ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(2/4)
説明: 彼のキリスト教研究、そしてイエスは神の子であるという一般的な信仰について。
- より ドナルド・W・フラッド
- 掲載日時 30 Sep 2013
- 編集日時 30 Sep 2013
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私はキリスト教徒として育てられてきましたが、キリスト教に関しては混乱を感じており、興味はありませんでした。私は理解を超えた謎の宗教を受け継いだように感じていました。こうした理由によって名目上はキリスト教徒でしたが、実践はしていませんでした。さらに、キリスト教への懐疑心によって、私は無宗教の状態にあったと感じています。ともあれ、私は真実探求の一環として、両親から受け継いだ信仰を再検証することにしたのです。
ムスリムや非ムスリムによって制作された、キリスト教に関する小冊子・カセット・ビデオテープなどによって、驚くべきことに数百もの聖書中の矛盾する箇所について知りました。これらの資料が主張していたことは、神はイエス(神の慈悲と祝福あれ)以前から唯一なる存在であったということでした。イエス自身は唯一神への信仰を説いたのです。しかし、イエスの死後になり、キリスト教徒たちは唯一神への信仰ではなく、三位一体を強調するようになりました。またイエス以前、神は子を持たず、同位者も存在しませんでした。同様に、イエスは自らを神の使徒と名乗りましたが、キリスト教は彼の後になって彼が神の子であるとしたり、神自身であるとしたのです。
一神教に関しては、十戒の中の第一戒で、イエスは唯一神への信仰を明確にしています。“イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。”(マルコ12:29)1同様に、聖書の中にはイエスの神格性を否定する、無数の節が存在しています。例えば、イエスは自分で奇跡を行うことは出来ず、それは神の御意と許可によるものだということを認めています2。興味深いことに、聖書ではイエスが祈ったと述べられています3。私はこう自問しました。「なぜイエスは神でありながら、神に祈ったりするのだろうか?」神が神へ祈るということは矛盾となります。それに加え、イエスは彼の教えが自分自らのものではなく、神によるものだと述べています4。必然的に、彼の言葉が彼自身のものではないのなら、彼は神によって彼以前(とそれ以降)の者たち同様、啓示を受けている預言者であるということになります。さらにイエスは、彼が神によって教えられたことを行っているのだと認めています5。私は再び自問しました。「なぜイエスは教えられていながらにして、神であることが出来るのだろうか?」私はムスリムたちとの議論から、彼らはイエスが命じた唯一なる神への信仰に同意していることを発見しました。クルアーンでは次のように述べられています。“かれは神、唯一なる御方であられる。”(クルアーン112:1)
私はまた、聖書の中でイエスを神の預言者として言及している節の数々にも驚きました7。同様に、私はイエスのイスラーム的観点を学び、それはイエスを預言者であり神の使徒であるとするものでした。クルアーンにおいて神はこう述べます。
“マリアの子メシアは、一人の使徒に過ぎない。かれの以前にも使徒たちがあって、逝ったのである。かれの母は誠実な婦人であった。そしてかれら両人は食べ物を食べていた。見よ、われは如何にかれらに印を明示したかを。また見よ、如何にかれら(不信者)が迷い去るかを。”(クルアーン5:75)
キリスト教におけるもう一つの一般的な信条に、イエスを神の子とするものがあります。
聖書によると、神の預言者や聖人を「神の子」と呼ぶことは慣習的なものであったとされています。しかしイエスは自分のことを「神」でも逐語的な「神の子」でもなく、「人の子」と名乗っていました8。どうやら、イエスの教えがねじ曲げられ、彼が神の子としての地位に祭り上げられたのは、パウロに責任があるようです9。
それだけでなく、イエスは(ヨハネ3:16で述べられるような)“生まれた”神の子でもなかったようです。その語句は改訂標準訳聖書(RSV)から除外されたためです。さらに、神はクルアーンの中で、神は子をもうけることはないと強調しています10。しかし、神はアダムとイエスを創造したことも宣言しています。“イエスは神の御許では、丁度アダムと同じである。かれが泥でかれ(アダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”(クルアーン3:59)
こうした修正よりも以前に、皇帝や聖職者たちはイエスの言行に反した歪曲を繰り返して来ました。それらの中には、イエスが三位の神(父、子、聖霊)のうちの一体であるとする、三位一体論が含まれます11。こうした概念は、イエスとその弟子たち、また初期キリスト教学者たちによって一度も公言されたことはなかったにも関わらず、聖書においてこの節は三位一体論における決定的根拠であるとされます。しかし三位一体論というものは、実際には西暦325年のニケア公会議において、キリスト教徒たちによる盛大な議論の末に、教会の公式教義として可決されたものなのです。興味深いことに、この節は近代の聖書においては削除されてしまっています。加えてクルアーンでは、ユダヤ教徒とキリスト教徒に対し、神の啓示を拒絶しないよう、そして三位一体を信じないよう警告しています。
