ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(1/4)
説明: 「ルーレットの類推」が、いかにこの元ラスベガス市民をムスリムにしたか。第一部:「人生パズルの目的」の断片を集めること。
- より ドナルド・W・フラッド
- 掲載日時 30 Sep 2013
- 編集日時 30 Sep 2013
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私はかつて、自分の育ちは良質な人生を提供しているのだと思っていました。私は肉体的にも精神的にも満足していたからです。私は青年として、快楽主義的な面はあったものの、一般的な米国人の人生を歩んできました。私は音楽やパーティー、女性、スポーツ、旅行、外国の食べ物や言語が好きでした。しかしながら、ある時私は「精神的破綻」を感じるポイントに到達し、自らにこう問い質しました。「これから、どうするつもりなのだ?」そしてこう思ったのです。「人生には、こんな生活よりも良いことがきっとあるはずだ。」この認識は、私が多岐に渡る分野から真実の探索を開始する原動力となったのです。
私は自分が精神的に満たされない思いを抱いていたのは、衝動的な行動様式と、性急に満足感を得ようとする米国のライフスタイルに原因があるのだと仮定しました。それゆえ、より良い地理的環境に答えがあるのかも知れないと考え、完璧な風土を探し始めました。様々な場所に旅してみると、私は自分が探していたのは完璧な風土ではなく、最も最適な形で人生へのアプローチを試みる特定の文化であることを発見しました。そして私が最も魅力的な文化だと見なしていたものにも、欠点があることに気付きました。その後、私は人々の生活様式について学び、そこから最善のものを選ぶべきだと推測しました。これがおそらく、私が真理を求める旅を始めるきっかけとなったものでした。
世界市民としての人生を実践することの出来なかった私は、秘教的な物事に惹かれていたせいもあって、形而上学の書物を読み始めることにしました。私はすぐに、すべての物事は、自らの利益として用いることの出来る普遍的な法に従って作用していることを学びました。この分野の多くの書物を読んだ私は、それらの法よりも重要なのは、それらを創った者、すなわち神であるという結論に達しました。また、形而上学は脆い道であることに気付き、その分野におけるそれ以上の追求を止めました。
親しい友人の提案で、私たちは人生の目的を発見するという意図で、米国全土とカナダ西部の3ヶ月間のキャンプ旅行に出ました。私たちは大自然の驚異を目撃し、この世界は偶然によって生まれたのではなく、創造主の存在を暗示するしるしに満ちたものであることを確信しました。それゆえ、この旅は私の神への信仰を確固たるものとしました。
家に帰ると、慌ただしい都市生活に嫌気が差したため、そこからの解放を求めて瞑想をするようになりました。瞑想テクニックによって内的な平安を見つける事は出来ましたが、そうした安寧の気持ちは一時的なものでした。ひとたび立ち上がれば、その感覚を持ち歩くことは出来なかったのです。同様に、瞑想を定期的に続けることには困難を見出したため、それに対しては徐々に興味を失っていきました。
私はやがて、真実とは自己修養に潜んでいるのではないかと考えだしました。それゆえ啓蒙書を読み漁り、関連する講座に出席したりもしました。さらに、米国陸軍のテレビコマーシャルのスローガンである「Be all you can be(なれるもの全てになろう)」に触発され、スカイダイビングや格闘技などに挑戦しました。読書やチャレンジ精神によって、私は自信を持つようにはなりましたが、実際にはまだ真実を見つけ出してはいませんでした。
しばらくすると、様々な哲学書を読むようになりました。そこからは多くの興味深い概念や実践法を見出しはしましたが、私が完全に合意出来るような特定の哲学を発見することは出来ませんでした。それゆえ、私はそれらの教理から最善と思われるものを統合しました。それは、論理的態度の重要性を強調した、ある種の「選り好み宗教」でした。しかし、良き論理そのものの良さは認める一方、それは人生のより精神的なアプローチである「人生というパズルの目的」の解明には不十分であるという結論に至りました。
その後すぐ、私はムスリムの国で仕事を見つけ、有り余った時間で読書したり、人生について考えたりしていました。真実の探求を続けるかたわら、神への悔悟を勧めるくだりをある本の中で見つけました。私はそれを実践するようになると、人生の中で悪いことをしてしまった人々に対する自責の念を感じて、頬から涙がこぼれ落ちる程でした。
数日後、私は何人かのムスリムの友人たちと会話の場を持ちました。私は彼らの国よりも、米国に居たときの方がより多くの自由があったことに言及しました。すると彼らの一人が言いました。「それは、君が何を『自由』だと言っているかよって変わってくるよ。君が住んでいる世界では、家庭で両親がいかに子供に倫理を教えても、一歩外に出るとその倫理とは矛盾するものを見つけることが出来る。一方で、大半のムスリムコミュニティでは、家庭で教えられている倫理と社会で見出すことの出来るものは非常に似通ったものだ。だから、本当に自由があるのはどちらなんだろうね?」彼によるこうした類推から、私はイスラーム的指針や規制とは、人の行動をがんじがらめにし、自由を抑圧することを目的とされたのではなく、人間の自由を定義し、それに尊厳を与えるものなのではないかと推測したのです。
