ウスマーン・ブン・アッファーン(2/2)

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説明: 第3代目正統カリフによる驚くべき生活、そして行為。

  • より アーイシャ・
  • 掲載日時 17 Jun 2013
  • 編集日時 17 Jun 2013
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Uthman_Ibn_Affan_(part_2_of_2)_001.jpgウスマーン・ブン・アッファーンは預言者(神の慈悲と祝福あれ)に愛でられていたことから、「二つの光の保持者」と呼ばれていました。ウスマーンは預言者の娘ルカイヤと結婚し、彼女が亡くなった後にはもう一人の娘ウンム・クルスームと結婚したことから、二つの光を持つ者となりました。

ウスマーン・ブン・アッファーンは慎重な協議と熟考がなされた末、カリフ(ムスリム国家の指導者)として任命されました。ウマルは臨終の際、新たな指導者を選ぶための6人からなる評議会を結成させました。当時はムスリムたちの間に混乱と無秩序が蔓延っており、小さな不一致が大きな障害となっていました。一方では、預言者の家族であるアリー・ブン・アビー・ターリブの就任が求められており、また一方ではマッカの一大勢力の出身であるウスマーンの就任が求められていました。14世紀の偉大なイスラーム学者、イブン・カスィールは、評議会の議長を務めたアブドッラフマーン・ブン・アウフが候補者の双方を面接した結果、ウスマーンが選ばれたことに言及しています。

アブドッラフマーンはアリーに、こう尋ねています。「あなたは荘厳なる神の書(クルアーン)と、その使徒のスンナ(伝統)に基づいた統治をすると誓いますか?」彼はこう答えました。「私は自らの知識と能力を尽くし、それに基づくことを望んでいる。」そしてアブドッラフマーンはウスマーンにも同じ質問をしたとき、彼は分かりやすくこう答えました。「誓います。」このやりとりによって結果が決められたのではなく、実際には、これは協議と熟考の過程の一部でした。いずれの候補者も、ムスリム国家を指導することの出来る候補者たちの内の有力な二人でした。ウスマーンは敬虔さ、寛大さ、謙虚さによって知られ、彼の単純な答えはその性格を反映させたものだったのかも知れません。彼はあまり自分から話をしない羞恥心に満ちた男性でしたが、彼の心は神とその使徒への愛情に溢れていました。

カリフ職に選出された直後、ウスマーン・ブン・アッファーンは預言者ムハンマドによって礼拝が先導されていた場所(ミンバル)から人々に演説しました。彼はムスリムたちを見渡し、神を讃え、預言者ムハンマドに祝福を送ってから、この世界は欺瞞に満ちていることを人々に思い起こさせました。彼は人々に、贅沢な暮らしを忌避し、至福と平安に満ちた来世こそを求めるよう忠言しました。

“この世の生活を、譬え話で彼らに説きなさい。それはわれが天から降らす雨のようなもので、大地の草木はそれを受けて繁るが、(そのうち)風に吹き散らされて乾いた株の根となる。アッラーは全てのことに力を持っておられる。富と子女はこの世の生活の装飾である。だが永遠に残る善行こそは、主の御許では報奨において最も優れ、また希望(の基礎)としても最も優れたものである。”(クルアーン18:45−46)

ウスマーンは神を愛し、完全に信頼しきった敬虔な男であったため、彼の指導者としての最初の行為は、人々が彼によって預言者、そしてアブー・バクル、ウマル・ブン・アル=ハッターブの先代カリフたちの道にきちんと導かれることを保証することでした。ウスマーンがムスリムの指導者となったのは彼が70歳近くになってからで、彼は長年にわたり、神へのお近づきを求めて現世での享楽を慎んでいました。ウスマーンは人々への関心を示し、世話を焼いただけではなく、司令官として、総督・ムスリム軍隊を指揮しました。

ウスマーンは総督に対し、人々に尽くすこと、そして決して彼らから搾取してはならないことを表明しました。彼は支配地へ、預言者ムハンマドの著名な教友たちを自らの代行として遣わし、現地での要員たちの素行と人々の状況を綿密に調べさせました。ウスマーンは軍隊に対し、ウマル・ブン・アル=ハッターブによって定められた明確なガイドラインに従い、彼らの任務は信仰者たちの防衛であるということを、決して忘れないよう注意しました。ウスマーンの統治時代には大幅な領土拡大が行われ、そこにはスペインの一部、モロッコ、そしてアフガニスタンまでもが含まれました。またウスマーンは海軍を組織した最初のカリフでもありました。彼はカリフ職における行政上の区分を再編成し、拡大させ、多くの公的事業に着手しました。しかし、ウスマーンによるムスリムに対しての最も偉大な貢献は、クルアーン写本の編修でしょう。

ウスマーン版クルアーン写本

預言者ムハンマドの死後、正統カリフ時代になると、何十万人もの非アラブ人がイスラームへと入信しました。それにより、様々な方言や書体によってクルアーンが朗誦・筆記されるようになりました。預言者ムハンマドの教友たちと、ウスマーンの友人フザイファはムスリム領内における旅中で、複数の異なるクルアーンの朗誦法があることに気付きました。フザイファはマディーナにあるものと同じ正式なクルアーン写本を作ることをウスマーンに提言しました。

ウスマーンはクルアーンを暗記しており、それぞれの節の背景や文脈といった詳細について熟知していました。クルアーン写本はアブー・バクルの時代に収集され、預言者ムハンマドの妻ハフサによって保管されていました。ウスマーンはその謄本を入手し、最も信頼のおける教友たちにそれらを書き写すよう命じました。それから彼はすべての非公式な写本を焼却・破棄するよう命じたのです。公式な5書がイスラーム領土の5つの都市に配布され、それらは現在もウズベキスタンのタシケントと、トルコのイスタンブールにあるトプカピ宮殿博物館に展示されています。

悲劇の結末

ウスマーンの統治における最後の6年間は、反乱に満ちたものでした。ウスマーンの時代に任命された総督たちの一部は高圧的で、不正を行っていました。こうした中で不和の火種が拡散し、多くの人々はウスマーンが警告していた、現世における裕福な暮らしを愛するようになったのです。策謀は顕著となり、ウスマーンは味方と敵を区別することが困難となりました。彼はいかに反逆的であろうと、ムスリムの血を流すことを躊躇いました。ウスマーンは次の預言者ムハンマドの言葉を決して忘れることがなかったため、優しさと寛大な心をもって追求することを望んだのです。「私の追従者たちの間で一度剣が引き抜かれたとき、それは審判の日まで鞘に収められることはないであろう。

反逆者たちはウスマーンの辞任を要求し、実際に教友たちも彼にそれを促しました。すでに80歳を超えていたウスマーンは彼の敬愛した預言者ムハンマドの言葉を思い起こし、辞任を拒否しました。「ウスマーンよ、神はおそらくあなたに衣服をお着せになるだろうが、もし人々があなたからそれを剥ぎ取ろうとしても、彼らのためにそれを渡してはならない。」ウスマーンは自らの約束を守りぬきましたが、長期に渡る包囲の末、反逆者たちは彼の家に突入し、彼を殺害しました。暗殺者の刃物が彼を襲ったとき、ウスマーンは次の節を朗誦していました。

“彼らのことはアッラーに御任せしておけ。かれは全聴にして全知であられる。”(クルアーン2:137)

これが、イスラームにおいて最も敬虔、親切で無私無欲として知られた一人の男の悲劇の最後だったのです。



Footnotes:

 イブン・カスィールの著作「正統カリフ伝」に基づいています。

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