真の豊かさとは(前半)
- より ヤーセル・アル=カーディー
- 掲載日時 25 Nov 2013
- 編集日時 21 Sep 2014
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多くの人々は、真の豊かさや、本物の宝とは、金銭のことであると決め付けてしまっています。豊かさが、神がしもべに授ける偉大な祝福であることは、確かに間違いありません。そしてそれを正しい方法で稼がれ、適切に費やされ、それを必要としている人々に与える者が、神からの多大な報奨を受けることに疑念はありません。
しかしながら、豊かさは人類に与えられる最高の祝福ではありません。さらに、人がいかに富を有していようが、やがてそれは彼の手から離れ去り、他人の手に渡っていくものなのです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、教友に次のことを質問し、私たちにそのことを思い起こさせます。
“あなた方のうち、自分自身の財産よりも、自分の相続人の財産を愛する人はいるでしょうか?1”
彼らは答えました。“神の使徒よ!私たちの中には、自分自身の財産よりも、自分の相続人の財産を愛する者はいません!”
預言者は言いました。“しかし、自分自身の財産とは、費やされたものであり、自分の相続人の財産とは、遺されたものなのである。”(サヒーフ・ブハーリー)
したがって、現実には人の所有する財産の大半は、やがてその人物の相続人の手に渡りますが、神の道において費やされたものは、来世においてもその人物を益し続けることになります。
神はその点をクルアーンにおいて強調します。
“富と子女はこの世の生活の装飾である。だが永遠に残る善行こそは、主の御許では報奨において最も優れ、また希望(の基礎)としても最も優れたものである。”(クルアーン18:46)
富と子女は現世における楽しみの一つですが、善行は永久に残るものであり、家族や富は残るものではありません。善行こそが神のご満悦に値し、人はそれを行うことによって、来世における永久の報奨を期待することが出来るのです。クルアーンはそのことを明確にします。
“あなたがたをわれにもっと近づけるものは、財産でも子女でもない。信仰して善行に勤しむ者は、その行いの倍の報奨を与え、高い住まいが保証される。”(クルアーン34:37)
よく知られた、またよく繰り返される比喩として、クルアーンには現世を降雨の後に繁茂するも、しばらくすると萎れてしぼんでしまう作物にたとえている箇所があります。クルアーンはこう述べています。
“あなたがたの現世の生活は遊び戯れに過ぎず、また虚飾と、たがいの間の誇示であり、財産と子女の張り合いに過ぎないことを知れ。(現世の生活を)例えれば慈雨のようなもので、(作物は)生長して不信心者(農夫)を喜ばせる。やがてそれは枯れて黄色に変り、次いで粉々になり果てるのをあなたがたは見るであろう。だが来世においては(不義の徒に)厳しい懲罰があり、また(正義の徒には)アッラーから寛容と善賞を授かろう。本当に現世の生活は、虚しい欺瞞の享楽に過ぎない。”(クルアーン57:20)
イマーム・アッ=サアディーはこの節の注釈のまとめとして、以下のような非常に美しい文章を記しています:
「この節で、神は我々に現世の真の性質と、それが何を基に成り立っているのか、またその最後と、そこにいる人々の末路について告げ知らせています。かれは、それが単なる戯れと享楽であり、我々の身体はそこで戯れ、我々の心は享楽していることを告げ知らせているのです。そしてこれこそは、現世に従う人々が基づいているものであり、彼らは己の心を享楽で満たすために、人生すべてを無駄にしていることを見いだすことが出来るのです。彼らは神への想念について、そして(来世における)報奨と懲罰について完全に無知なのです。彼らは己の宗教を娯楽や気晴らしとして捉えているのです。
これは意識の高い人々、そして来世のために努力する人々とは対照的なことです。彼らの心は神への想念、神への知識、そして神への愛情に満ち溢れています。そして彼らは、自分たちだけでなく、他者をも益する行為に勤しみつつ、それによって神へのお近付きをしているのです。そして「遊び戯れ」という言葉は、人々が自らの衣服、飲食、移動手段、家屋、邸宅、名声などにおいて、美化しようと試みるという意味です。また、「虚飾と、たがいの間の誇示であり、財産と子女の張り合い」は、誰もが(現世に)愛着を持っており、勝者となるために他者を出し抜こうとしていることを意味しています。人はそれを通して、あらゆる願望が満たされることを望んでいるのです。そして(それは財産と子女において顕著に見られ)、各人は他者よりも多くの財産と子女を望むのです。そしてこれこそは、現世を溺愛し、そこに満足する者たちに起きていることなのです。