ムスリムの友人たちから夕食に招待されたとき、イスラームについてさらに知る機会がありました。私が中東に来る前、ラスベガスに住んでいたことを彼らに言うと、米国出身のムスリムがこう言いました。「君は良きムスリムとして人生を終えられるよう、努力しなければならない。」私は直ちに、それが何を意味するのか彼に尋ねました。彼はこう言いました。「君が非ムスリムとして死ぬのなら、それは君が手持ちの全てのチップをたった一つの番号に賭け、あわよくば審判の日、神がそのご慈悲から君を天国に入れてもらえるよう期待する、ルーレットのようなものだ。反対に、君が良きムスリムとして死ぬのなら、それはルーレット盤のすべての番号にチップを賭けることであり、球がどの番号で止まろうが君は安心していられる。言い換えれば、良きムスリムとして生き死にすることは、地獄に落ちないための最善の保険であると同時に、天国に入るための最善の投資なんだよ。」私は元ラスベガス市民として、この強烈な例えを直ちに理解することが出来ました。
この時点で、私は神がその諸預言者や諸使徒に下した啓示についての諸宗教に集中してみない限り、真実を見出すことは出来ないだろうと考えるようになりました。それゆえ、私はキリスト教とイスラームを通した真実探求を敢行することに決めたのです。
ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(2/4)
説明: 彼のキリスト教研究、そしてイエスは神の子であるという一般的な信仰について。
- より ドナルド・W・フラッド
- 掲載日時 30 Sep 2013
- 編集日時 30 Sep 2013
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私はキリスト教徒として育てられてきましたが、キリスト教に関しては混乱を感じており、興味はありませんでした。私は理解を超えた謎の宗教を受け継いだように感じていました。こうした理由によって名目上はキリスト教徒でしたが、実践はしていませんでした。さらに、キリスト教への懐疑心によって、私は無宗教の状態にあったと感じています。ともあれ、私は真実探求の一環として、両親から受け継いだ信仰を再検証することにしたのです。
ムスリムや非ムスリムによって制作された、キリスト教に関する小冊子・カセット・ビデオテープなどによって、驚くべきことに数百もの聖書中の矛盾する箇所について知りました。これらの資料が主張していたことは、神はイエス(神の慈悲と祝福あれ)以前から唯一なる存在であったということでした。イエス自身は唯一神への信仰を説いたのです。しかし、イエスの死後になり、キリスト教徒たちは唯一神への信仰ではなく、三位一体を強調するようになりました。またイエス以前、神は子を持たず、同位者も存在しませんでした。同様に、イエスは自らを神の使徒と名乗りましたが、キリスト教は彼の後になって彼が神の子であるとしたり、神自身であるとしたのです。
一神教に関しては、十戒の中の第一戒で、イエスは唯一神への信仰を明確にしています。“イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。”(マルコ12:29)1同様に、聖書の中にはイエスの神格性を否定する、無数の節が存在しています。例えば、イエスは自分で奇跡を行うことは出来ず、それは神の御意と許可によるものだということを認めています2。興味深いことに、聖書ではイエスが祈ったと述べられています3。私はこう自問しました。「なぜイエスは神でありながら、神に祈ったりするのだろうか?」神が神へ祈るということは矛盾となります。それに加え、イエスは彼の教えが自分自らのものではなく、神によるものだと述べています4。必然的に、彼の言葉が彼自身のものではないのなら、彼は神によって彼以前(とそれ以降)の者たち同様、啓示を受けている預言者であるということになります。さらにイエスは、彼が神によって教えられたことを行っているのだと認めています5。私は再び自問しました。「なぜイエスは教えられていながらにして、神であることが出来るのだろうか?」私はムスリムたちとの議論から、彼らはイエスが命じた唯一なる神への信仰に同意していることを発見しました。クルアーンでは次のように述べられています。“かれは神、唯一なる御方であられる。”(クルアーン112:1)
私はまた、聖書の中でイエスを神の預言者として言及している節の数々にも驚きました7。同様に、私はイエスのイスラーム的観点を学び、それはイエスを預言者であり神の使徒であるとするものでした。クルアーンにおいて神はこう述べます。
“マリアの子メシアは、一人の使徒に過ぎない。かれの以前にも使徒たちがあって、逝ったのである。かれの母は誠実な婦人であった。そしてかれら両人は食べ物を食べていた。見よ、われは如何にかれらに印を明示したかを。また見よ、如何にかれら(不信者)が迷い去るかを。”(クルアーン5:75)
キリスト教におけるもう一つの一般的な信条に、イエスを神の子とするものがあります。
