に迅速な効果がもたらされる場合があります。時に病気や怪我は慢性的なものともなりますが、不健康は精神的な洞察をもたらすこともあります。
重病や障害を負ってしまった人々が、それらの状態について神に感謝したり、苦痛や災難が彼らの生活に祝福と善をもたらしたことについて語ることを耳にしたことはあるでしょうか。私たちが孤独や不安を感じているとき、頼ることが出来るのは神だけです。苦痛や災難が耐え難いものとなり、恐怖と惨めさに支配されてしまったとき、私たちが手を伸ばす、救済をもたらすことの出来る唯一の対象は神だけなのです。神への完全な信頼と服従は、信仰の甘美さとして知られる、幸福感や自由感をもたらします。それは安寧と平穏であり、善と悪を含む、現世のもたらすあらゆる状況を人に受け入れさせます。
最後に、病気や怪我は神による浄化ともなり得ることの理解が重要となります。人は完全ではなく、過ちを犯し、悪行を働き、意図的に神の戒律に反すことすらあるからです。
“あなたがたに降りかかるどんな不幸も、あなたがたの手が稼いだものである。それでもかれは、(その)多くを赦される。”(クルアーン42:30)
神の慈悲は、決してみくびるべきものではありません。神は、私たちが神ご自身から赦しを乞うよう述べています。預言者ムハンマドは、私たちが神の赦しを求めるのを神がお待ちになっていることについて述べています。大地を暗闇が覆い隠す夜の最後の部分で、神は天の最下層まで降りてきて、そのしもべたちにこう問いかけるのです。「われにそれを叶えてもらえるよう、われに祈りを捧げている者は誰か。われにそれを与えてもらえるよう、われから何かを求めている者は誰か。われに赦されるよう、われの赦しを乞い願っている者は誰か。」4
不幸や苦痛、災難は、私たち自身の行為から来る場合も多々あります。私たちは罪を犯すことを選びますが、神は私たちの健康や富、愛する人々の喪失によって私たちを浄化されるのです。現世で今、苦難を受けることは、それを永久に受け続けるのではないことを意味することもあり、またすべての痛みや苦悩は、天国においてより高い地位を得ることを意味することもあるのです。
神は、なぜ悪人に善いことが起きたり、善人に悪いことが起きるのかという英知をご存知です。一般的に、私たちが神に立ち返ることは、その理由が何であれ善いことです。危機的状況において人は神を求めますが、隆盛においてはそれがどこから来ているのかについて忘れてしまいます。神こそが供給者であり、最も寛大な御方なのです。神は私たちが永遠の命という報奨を受けることをお望みになり、もしも苦痛や災難が天国を保証するのであれば、病気や怪我は祝福に他ならないのです。預言者ムハンマドはこう述べています。「もしも神が誰かに善きことをお望みになれば、その人物を試練にかけて悩ませるのである。」5
病気にかかったときの最善の行為とは、神に感謝し、神のご満悦を得ようと努力し、医療扶助を求め、神が私たちに授けてくださった祝福の数々を思い起こすことなのです。
コメントを付ける