しかし、これは現世とその真実を認識する者にとっては対照的なことであり、そうした人物は現世を目的ではなく、通過点とするのです。彼は神へのお近付きにおいて競い合い、約束された目的地へと確実に辿りつけるよう、必要な手段を取るのです。したがって、そうした人物が財産や子女において競い合おうとする者を見ても、彼はその代わりに、善行によってそうした者と競い合うのです。
また、神は現世のたとえ話をします。それは地上に降る雨のようであり、それは人間や動物によって食べられる植物と混ざり、大地はその美をあらわにし、現世より先を見通すことの出来ない不信仰者はその果実に魅了されますが、そこで神の命令が下されます。それは破壊され、枯れ果て、あたかも大地は緑を与えたことのなかったかのように、そして美は存在しなかったかのように、元の状態に戻ります。
現世とはこういったものなのです。それが栄え、美を繁茂させるとき、その宝からは欲するものを取ることができ、何かを達成したければ、その扉は開かれているのを見いだすことが出来るものの、神の定めはあるとき突然振りかかるのです。それによって、現世で稼いだ物質は彼の手から離れ去り、または彼自身がそこから取り除かれ、彼がそこから得ることが出来た唯一のものとは(彼の遺体を包む)白布だけだったのです。それゆえ、現世を目的とし、そのためにすべてを犠牲にし、人生のすべてをそれに捧げる者には深い悲しみがあるのです。
来世における行為には、真の有益なものがあります。そこでは(行為の果実)が貯蓄されており、彼と共に永久に付き添うのです。そのため、神はこのように仰せられています。
“信仰のない者は、(来世で)厳しい懲罰に会う。だが信仰して善行に勤しむ者には、寛容と偉大な報奨があろう。”(クルアーン35:7)
来世ではその2つのものだけとなります。懲罰とは地獄の業火であり、その穴と鎖、そしてあらゆる恐怖が待ち受けます。それは現世を目的とし、そこを最終的な終着点とし、神に反抗し、そのみしるしを拒絶し、かれの祝福を感謝しなかった者たちのためのものです。
そして神による罪の赦し、あらゆる懲罰の免除、また神によるご満悦は、至福の住処(天国)のために努力をした者たちに対して授けられます。それは、現世の真の性質を認識したゆえに、来世のために真の努力をした者たちのことなのです。
これらすべては私たちの現世への欲求を減退させ、来世への願望を増加させるべきでしょう。そして神はそれゆえ、このように仰せられています。“本当に現世の生活は、虚しい欺瞞の享楽に過ぎない。” このような(現世での)享楽は人が益し、必要性を満たすことの出来るものです。しかし、意思の弱い者たちはそれによって欺かれ、満足し、こうした者たちを、神は詐欺者(シャイターン)によって欺かせることをお許しとなるのです。」2
真の豊かさとは(後半)
- より ヤーセル・アル=カーディー
- 掲載日時 25 Nov 2013
- 編集日時 25 Nov 2013
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現世において、いかに満足した人生を営むかについて。
人がいかに富を築き上げようとも、有効に使えているのは現実には非常に小さな部分だけです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)による叡智ある助言について熟考してみましょう。アブドッラー・ブン・アッ=シャヒールはこのように伝えています。
「私は預言者が“アルハークムッ=タカースル(あなたがたは〈財産や息子などの〉多いことを張り合って、現を抜かす。)”(クルアーン102:1)を朗誦している際に彼の所に入りました。すると彼は言いました。『アダムの子(人間)は“私の富!私の富!”と言う。だがアダムの子よ、あなたはそれによって食べ、排泄し、またはそれによって服が古くなるまで着用するが、それによって喜捨をして(来世での報奨を得るために)送り出すこと以外に、役立てているのですか?』」(サヒーフ・ムスリム)
このハディースで預言者は、私たちの富は現実的にはただ3つの方法だけに使われていることを私たちに気付かせます。第一に、私たちの食べる物で、それは最終的には排泄物となります。第二に、私たちの着る衣服で、それはやがてぼろとなり、着用することができなくなってしまいます。第三に、神のために施された富であり、それは有益性が留まり、私たちに帰ってくる唯一のものです。それゆえ、永久に益することのために使われているのは実際にはほんの僅かに過ぎないにも関わらず、人が「自分の富」を満足げに眺め、自慢し、それを熱望し続けることに一体何の利益があるというのでしょうか?