聖書によると、神の預言者や聖人を「神の子」と呼ぶことは慣習的なものであったとされています。しかしイエスは自分のことを「神」でも逐語的な「神の子」でもなく、「人の子」と名乗っていました8。どうやら、イエスの教えがねじ曲げられ、彼が神の子としての地位に祭り上げられたのは、パウロに責任があるようです9。
それだけでなく、イエスは(ヨハネ3:16で述べられるような)“生まれた”神の子でもなかったようです。その語句は改訂標準訳聖書(RSV)から除外されたためです。さらに、神はクルアーンの中で、神は子をもうけることはないと強調しています10。しかし、神はアダムとイエスを創造したことも宣言しています。“イエスは神の御許では、丁度アダムと同じである。かれが泥でかれ(アダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”(クルアーン3:59)
こうした修正よりも以前に、皇帝や聖職者たちはイエスの言行に反した歪曲を繰り返して来ました。それらの中には、イエスが三位の神(父、子、聖霊)のうちの一体であるとする、三位一体論が含まれます11。こうした概念は、イエスとその弟子たち、また初期キリスト教学者たちによって一度も公言されたことはなかったにも関わらず、聖書においてこの節は三位一体論における決定的根拠であるとされます。しかし三位一体論というものは、実際には西暦325年のニケア公会議において、キリスト教徒たちによる盛大な議論の末に、教会の公式教義として可決されたものなのです。興味深いことに、この節は近代の聖書においては削除されてしまっています。加えてクルアーンでは、ユダヤ教徒とキリスト教徒に対し、神の啓示を拒絶しないよう、そして三位一体を信じないよう警告しています。
キリスト教で議論を引き起こしている分野には「原罪」、そしてイエスの十字架への「はりつけを通しての救済」というものがあります。彼らによると、イエス以前には原罪という教義は存在しませんでしたが、イエス後にそれは創り出されました。さらに、イエス以前には神への帰依によって救済が得られていたにも関わらず、イエス後になってイエスのはりつけを通して救済が得られるようになったというのです。
キリスト教においての原罪という教義は、イエスのはりつけを通した救済を正当化するものです。しかしながら、こうした教義は旧約聖書において強く否定されていることを私は発見したのです13。この概念は、あたかも審判の日、その信奉者が神の御前において責任逃れをするために設計されたかのようです14。イエス自身は、人は神への服従と帰依によって救済されると言っていたという事実に、私は着目しました15。クルアーンではそれと同じように、すべての魂は自らが稼いだものによって報われると述べられています16。しかし、キリスト教ではこの元来の教えが歪曲され、救済はイエスのはりつけを通してのものであるとされるようになったのです17。
「はりつけを通しての救済」論は、イエスが自らを犠牲として捧げることによって人類を救うという概念です。しかし、もし本当にそうなのであれば、なぜイエスは兵士たちが彼を拿捕する前、神に助けを祈ったりしたのでしょうか?(“父よ、わたしをこの時から救ってください”〔ヨハネ12:27〕)同様に、なぜ聖書はイエスが十字架で、神に助けを懇願して叫んだと記述しているのでしょう?(“わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか”〔マタイ27:46〕)さらに、イスラエル人に対してのみ遣わされたイエスが、なぜ人類全体の救済のためにはりつけにされなければならなかったのでしょうか18? これらは明白な矛盾なのです。
クルアーンでは、彼は実際にははりつけにはされず、はりつけにされたのは彼に似た人物だったと述べています19。もしそうなのであれば、はりつけの後、彼が弟子たちの前に現れたことも説明出来るようになります。もし彼が十字架で死んだのであれば、弟子の前に現れたのは彼の霊的な身体だったということになりますが、ルカ24:36−43によって示されているように、はりつけと主張される出来事の後、イエスは霊的でなく物理的な身体で彼らに会ったのです。このようにして、私はパウロがイエスの復活論を説き始めたことを学んだのです20。またパウロは、復活論は彼自身の宣べ伝える福音であることを認めてさえいるのです21。
私は、パウロと彼の信奉者たちが、ユダヤ教徒たちがイエスの教えを拒絶したことに不満をもったため、異邦人へと布教を拡大したことを示す多くの典拠を見つけました。彼らは多神教や偶像崇拝が広まっていた南ヨーロッパへと行き、ローマ人やギリシャ人の当時の伝統や好みに合わせるかのように、イエスの教えを次第に改変して行きました22。聖書はその教えや情報が追加・削除されることに対し警告を発していたにも関わらず、それは実際に起きてしまったのです23。神はこのことについて、クルアーンの中でも述べています。“災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、「これは神から下ったものだ。」と言う者に。かれらに災いあれ、その手が記したもののために。かれらに災いあれ、それによって利益を得たために。”(2:79)
Footnotes:
1 参照:民数記23:19,申命記6:4,13,マタイ4:10,22:36−38,23:9−10,マルコ10:18,ルカ4:8.
