ウスマーン・ブン・アッファーン(1/2):寛大かつ敬虔な男

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説明: 預言者ムハンマドの3代目の後継者が、どのようにしてイスラームへ改宗したか。

  • より アーイシャ・ステイシー
  • 掲載日時 11 Mar 2013
  • 編集日時 16 Jun 2013
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Uthman_Ibn_Affan_(part_1_of_2)_001.jpgウスマーン・ブン・アッファーンは、預言者ムハンマドから3代目にあたる後継者でした。彼は信仰者の長として知られ、12年間に渡る統治をしました。彼のカリフ職における最初の6年間は比較的平和な時代でしたが、最後の6年間は内部抗争や反乱者による破壊工作による損害を被りました。ウスマーンはその敬虔さ、寛大さ、親切さによって記憶されていますが、慎ましさと羞恥心によっても知られ、気前の良さでも称賛されています。彼は神への従順、そして預言者ムハンマドとその共同体への愛情に基づいた、偏向のない公正さと、緩やかで人道的な政治によって統治しました。

ウスマーン(彼に神のご満悦あれ)は預言者ムハンマド(神の慈悲と賞賛あれ)の生誕から7年後に生まれ、クライシュ族の氏族であるウマイヤ家に属していました。ウマイヤ家はその勢力と富により、クライシュ族の中でも最も影響力ある氏族で、ウスマーンはその良き品行と羞恥心から、彼らに最も愛されていた「ゴールデン・ボーイ」でした。彼の先代であるウマル・ブン・アル=ハッターブのように、ウスマーンは読み書きができましたが、これはイスラーム以前のアラビア半島においては稀な能力で、彼は織物商として成功を収めました。彼は生涯を通して親切かつ寛大な人物であるとみなされ、イスラーム改宗前でさえ、たびたび困窮者に喜捨を施していました。

ウスマーンにイスラームを紹介したのは、彼の親しい友であったアブー・バクルで、彼は34歳のときに改宗をしました。その当時はイスラーム勃興直後で、マッカ住民によって組織的に虐待や拷問が改宗者に対して行われていたときでした。こうした虐待を彼自身も受けたにも関わらず、ウスマーンはイスラームを棄教せず、預言者ムハンマドの娘であるルカイヤとの結婚を果たし、預言者との関係を強化させました。

虐待と拷問はその後も続き、ウスマーンの裕福な家族、また商人としての社会的地位でさえも彼を守り切れなくなっていました。彼は自らの家族からも虐待・拷問されるまでになりました。彼の叔父は彼の両手両足を鎖でつなぎ、暗い密室に閉じ込めたのです。彼の親近による酷い待遇は、ウスマーンと彼の妻にアビシニアへの移住を決意させます。預言者ムハンマドは彼の忍耐強い性格を称賛してこう言っています。「ロト以降では、ウスマーンが神のために自宅の快適さを棄てた最初の人物なのだ。」数ヵ月後には、苦悶するムスリムたち、そして敬愛する父である預言者の元にウスマーンとルカイヤは帰ってきました。

ウスマーンは預言者ムハンマドとの非常に近い関係を築き、イスラームの緻密な知識を得ました。彼は、146もの伝承を預言者から直接伝え、クルアーンを書き留めることも出来た数少ない人物の一人でした。またウスマーンは、崇拝儀礼を学ぼうとする者たちにとっての参照先ともなりました。彼は洗浄儀礼(ウドゥー)、礼拝やその他の義務行為を理解し、他者に教えることが出来たのです。また、彼はマディーナへの移住に参加し、ムスリム国家の樹立において、密接に預言者ムハンマドの手助けをしました。預言者ムハンマドは彼のことを補佐であると言及しています。

マディーナにおいて、水の供給源は不足しており、井戸の権利は少数の人々によって管理されていました。彼は熟練した商人であり、交渉に長けていたため、ムスリムたちを代表して井戸を購入しようと試みました。彼はまず、井戸の半分の値段を交渉しました。それはつまり、元の所有者と交代で一日おきに井戸の水を使用する権利でした。しかしウスマーンはムスリムたちに無料で水を提供したことから、有料で水を汲ませていた元の所有者から購入する者はいなくなってしまいました。したがってその井戸の所有者はウスマーンに残りの半分の権利も売り渡す他なくなりましたが、それにも関わらずウスマーンは適正な価格で買い取ったのです。ウスマーンはその後も皆に無料で水を汲み取らせ、そのことをひけらかしたり、誇示したりすることもありませんでした。彼は謙虚で慎み深い人物だったのです。