そうした要因によって、預言者ムハンマドは人類に対し、富とは人が所有する物質の量と比例するものではないということを注意しているのです。真の富とは、自分の持っているものに満足し、来世において永続する報奨のために費やそうと努力することなのです。預言者はこのように述べています。
“富かさとは所有物の量のことではない。真の富かさとは自身の(幸福さにおける)豊かさなのである。”(サヒーフ・ブハーリー)
また、彼はこのようにも述べています。
“少なくともそれだけで事足りるものは、多いながらも気を散らせるものよりも良いのである。”1
三つ目のハディースには、こうあります。
“イスラームに導かれた者こそは成功者であり、彼の供給は事足り、彼はそれに満足する。”(サヒーフ・ムスリム)
最後のハディースには、こうあります。
“最もよい供給とは、それだけで十分に事足りるものである。”2
ここから、私たちは真の成功と富というものは、誠実さ、そして実践に基づいた信仰から来る安寧と満足感であることが明白に分かります。心の満足こそが、人がこうした真の豊かさを実感し、感謝させるものなのです。預言者はこのような豊かさを別のハディースにおいて説明しています。
“あなた方の中の誰であれ、安全が確保された自宅で起床し、健康体であり、一日に必要最低限の食事をとれるのなら、それは世界とその中のすべてのものを手に入れたも同然なのである。”3
このハディースには、得ることの出来る多くの利益があります。「あなた方の中の誰であれ…」とは、ムスリムたちを意味し、イスラームによる第一かつ最も偉大な祝福を示しています。「安全が確保された自宅で起床し…」とは、個人またはその家族に危険が及ばず、その恐れもないこと、そして起床することによって生命という祝福を受けていることを意味します。「健康体であり…」とは、神が彼または彼女から病気という災厄から救ってくださったことを意味し、「一日に必要最低限の食事をとれる」のは、たとえ最低限の食事であっても、それは神による偉大な祝福であること、そして「世界とその中のすべてのものを手に入れたも同然」というのは、それらが現世において人の必要としているすべてのものであり、そうした最低限以上のものは、不必要な贅沢であることを示しています。その量が多かれ少なかれ、神による供給に対しての満足とは、人生に対しての満足であり、それこそが人の得ることの出来る最高の富なのです。預言者はこのように述べています。
“実に、神はお与えになったものによってそのしもべを試みるのである。それゆえ、誰であれ、割り当てられたものが何であれ、それに満足する者は、神はそれによって彼を祝福し、さらに多くを与えるのである。しかし、誰であれ(与えられたもの)に満足しない者は、それによって祝福されはしないであろう。”4
人生における自らの供給と割り当てに満足する者たちは、財産への心配と他者の地位を気にすることがなくなります。そのような人々は、他者がどれ程の財産を持っているのかや、どのような車に乗っているか、どのような家に住んでいるのかを気にしたりはしません。このような純粋な心を持つ者たちは、神を愛し、神に感謝し、現世の物品は幸せを買うことなど出来ないこと、そして信仰と満足心による祝福とは何かを知っているのです。その見返りとして、彼らは神によって、そして周囲の人々からも愛されます。こうした原則は、預言者にまつわる伝承において明白に述べられています。
“現世(への願望)を諦めれば、神はあなたを愛されよう。他者の所有物(への願望)を諦めれば、人々はあなたを愛するだろう。”5