2 参照:マタイ12:28,ルカ11:20,ヨハネ3:2,5:30,使徒行伝2:22.
3 参照:ヨハネ7:16,12:49,14:24,31.
4 参照:ヨハネ7:16,12:49,14:24,31.
5 参照:ヨハネ8:28.
7 参照:マタイ13:57,21:11,45−46,マタイ6:4,ルカ4:43,13:33,24:19,ヘブライ人3:1.
8 参照:マタイ13:37,ルカ12:10,テモテ一2:5.
9 参照:使徒行伝9:20.
10 参照:19:88−92.
11 参照:ヨハネの手紙一5:7.
13 参照:エゼキエル18:20,エレミア31:30.
14 参照:エペソ人1:7,ローマ人3:22−26,4:25,10:9.
15 参照:マタイ5:19−20,6:4,7:21,19:17.
16 参照:3:25,41:46,74:38.
17 参照:ローマ人3:28,ヨハネの手紙一2:1−2.
18 参照:マタイ10:5−6,15:24.
19 参照:4:157−158.
20 参照:ローマ人5:10−11,使徒行伝17:17−18.
21 参照テモテ二2:8.
22 参照:コリント一9:19−23.
23 参照:ヨハネの黙示録22:18−19.
ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(3/4)
説明: 「ルーレットの類推」が、いかにこの元ラスベガス市民をムスリムにしたか。第三部:彼による預言者ムハンマド、クルアーン、そしてイスラームの様々な側面の考察。
- より ドナルド・W・フラッド
- 掲載日時 07 Oct 2013
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諸啓典における預言者ムハンマド
私が学んだもう一つの興味深い点に、聖書による預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)到来の予言があります。聖書には(元来のテキストは歪曲されてはいるものの)、預言者ムハンマドが到来することを予言する明確な記述1が存在していることを私は知りました。イエスによる、彼の後に到来する者の説明(脚注を参考)は、預言者ムハンマド以外の誰一人として当てはまらないことをムスリム学者たちは確証しています。また聖クルアーンの一節も、このことについてイエスが述べたことを確証します。
“イスラエルの子孫たちよ、本当にわたしは、あなたがたに(遣わされた)神の使徒で、わたしより以前に、(下されている)律法を確証し、またわたしの後に来る使徒の吉報を与える。その名前は、アハマドである。”(クルアーン61:6)
アハマドという名前は、預言者ムハンマドの別名でもあり、同じ語根から派生する言葉です。
クルアーンにおける預言者ムハンマド
クルアーンは、以下の節のように、私たちが神と預言者ムハンマドを信じるよう啓蒙します。
“(預言者ムハンマドよ、)言ってやるがいい。「人びとよ、わたしは神の使徒として、あなたがた凡てに遣わされた者である。天と地の大権は、かれのものである。かれの外に神はなく、かれは生を授け死を与える御方である。だから神と御言葉を信奉する、文字を知らない使徒を信頼しかれに従え。そうすればきっとあなたがたは導かれるであろう。」”(クルアーン7:158)
また、クルアーンは預言者ムハンマドを最後の預言者として言及しています。
“ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、神の使徒であり、また預言者たちの封緘である。”(クルアーン33:40)
神はクルアーンにおいて、ムハンマドが最後の使徒であると述べていますが、私はムスリムたちが彼以前のすべての預言者たちと、彼らに下された元来の形での啓示を認め、信じていることを発見しました2。
最終啓示であるクルアーン
神の啓示に対して数々の歪曲がされたことから、イエスの後にもう一人の預言者が現れ、福音の後に新たな啓示が下される必要性が生じたのだと私は理解しました。こうして神は最終啓示(クルアーン)をもってムハンマドを遣わし、全人類を唯一無二なる神への信仰に呼び戻させたのです。ムスリムたちによれば、聖クルアーンはイエスの偉大なる役割に対する合理的な歴史的解明を人類に提供する、究極の典拠かつ永久保存版なのです。クルアーンではイエスの名が25回言及されており、またイエスの母の名にちなんだマルヤム(マリア)章と呼ばれる章も存在します。
この神による啓示が真正であるのかどうかについて、次のクルアーンの節が説得力を持ちます。