ウスマーンは神とその使徒ムハンマドを喜ばせるため、彼の財産からも惜しげなく施しました。記録によると、彼は毎週金曜日、それらを自由にするため奴隷を買取っていましたが、その習慣のため、彼は裕福であったにも関わらず、自分自身の召使いがいないこともしばしばありました。預言者ムハンマドとムスリム軍がビザンチン帝国との戦争のためタブークに遠征した際、彼は裕福な者たちに呼びかけて、軍隊の装備と援助のために出資するよう富と資金を募りました。ウスマーンは200頭の鞍付きのラクダ、そして200オンスの金、そして1000ディナールを提供しました。預言者ムハンマドは、他者がウスマーンに触発されて施すようにしきりに寄付を募っていました。しかしながら、ウスマーンは誰よりも沢山寄付をし、最終的には900頭の装備されたラクダを提供したのです1

私たちが思い浮かべることの出来るウスマーン像は、寛大で気取ることのない、親切な男といったものです。彼はその謙虚さ、慎ましさ、敬虔さで知られていました。ウスマーンはたびたび、夜間を礼拝によって過ごし、頻繁に行った断食も、ときには隔日で行っていた程です。彼はその裕福さにも関わらず簡素に暮らし、モスクの中で砂にまみれて眠ることもありました。ウスマーンは6人からなる評議会によって、預言者ムハンマドの3代目の後継者として選ばれました。彼は預言者ムハンマド、アブー・バクル、ウマルの慣習であった人道的・公正な統治を受け継ぎました。彼はムスリムの長であるカリフとして、その領土をモロッコ、アフガニスタン、そしてアゼルバイジャンにまで拡大しました。6年間に渡り、彼の統治は平和なものでしたが、そこには不穏な空気が忍び寄ったのです。

彼の前任者たち同様、ウスマーン・ブン・アッファーンは人々に尽くした人物でした。彼は羞恥心に満ちていましたが、その統治は後期において、内部抗争と反逆によって甚大な損害を被りました。神はウスマーンを3代目の指導者としてお選びになりましたが、反抗勢力は彼をその地位から引きずり降ろそうとしたのです。預言者ムハンマドは、ウスマーンが非常に困難な状況に陥ることを予言していました。「ウスマンよ、神はおそらくあなたに衣服をお着せになるだろうが、もし人があなたからそれをぎ取ろうとしても、彼らのためにそれを渡してはならない。」ウスマーンはその「衣服」を明け渡したりはしませんでした。彼による神とその使徒への愛情は、老齢、そして極めて困難な状況においても、強い心と謙虚の念を持たせたのです。



Footnotes:

1 The Sealed Nectar. Safi Ur Rahman Al Mubarakpuri.

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ウスマーン・ブン・アッファーン(2/2)

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説明: 第3代目正統カリフによる驚くべき生活、そして行為。

  • より アーイシャ・
  • 掲載日時 17 Jun 2013
  • 編集日時 17 Jun 2013
  • プリント数: 60
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Uthman_Ibn_Affan_(part_2_of_2)_001.jpgウスマーン・ブン・アッファーンは預言者(神の慈悲と祝福あれ)に愛でられていたことから、「二つの光の保持者」と呼ばれていました。ウスマーンは預言者の娘ルカイヤと結婚し、彼女が亡くなった後にはもう一人の娘ウンム・クルスームと結婚したことから、二つの光を持つ者となりました。

ウスマーン・ブン・アッファーンは慎重な協議と熟考がなされた末、カリフ(ムスリム国家の指導者)として任命されました。ウマルは臨終の際、新たな指導者を選ぶための6人からなる評議会を結成させました。当時はムスリムたちの間に混乱と無秩序が蔓延っており、小さな不一致が大きな障害となっていました。一方では、預言者の家族であるアリー・ブン・アビー・ターリブの就任が求められており、また一方ではマッカの一大勢力の出身であるウスマーンの就任が求められていました。14世紀の偉大なイスラーム学者、イブン・カスィールは、評議会の議長を務めたアブドッラフマーン・ブン・アウフが候補者の双方を面接した結果、ウスマーンが選ばれたことに言及しています。

アブドッラフマーンはアリーに、こう尋ねています。「あなたは荘厳なる神の書(クルアーン)と、その使徒のスンナ(伝統)に基づいた統治をすると誓いますか?」彼はこう答えました。「私は自らの知識と能力を尽くし、それに基づくことを望んでいる。」そしてアブドッラフマーンはウスマーンにも同じ質問をしたとき、彼は分かりやすくこう答えました。「誓います。」このやりとりによって結果が決められたのではなく、実際には、これは協議と熟考の過程の一部でした。いずれの候補者も、ムスリム国家を指導することの出来る候補者たちの内の有力な二人でした。ウスマーンは敬虔さ、寛大さ、謙虚さによって知られ、彼の単純な答えはその性格を反映させたものだったのかも知れません。彼はあまり自分から話をしない羞恥心に満ちた男性でしたが、彼の心は神とその使徒への愛情に溢れていました。

カリフ職に選出された直後、ウスマーン・ブン・アッファーンは預言者ムハンマドによって礼拝が先導されていた場所(ミンバル)から人々に演説しました。彼はムスリムたちを見渡し、神を讃え、預言者ムハンマドに祝福を送ってから、この世界は欺瞞に満ちていることを人々に思い起こさせました。彼は人々に、贅沢な暮らしを忌避し、至福と平安に満ちた来世こそを求めるよう忠言しました。