別の伝承においては、ある人物が預言者のもとを訪れ、このように尋ねています。「神の使徒よ!私に伝承をお伝え下さい。そしてそれを短いものとしてください!」そして彼はこのように答えています。
“それがあたかも最後のものであるかのように、またかれ(神)を目の当たりにしているかのように礼拝するのだ。それというのも、あなたにはかれが見えなくとも、かれにはあなたが見えているのだから。そして、他人の持っているもの(を所有すること)への願望をやめるのだ。そうすれば、十全な人生を生きることが出来よう。また何であれ、(後になって)言い訳しなければならなくなる様なことについて気を付けるのだ。”6
したがって、神のご満悦と来世での報奨を主要な目的とする者は、神によって愛されるのであり、ムスリム同胞と現世の諸事において競い合うことを避ける者は、人々によって愛されるのです。そしてこのような豊かさ、つまり神と人々からの愛は、お金によって買うことの出来るいかなる富よりも遥かに大きなものなのです。
この共同体の敬虔なる先人たちも、こうした原則を認識していました。アウン・ブン・アブドッラー7は言っています。「最も偉大なる祝福とは、あなたにとって物事が困難となったとき、あなたが与えられた、イスラームという祝福を感謝することなのである。」8それゆえ、あなたが経済的な困窮に陥ったときは、あなたが得ることの出来ない物質的・一時的な喜びについて悩むよりも、神があなたがそれによって祝福した「イーマーン(信仰)の宝」について熟考し、ムスリムであることの大きな幸福について感謝すべきなのです。同様に、金銭の取得や損失によって有頂天または憂鬱な状態にあるときは、ムハンマド・ブン・スーカの言葉を思い起こすべきです。
“そのものによって神が我々に懲罰をお与えにならないものの、我々自身の懲罰に値するような2つの性質がある。我々はこの世界で得る小さな利益に歓喜するが、神は我々の行う善行で我々がそのように歓喜するのを見たことはない。そして我々はこの世界における小さな物事で心配するが、神は我々が犯す罪で我々がそのように心配するのを見たことはない。”9
私はこの記事を、神が預言者と信仰者たちに対し、現世における富を渇望しないよう注意を促す節によって締め括りたいと思います。それらの富は、神への従順を拒否した者たちに与えられたものであり、信仰者は来世における富のために努力すべきなのです。
“またわれが、かれらのある部類の者に与えたこの世の生活の栄華に、あなたの目を見張ってはならない。われは、それによってかれらを試みた。あなたの主の賜物こそ至上でまた永続する。”(クルアーン20:131)
Footnotes:
1 アブー・ヤアラー、イブン・アディー。アル=アルバーニーはアッ=サヒーハにおいて、それを真正として等級付けています。
2 イブン・ヒッバーン。アッ=スィルスィラ・アッ=サヒーハ参照。
3 アル=ブハーリー、アッ=ティルミズィー、イブン・ヒッバーン。アル=アルバーニーはその著スィルスィラにおいて、アッ=ティルミズィーに同意しています。
4アッ=サヒーハにおいて言及された、アフマドによる伝承。
5イブン・マージャ、アル=ハーキム。アル=アルバーニーはアッ=スィルスィラのなかで、それを真正として等級付けています。
6サヒーフ・ブハーリー、アッ=タバラーニー。
7アブドッラー・ブン・マスウード。彼はハディースを述べ伝えるとき、髭を涙で濡らしたものでした。彼はヒジュラ暦115年に亡くなっています。
8 イブン・アビー・アッ=ドゥンヤー、アル=カナーア・ワ・アッ=タアッフフ。
9 同上。
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