“このクルアーンは、神以外のものによって作られるようなものではない。それどころかこれは、それ以前にあったものの確証(の啓示)であり、万有の主からの、疑いの余地を残さない、啓典の解明である。”(クルアーン10:37)
“・・・それは、本当に確固たる不動の真理である。”(クルアーン69:51)
同様に、私はクルアーンの被った改竄についても懸念しました。それはクルアーン以前の啓示において非常に顕著な問題だったからです。しかし、クルアーンは決して改竄されないことが明言されています。
“本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである。”(クルアーン15:9)3
私はまた、クルアーンで言及されている科学的現象についても知らされ、それらはクルアーンが神の言葉そのものであるという信用性を与えました。その節の数々には人の胎児の発達過程4、山々5や宇宙の起源6、大脳7、海洋8、深海、内部波9、雲の形成10などについて語られています。近代の高度な科学技術や精密な専門的手順によってしか発見・確証されなかったこれらの事実を、1400年以上も前の人物が知っていたこということはあり得ません。
啓示宗教の本質・頂点であるイスラーム
ムスリムたちは、人間は神を崇拝するという根本的目的によって創造されたのであると信じます。神はクルアーンでこのように述べています。
“ジン(炎から創られた霊的存在の一種)と人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
これに関連して、西洋における著名なイスラーム学者はこう述べています。「現在、人類に提供されている最も完全な崇拝システムは、イスラームという宗教のシステムであり、『イスラーム』という名前自体、『神の御意への帰依』を意味しているのです。イスラームは通常、三大一神教の三番手として言及されがちですが、イスラームは新宗教では全くありません。それはすべての預言者たちによって説かれてきた宗教であり、アダム、アブラハム、モーゼ、そしてイエスの宗教だったのですから。」11
彼はこう続けます。「神は唯一であり、人類も一つの種であることから、神が人類に定めた宗教も(本質的に)唯一なのです。人の必要とする精神的・社会的要求は単一であり、人間性は最初の男女が創造されたとき以来、変化していません。」12
神の教えは常に同一であったという事実が明らかにされ、私は全人類が真実を探求し、社会や両親の従う宗教に盲目的に従うだけではいけないということを確信しました。クルアーンではこう述べられています。
“かれに仕えないならば、あなたがたとその祖先が命名した、(只の)名称に仕えるに過ぎない。神はそれに対し権能を与えてはいない。”(クルアーン12:40)
フィトラ(外的影響により崩壊させられる以前の、人間に本来備わる、神を崇拝する本能)について、預言者ムハンマドはこう述べています。
“すべての子供達はフィトラ(生粋の人間性)をもって生まれてくるが、両親がユダヤ教やキリスト教、ゾロアスター教などに改宗させてしまうのである。動物は子供を自然のまま産み落とすが、そこに欠陥を見出すか?”(サヒーフ・ブハーリー)
さらに、神はこう述べます。
“それであなたはあなたの顔を純正な教えに、確り向けなさい。神が人間に定められたフィトラ(天性)に基いて。神の創造に、変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人びとの多くは分らない。”(クルアーン30:30)13
さらに、神はイスラーム以外の宗教を承認しないことを、私は次のクルアーンの節によって知りました。
“イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。また来世においては、これらの者は失敗者の類である。”(クルアーン3:85)
人は神の導きを拒否し、自分自身の基準に則った生活を確立することも可能ですが、そういった人物は遅かれ早かれ、自らの欲望に翻弄されていたことに気付くだけです。
旅人
私はクルアーンを読み進め、預言者ムハンマドの言行録やスンナ(慣行)を学ぶにつれ、人は現世においては旅人のようなものであり、帰るべき“住処”は永遠なる来世にあるのだとイスラームが見なしていることに気付きました。私たちがここに留まるのはほんの僅かな間だけで、この世界からは神への信仰心と行い以外の何も来世へと持っていくことは出来ません。そのため、人は土地を通り過ぎるだけで、そこに属することのない旅人のようであるべきなのです。私たちは旅人として、生きることとは試練を受けることの意味を理解しなくてはなりません。それゆえ、苦難、喜び、痛みや快楽があるのです。これらの善と悪の試練は、私たちの更なる精神的特質を呼び起こすためのものです。しかし、私たちは最善を尽くし、神を完全に信頼し、忍耐をもって神の定めを甘受しない限り、それらの試練から利益を得ることはないのです。