“この世の生活を、譬え話で彼らに説きなさい。それはわれが天から降らす雨のようなもので、大地の草木はそれを受けて繁るが、(そのうち)風に吹き散らされて乾いた株の根となる。アッラーは全てのことに力を持っておられる。富と子女はこの世の生活の装飾である。だが永遠に残る善行こそは、主の御許では報奨において最も優れ、また希望(の基礎)としても最も優れたものである。”(クルアーン18:45−46)

ウスマーンは神を愛し、完全に信頼しきった敬虔な男であったため、彼の指導者としての最初の行為は、人々が彼によって預言者、そしてアブー・バクル、ウマル・ブン・アル=ハッターブの先代カリフたちの道にきちんと導かれることを保証することでした。ウスマーンがムスリムの指導者となったのは彼が70歳近くになってからで、彼は長年にわたり、神へのお近づきを求めて現世での享楽を慎んでいました。ウスマーンは人々への関心を示し、世話を焼いただけではなく、司令官として、総督・ムスリム軍隊を指揮しました。

ウスマーンは総督に対し、人々に尽くすこと、そして決して彼らから搾取してはならないことを表明しました。彼は支配地へ、預言者ムハンマドの著名な教友たちを自らの代行として遣わし、現地での要員たちの素行と人々の状況を綿密に調べさせました。ウスマーンは軍隊に対し、ウマル・ブン・アル=ハッターブによって定められた明確なガイドラインに従い、彼らの任務は信仰者たちの防衛であるということを、決して忘れないよう注意しました。ウスマーンの統治時代には大幅な領土拡大が行われ、そこにはスペインの一部、モロッコ、そしてアフガニスタンまでもが含まれました。またウスマーンは海軍を組織した最初のカリフでもありました。彼はカリフ職における行政上の区分を再編成し、拡大させ、多くの公的事業に着手しました。しかし、ウスマーンによるムスリムに対しての最も偉大な貢献は、クルアーン写本の編修でしょう。

ウスマーン版クルアーン写本

預言者ムハンマドの死後、正統カリフ時代になると、何十万人もの非アラブ人がイスラームへと入信しました。それにより、様々な方言や書体によってクルアーンが朗誦・筆記されるようになりました。預言者ムハンマドの教友たちと、ウスマーンの友人フザイファはムスリム領内における旅中で、複数の異なるクルアーンの朗誦法があることに気付きました。フザイファはマディーナにあるものと同じ正式なクルアーン写本を作ることをウスマーンに提言しました。

ウスマーンはクルアーンを暗記しており、それぞれの節の背景や文脈といった詳細について熟知していました。クルアーン写本はアブー・バクルの時代に収集され、預言者ムハンマドの妻ハフサによって保管されていました。ウスマーンはその謄本を入手し、最も信頼のおける教友たちにそれらを書き写すよう命じました。それから彼はすべての非公式な写本を焼却・破棄するよう命じたのです。公式な5書がイスラーム領土の5つの都市に配布され、それらは現在もウズベキスタンのタシケントと、トルコのイスタンブールにあるトプカピ宮殿博物館に展示されています。

悲劇の結末

ウスマーンの統治における最後の6年間は、反乱に満ちたものでした。ウスマーンの時代に任命された総督たちの一部は高圧的で、不正を行っていました。こうした中で不和の火種が拡散し、多くの人々はウスマーンが警告していた、現世における裕福な暮らしを愛するようになったのです。策謀は顕著となり、ウスマーンは味方と敵を区別することが困難となりました。彼はいかに反逆的であろうと、ムスリムの血を流すことを躊躇いました。ウスマーンは次の預言者ムハンマドの言葉を決して忘れることがなかったため、優しさと寛大な心をもって追求することを望んだのです。「私の追従者たちの間で一度剣が引き抜かれたとき、それは審判の日まで鞘に収められることはないであろう。

反逆者たちはウスマーンの辞任を要求し、実際に教友たちも彼にそれを促しました。すでに80歳を超えていたウスマーンは彼の敬愛した預言者ムハンマドの言葉を思い起こし、辞任を拒否しました。「ウスマーンよ、神はおそらくあなたに衣服をお着せになるだろうが、もし人々があなたからそれを剥ぎ取ろうとしても、彼らのためにそれを渡してはならない。」ウスマーンは自らの約束を守りぬきましたが、長期に渡る包囲の末、反逆者たちは彼の家に突入し、彼を殺害しました。暗殺者の刃物が彼を襲ったとき、ウスマーンは次の節を朗誦していました。

“彼らのことはアッラーに御任せしておけ。かれは全聴にして全知であられる。”(クルアーン2:137)

これが、イスラームにおいて最も敬虔、親切で無私無欲として知られた一人の男の悲劇の最後だったのです。



Footnotes:

 イブン・カスィールの著作「正統カリフ伝」に基づいています。

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