キリスト教で議論を引き起こしている分野には「原罪」、そしてイエスの十字架への「はりつけを通しての救済」というものがあります。彼らによると、イエス以前には原罪という教義は存在しませんでしたが、イエス後にそれは創り出されました。さらに、イエス以前には神への帰依によって救済が得られていたにも関わらず、イエス後になってイエスのはりつけを通して救済が得られるようになったというのです。
キリスト教においての原罪という教義は、イエスのはりつけを通した救済を正当化するものです。しかしながら、こうした教義は旧約聖書において強く否定されていることを私は発見したのです13。この概念は、あたかも審判の日、その信奉者が神の御前において責任逃れをするために設計されたかのようです14。イエス自身は、人は神への服従と帰依によって救済されると言っていたという事実に、私は着目しました15。クルアーンではそれと同じように、すべての魂は自らが稼いだものによって報われると述べられています16。しかし、キリスト教ではこの元来の教えが歪曲され、救済はイエスのはりつけを通してのものであるとされるようになったのです17。
「はりつけを通しての救済」論は、イエスが自らを犠牲として捧げることによって人類を救うという概念です。しかし、もし本当にそうなのであれば、なぜイエスは兵士たちが彼を拿捕する前、神に助けを祈ったりしたのでしょうか?(“父よ、わたしをこの時から救ってください”〔ヨハネ12:27〕)同様に、なぜ聖書はイエスが十字架で、神に助けを懇願して叫んだと記述しているのでしょう?(“わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか”〔マタイ27:46〕)さらに、イスラエル人に対してのみ遣わされたイエスが、なぜ人類全体の救済のためにはりつけにされなければならなかったのでしょうか18? これらは明白な矛盾なのです。
クルアーンでは、彼は実際にははりつけにはされず、はりつけにされたのは彼に似た人物だったと述べています19。もしそうなのであれば、はりつけの後、彼が弟子たちの前に現れたことも説明出来るようになります。もし彼が十字架で死んだのであれば、弟子の前に現れたのは彼の霊的な身体だったということになりますが、ルカ24:36−43によって示されているように、はりつけと主張される出来事の後、イエスは霊的でなく物理的な身体で彼らに会ったのです。このようにして、私はパウロがイエスの復活論を説き始めたことを学んだのです20。またパウロは、復活論は彼自身の宣べ伝える福音であることを認めてさえいるのです21。
私は、パウロと彼の信奉者たちが、ユダヤ教徒たちがイエスの教えを拒絶したことに不満をもったため、異邦人へと布教を拡大したことを示す多くの典拠を見つけました。彼らは多神教や偶像崇拝が広まっていた南ヨーロッパへと行き、ローマ人やギリシャ人の当時の伝統や好みに合わせるかのように、イエスの教えを次第に改変して行きました22。聖書はその教えや情報が追加・削除されることに対し警告を発していたにも関わらず、それは実際に起きてしまったのです23。神はこのことについて、クルアーンの中でも述べています。“災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、「これは神から下ったものだ。」と言う者に。かれらに災いあれ、その手が記したもののために。かれらに災いあれ、それによって利益を得たために。”(2:79)
Footnotes:
1 参照:民数記23:19,申命記6:4,13,マタイ4:10,22:36−38,23:9−10,マルコ10:18,ルカ4:8.
2 参照:マタイ12:28,ルカ11:20,ヨハネ3:2,5:30,使徒行伝2:22.
3 参照:ヨハネ7:16,12:49,14:24,31.
4 参照:ヨハネ7:16,12:49,14:24,31.
5 参照:ヨハネ8:28.
7 参照:マタイ13:57,21:11,45−46,マタイ6:4,ルカ4:43,13:33,24:19,ヘブライ人3:1.
8 参照:マタイ13:37,ルカ12:10,テモテ一2:5.
9 参照:使徒行伝9:20.
10 参照:19:88−92.
11 参照:ヨハネの手紙一5:7.
13 参照:エゼキエル18:20,エレミア31:30.
14 参照:エペソ人1:7,ローマ人3:22−26,4:25,10:9.
15 参照:マタイ5:19−20,6:4,7:21,19:17.
16 参照:3:25,41:46,74:38.
17 参照:ローマ人3:28,ヨハネの手紙一2:1−2.
18 参照:マタイ10:5−6,15:24.
19 参照:4:157−158.
20 参照:ローマ人5:10−11,使徒行伝17:17−18.
21 参照テモテ二2:8.
22 参照:コリント一9:19−23.
23 参照:ヨハネの黙示録22:18−19.
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