楽園への道
私にとって楽園について学ぶことは、それが明らかに全人にとっての究極的目標であることから、非常に有意義なことでした。この永久なる住処について、神はこう述べます。
“かれらはその行ったことの報奨として、喜ばしいものが自分のためにひそかに(用意)されているのを知らない。”(クルアーン32:17)
また私は、創造主ご自身を目にするという、想像を絶する歓びについても意識するようになりました。そのような報奨に値する魂とは、どんなものなのでしょうか。この楽園という報奨は、お金では買えないものです。その値段とは真の信仰であり、それは神への従順と預言者ムハンマドのスンナに従うことなのです。
人は誠実さや、楽園へ入るに値する精神性を得るためには、神を崇拝しなければならないこと14を私は理解しました。つまり、崇拝とは人が神に対して行う慈善行為のようなものなどではなく、それは人にとって食事や呼吸のように必要不可欠なものであるという理解です。同様に、神が私たちに何をお望みなのかを知るため、クルアーンを読まなければならないことも学びました。それこそが、楽園への道なのです。
Footnotes:
1 申命記18:18−19,イザヤ29:12,ヨハネ14:12−17,16:5−16,使徒行伝3:22.
2 参照:2:136.
3 クルアーン4:82も参照。
4 参照:クルアーン23:12−14.
5 参照:クルアーン16:15,78:6−7.
6 参照:クルアーン21:30,41:11.
7 参照:クルアーン96:15−16.
8 参照:クルアーン25:53,55:19−20.
9 参照:クルアーン24:40.
10 参照:クルアーン24:43.
11 The Purpose of Creation, Dr. A. A. B. philips, p. 49, Dar Al Fatah, Sharjah, UAE, 1995. クルアーン3:67,3:84も参照。
12 同上 p. 50.
13 2:170,10:19,31:21,43:23,49:6,53:23も参照。
14 参照:クルアーン111−112,10:63−64.
ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(4/4)
説明: 「ルーレットの類推」が、いかにこの元ラスベガス市民をムスリムにしたか。第四部:意味深長なビデオテープと、改宗への熟考。
- より ドナルド・W・フラッド
- 掲載日時 07 Oct 2013
- 編集日時 07 Oct 2013
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障害の克服
この時点で、私は8割方ムスリムになりたいと感じていましたが、何かがそれを妨げていました。それは、私がムスリムになったと知ったときの家族や友人たちの反応への心配でした。この懸念をあるムスリムに告げると、彼はこう教えてくれました。「審判の日、あなたの両親や友人たちは誰一人としてあなたを助けることは出来ない1のですよ。それゆえ、もしあなたがイスラームを真の宗教と信じているのなら、あなたはそれを受け入れ、あなたを創造した御方のご満悦を得るような生き方をしなければならないのです。」こうして、あらゆる魂は死を味わわねばならず、神への信仰や現世での行いについて責任を問われる2ため、私たちは皆、同じ境遇にあるのだということが明白になりました。
意味深長なビデオテープ
その時点で、私はイスラームを受け入れる直前まで来ていました。私は人生の目的について語る、あるイスラーム講座のビデオテープを見ました。この講座の主題は、人生の目的は「イスラーム(神の御意への帰依)」という一言で要約することが出来るというものでした。
別のポイントについては、イスラームは他宗教とは異なり、特定の人物や場所に結び付けられてはいない、というものでした。神はこの宗教を次の節によって命名されたのです。
“本当にアッラーの御許の教えは、イスラームである。”(クルアーン3:19)
イスラームを受け入れる者は、その人物の人種・性別・国籍などを問わず、誰であってもムスリムと呼ばれます。これが、イスラームが普遍的宗教である所以の一つなのです。
