食事作法(前編):食事の前と最中
説明: 預言者ムハンマドの説いた良いマナー。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 18 Nov 2013
- 編集日時 18 Nov 2013
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“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
イスラームという宗教は、人生の包括的な規範です。それは、肉体的・感情的・精神的な分野に区切られてはおらず、人生の全ての側面は、一つの目的を達成するために統一されます。その目的とは一体どういうもので、人生の意味を知ることなんて出来るのかですって? もちろんです!イスラームは、人生の目的とは唯一なる真実の神である、私たちの創造主を崇拝することであるということを非常に明確にします。私たちの存在に意義を与えるものとは、私たちの行動がいかに壮大なもの、または些末なものであれ、それを容易に崇拝行為とすることが出来るという理解です。人生の日常において行われるあらゆる行動は、ただ神を称賛し、かれのご満悦を得ようとする意図を持つだけで、崇拝行為としての地位を得ることが出来るのです。
イスラームは指針を示すことにより、神への想念を容易なものとします。それは、人生とは崇拝であり、崇拝が人生の意義であることを丁寧かつ中庸な方法で教えます。食事にも、それを日常的な崇拝へとその地位を引き上げる礼儀作法が存在します。食べ物は、私たちの日常生活で大きな役割を果たしています。私たちが買い物、料理、食事に多大なる時間と労力、そして出費をするため、それらの世俗的行為を報奨に値する崇拝行為に変えることは理に叶ったことです。預言者ムハンマドの言葉は、食事を報奨に値する行為にさせる、指針と助言に満ちたものです。
衛生管理はイスラームにおいて重要なものです。ムスリムは礼拝に立って神へと向き合う前に自身を浄化しなければならないだけでなく、自身の身体とその周辺についても常に注意を払わなければなりません。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、私たちの身体には特定の権利があり、その一つは常に清潔さが保たれていることであると述べています。私たちの身体は神による信託であり、不潔な環境に住むことは、病気の原因となります。それゆえ食事の支度をする前は、食べ物、支度をする場所、そして両手が清潔であることが確実にされなければなりません。
ムスリムはあらゆる行動の前には神の御名を唱えて開始しますが、食事もその例外ではありません。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう言っています。
“あなた方が食事をする際は、神の御名を唱えなさい。始めに神の御名を唱え忘れたのであれば、こう言うのです:「(この食事の)始まりと終わりのどちらも、神の御名のもとに。」”1
イスラームが中庸の生き方であることを忘れず、神が私たちに供給してくださった美味な食べ物を私たち自ら禁じたりしないことは、重要です。食事に関するイスラーム的指針は、その殆どを預言者ムハンマドにまつわる伝承から学び取ることが出来ます。
病気や怪我などの理由がない限り、ムスリムは右手で食べることが課されています。左手は、身体の不浄物を取り除くときに使用され、右手は食事、他人に物を渡すとき、あるいは握手をするときに使われます。悪魔は左手で食事をするため、預言者ムハンマドは彼の教友たちに、悪魔と似通ったことは、それが何であれ行わない様に助言しています2。
預言者ムハンマドの教友の一人、ウマル・ブン・アビー・サラマは、食事作法にまつわる逸話を伝えています。彼はこう言いました。
“私が神の使徒のお世話になっていた少年時代、私は(食事の盛られた)皿の上で手をあちこち動かしていました。神の使徒は私に言いました。「少年よ、ビスミッラー(神の御名のもとに)と言い、右手で食べ、あなたから一番近いところから手を付けるのです。」”3
皆が共通の皿を囲んで食事をする状況で、自分から一番近いところから手をつけることは、良い食事作法であるとされます。他人の前を遮ったり、一番美味しそうな部分を選り好みしたりすることは、他人を不快にさせたり、自分を感謝しない人、あるいは強欲な人に見せます。食事作法の一つには、いくらその食事が食欲をそそるようなものであれ、適度に摂取することが含まれます。
預言者ムハンマドは、痩せて健康でいることは、肥満・怠惰・非生産的であるよりも良いことであると述べています。
“人が満たすもののなかでも最も悪いものは、自分の腹である。アダムの子(人間)にとって十分なのは、必要最低限だけ食い繋ぐことである。しかしそれ以上でなければならないのなら、食べ物を3分の1、飲み物を3分の1、空気を3分の1にしなさい。”4
食事作法に関しては、多くの指針が示されています。しかし、それぞれの行為がいかに取るに足らないように見えたとしても、他人に敬意をもって接し、自らの行為がいかに神をご満悦させるか否かについて考えることは、食事を崇拝行為へと変えるのです。選り抜きの食事を良いタイミングでもてなし、来客に敬意を示すことは預言者ムハンマドの慣習でした。客はもてなしに応え、それを味わい、もてなした側に祝福を送り、彼のために祈ることができます。教友アナスは、ある時サアド・ブン・ウバーダが預言者ムハンマドにパンと油を差し出した時、預言者がこう答えたことを伝えています。
“断食する人々が、あなたと共に断食を解きますよう。誠実な者たちが、あなたの食物を食べますよう。天使たちが、あなたに祝福を送りますよう。”5
もてなした側に祝福を送ることは良きマナーの一つであり、預言者ムハンマドは追従者たちに、神のもたらした食べ物は祝福に満ち溢れていることを明白にしています。彼は私たちが感謝の気持ちを忘れないよう、説いています。預言者ムハンマドは、その祝福を逃さないため、そして悪魔に食事をさせないため、床に落としてしまった食べ物であれ、それを拾い、埃を払って食べるよう助言しています。
食事作法には、一人よりかは集団で食事すること、神の恵みを共有すること、また指3本を用いて食べ、食事中には身体を寄りかからせず、食事後には食べ物の付いた指を舐めとり、つばを吐いたり、鼻をかんだりしないことなどが含まれます。また、食ベ物を称賛することもイスラーム的マナーの一つです。食べ物にケチを付けることは不適切であり、嫌いなものには手を付けずにいることです。
信仰者は食事作法に気をつけることにより、祝福と報奨を受け取りやすくします。神は肉類、穀類、果物や野菜など、あらゆる種類の美味な食べ物を用意されました。かれはこのように述べられています。
“そして食べたり飲んだりしなさい。だが度を越してはならない。本当にかれ(神)は浪費する者を御好みにならない。”(クルアーン7:31)
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