メディアによる継続的な偏向報道から、私は真実探求の前は、イスラームを選択肢の一つとしてさえ見なしていませんでした。同様に、イスラームはその特徴として高度な倫理規範を有しているものの、すべてのムスリムがそれに従っているとは限らないということも、このビデオテープによって明らかにされました。それは他宗教においても当てはまることです。人は誰一人として完全ではないため、その追従者によって宗教そのものを判断することは出来ないということを、私はようやく理解したのです。私たちはムスリムによってイスラームを判断すべきではなく、その啓示(聖クルアーン)と預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)のスンナによって判断すべきなのです。
この講座から学んだ別のこととして、感謝の重要性というものがあります。神はクルアーンの中で、私たちは自分たちが創造されたという事実について感謝すべきであることを言及します。
“神はあなたがたが何も知らない時、あなたがたを母の胎内から生まれさせ、聴覚や視覚や心(知能感情)をも授けられた。必ずあなたがたは、感謝するであろう。”(クルアーン16:78)
また神は信仰への謝意を表し、また人々を罰することによってかれ御自身は何を利益を得たりしないこと、および人々がかれを称賛したり、信じたりすることによっても何の利益も得たりしないことを明らかにしています。かれはクルアーンにおいてこう述べます。
“もしあなたがたが感謝して信仰するならば、神はどうしてあなたがたを処罰されようか。”(クルアーン4:147)
自ずと明らかになる真実
ビデオテープを見終わると、真実が明らかになったと直感しました。私の肩から巨大な罪の重荷が降りた感じがしました。また、私の魂が地上を離れ、永久の歓喜のために現世の束の間の喜びを拒否する感覚にとらわれました。この経験は、長かった理屈の過程と合わせて、「人生というパズル」を解いたのです。それはイスラームが真実であることを解明し、私の「精神的景観」を信仰、目的、方向性、そして行為によって満たしました。こうして私はムスリムになるために要求される信仰宣言「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダッラスールッラー(私は唯一なる神以外の神はなく、ムハンマドは神の使徒であることを証言する。)」をすることによって、イスラームの扉をくぐったのです。この儀礼的宣言は、すべての預言者・使徒たちへの信仰と共に、神のすべての(元来の形での)啓示への信仰を自ら確証するものであることから、それを通して最後の預言者(ムハンマド)と神の最終啓示(クルアーン)に対する信仰を更新し、自らの宗教を完成させるものだということを教わりました。また次の点は、私にとってとてつもなく明確なものとなりました。それはつまり、もしイエスが神の最後の預言者で、福音が最後の啓示だったのであれば、私はそれを証言したであろうということです。結果的には、私は自然と諸預言者の封緘なる者によって模範とされた、創造主の最終啓示を選んだのです。
新ムスリムの印象
真実探求の過程において、最も教訓となったこととしては、神以外の崇拝の対象はすべて虚偽に過ぎないものであるということでした。このことを明瞭に捉えることの出来る人にとって選択すべき唯一の道とは、自らの意思と行為を、創造主のそれと調和させることでしょう。神の御意に従うことは、私が創造主、他者、そして自分自身に対して安寧を感じることを可能とさせました。また、神のご慈悲によって無知の闇から救出され、真実という光の中に足を踏み入れることができたということに感謝せずにはいられなくなりました。あらゆる時と場所における真実の宗教であるイスラームは、人の現世における存在目的を満たすことのできるように導く、人生の完全なる規範であり、人が創造主へと戻りゆく日のための準備をさせるものです。この道に真摯に従うことは、神のご満悦と、楽園での神の元における永久なる悦楽、そして火獄における懲罰からの回避を可能とさせるのです。もう一つのボーナスとしては、そうした選択をすることにより、私たちの現世での日常生活がより幸福なものになることです。
虚偽の快楽
私はイスラームを受け入れることによって、人生の儚い性質についてのより深い見識を得ました。たとえば、イスラームの基本的目標の一つに、人類の解放があります。これが、ムスリムが自らを「アブドッラー(神のしもべ)」と呼ぶ理由です。なぜなら神への隷属は、その他すべてのものへの隷属からの解放を意味するからです。現代人は自らが解放されていると見なしていますが、現実には欲望のしもべとなり下がっています。そうした人物は、一般的に現世によって欺かれており、富・情欲・暴力・酒などの虜となっているのです。しかし何にもまして、人は即座に欲求を満たさなければならないと感じさせらる、偽の必要性に基づいた発明、資本主義制度によって支配されています。神はクルアーンにおいてこのように述べます。
“あなたは自分の思惑を、神として(思い込む)者を見たのか。あなたはかれらの守護者になるつもりなのか。それともかれらの多くは耳を傾け、または悟るとでも思っているのか。かれらは家畜のようなものに過ぎない。いや、それよりも道から迷っている。”(クルアーン25:43−44)
それゆえ、私たちは現世を楽しみたいという脆く儚い一時の情熱によって、来世での永遠なる祝福を危機に陥れてはなりません。神はクルアーンにおいて述べています。
“様々な欲望の追求は、人間の目には美しく見える。婦女、息子、莫大な金銀財宝、(血統の正しい)焼印を押した馬、家畜や田畑。これらは、現世の生活の楽しみである。だが神の御側こそは、最高の安息所である。言ってやるがいい。(ムハンマドよ)。「わたしはこれらよりも善いものを、あなたがたに告げようか。神を畏れる者たちには、主の御許に楽園があり、川が下を流れている。かれらはその中に永遠に住み、純潔な配偶を与えられ、神の御満悦を被るのである。」”(クルアーン3:14−15)
それゆえ、現世における真の競争とは、富の蓄積や名声の獲得などではなく、合法的な範囲内で現世を楽しみつつも、神を満悦させるための善行における切磋琢磨なのです3。
神への正しき道
人には多くの宗教的選択肢が提供されており、どれを選ぶかは人それぞれに委ねられています。人は、目の前に数々の商品を抱える商人の様であり、その中からどれを取り引きするかはその人の自由です。もちろん、誰しも最も利益が得られる物を選ぼうとするでしょう。しかし、商人は事前に確証を得ることが出来ず、繁栄の保証もありません。その商品は市場価値があるかも知れず、魅力的な利益を生み出すかも知れませんが、同時にすべてを損失としてしまう可能性も十分にあります。対照的に、神の唯一性を信仰する者は、神の御意に帰依し、導きの道(クルアーンと預言者ムハンマドのスンナ)に従うことが、間違いなく成功し、最終的な報奨があることを確信しています。幸いなことに、そうした成功は道の始まりから続くのです。
アブー・サイード・アル=フドリー(神のご満悦あれ)は、神の使徒がこう述べたと伝えています。「もしも、ある人物が真摯にイスラームを受け入れたのなら、神はその人物のすべての罪をお赦しになり、清算はその後の時点から始まるのです。その人物による善行の報奨は10倍から700倍にまで増加し、悪行に関しては神がお赦しにならなければ、そのままで記録されるだけなのです。」(ブハーリー)
エピローグ
真実探求の結果、私は神への信仰と行いによって、来世の行き先が決められるという結論に至りました。私たちの創造主は、私たちの状況に関わらず、審判の日に備えるための等しい機会を私たちに与えているのです。クルアーンは以下のように述べます。
“神と使徒に従いなさい。そうすればあなたがたは、慈悲を受けられるであろう。あなたがたの主の御赦しを得るため、競いなさい。天と地程の広い楽園に(入るために)。それは主を畏れる者のために、準備されている。”(クルアーン3:132−133)
もし私たちが真摯にイスラーム(神の御意への帰依)というこの世の真実を求めるのなら、神はそこへお導きになるのです。神は私たちを、人類にとっての最善の模範である預言者ムハンマドの人生とスンナへの調査に導きます。さらに、神は私たちをクルアーンの調査とその中のお言葉の熟考へと導きます。クルアーンは正に、現世での生活に浸り切っているために熟睡してしまっている者を呼び覚ますような、鋭い呼びかけであることが分かるでしょう。それは私たちを起こして周囲の観察を促し、考えさせ、神の存在とその計画、試練、清算、報奨、厳しい懲罰、そして永久なる祝福について認識させるのです。
この世界を生きるための最善の方法が、誠実なムスリムとしてあることだとは、明白なことです。イスラームが真実であるという結論に至れば、ムスリムになることを遅延すべきではありません。なぜなら、いつ来るか分からない死が訪れてしまえば、もう手遅れとなるからです4。
イスラームに改宗した数ヶ月後、私は米国人ムスリムが私に以前告げた、いかに人が生き、死ぬべきかについての、クルアーンからの二つの節を見つけ出しました。
“アブラハムは、このことをその子孫に伝え、ヤコブもまた(それにならった)。「わたしの子孫よ、神はあなたがたのために、この教えを選ばれた。だから必ずムスリム(服従、帰依者)となって死なねばならない。」”(クルアーン2:132)
“あなたがた信仰する者よ、十分な畏敬の念で神を畏れなさい。あなたがたはムスリムでなくして死んではならない。”(クルアーン3:102)
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