ドナルド・W・フラッド/米国人の元キリスト教徒(1/4)

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説明: 「ルーレットの類推」が、いかにこの元ラスベガス市民をムスリムにしたか。第一部:「人生パズルの目的」の断片を集めること。

  • より ドナルド・W・フラッド
  • 掲載日時 30 Sep 2013
  • 編集日時 30 Sep 2013
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Donald_W._Flood__Ex-Christian__USA_(part_1_of_4)_001.jpg私はかつて、自分の育ちは良質な人生を提供しているのだと思っていました。私は肉体的にも精神的にも満足していたからです。私は青年として、快楽主義的な面はあったものの、一般的な米国人の人生を歩んできました。私は音楽やパーティー、女性、スポーツ、旅行、外国の食べ物や言語が好きでした。しかしながら、ある時私は「精神的破綻」を感じるポイントに到達し、自らにこう問い質しました。「これから、どうするつもりなのだ?」そしてこう思ったのです。「人生には、こんな生活よりも良いことがきっとあるはずだ。」この認識は、私が多岐に渡る分野から真実の探索を開始する原動力となったのです。

私は自分が精神的に満たされない思いを抱いていたのは、衝動的な行動様式と、性急に満足感を得ようとする米国のライフスタイルに原因があるのだと仮定しました。それゆえ、より良い地理的環境に答えがあるのかも知れないと考え、完璧な風土を探し始めました。様々な場所に旅してみると、私は自分が探していたのは完璧な風土ではなく、最も最適な形で人生へのアプローチを試みる特定の文化であることを発見しました。そして私が最も魅力的な文化だと見なしていたものにも、欠点があることに気付きました。その後、私は人々の生活様式について学び、そこから最善のものを選ぶべきだと推測しました。これがおそらく、私が真理を求める旅を始めるきっかけとなったものでした。

世界市民としての人生を実践することの出来なかった私は、秘教的な物事に惹かれていたせいもあって、形而上学の書物を読み始めることにしました。私はすぐに、すべての物事は、自らの利益として用いることの出来る普遍的な法に従って作用していることを学びました。この分野の多くの書物を読んだ私は、それらの法よりも重要なのは、それらを創った者、すなわち神であるという結論に達しました。また、形而上学は脆い道であることに気付き、その分野におけるそれ以上の追求を止めました。

親しい友人の提案で、私たちは人生の目的を発見するという意図で、米国全土とカナダ西部の3ヶ月間のキャンプ旅行に出ました。私たちは大自然の驚異を目撃し、この世界は偶然によって生まれたのではなく、創造主の存在を暗示するしるしに満ちたものであることを確信しました。それゆえ、この旅は私の神への信仰を確固たるものとしました。

家に帰ると、慌ただしい都市生活に嫌気が差したため、そこからの解放を求めて瞑想をするようになりました。瞑想テクニックによって内的な平安を見つける事は出来ましたが、そうした安寧の気持ちは一時的なものでした。ひとたび立ち上がれば、その感覚を持ち歩くことは出来なかったのです。同様に、瞑想を定期的に続けることには困難を見出したため、それに対しては徐々に興味を失っていきました。

私はやがて、真実とは自己修養に潜んでいるのではないかと考えだしました。それゆえ啓蒙書を読み漁り、関連する講座に出席したりもしました。さらに、米国陸軍のテレビコマーシャルのスローガンである「Be all you can be(なれるもの全てになろう)」に触発され、スカイダイビングや格闘技などに挑戦しました。読書やチャレンジ精神によって、私は自信を持つようにはなりましたが、実際にはまだ真実を見つけ出してはいませんでした。

しばらくすると、様々な哲学書を読むようになりました。そこからは多くの興味深い概念や実践法を見出しはしましたが、私が完全に合意出来るような特定の哲学を発見することは出来ませんでした。それゆえ、私はそれらの教理から最善と思われるものを統合しました。それは、論理的態度の重要性を強調した、ある種の「選り好み宗教」でした。しかし、良き論理そのものの良さは認める一方、それは人生のより精神的なアプローチである「人生というパズルの目的」の解明には不十分であるという結論に至りました。

その後すぐ、私はムスリムの国で仕事を見つけ、有り余った時間で読書したり、人生について考えたりしていました。真実の探求を続けるかたわら、神への悔悟を勧めるくだりをある本の中で見つけました。私はそれを実践するようになると、人生の中で悪いことをしてしまった人々に対する自責の念を感じて、頬から涙がこぼれ落ちる程でした。

数日後、私は何人かのムスリムの友人たちと会話の場を持ちました。私は彼らの国よりも、米国に居たときの方がより多くの自由があったことに言及しました。すると彼らの一人が言いました。「それは、君が何を『自由』だと言っているかよって変わってくるよ。君が住んでいる世界では、家庭で両親がいかに子供に倫理を教えても、一歩外に出るとその倫理とは矛盾するものを見つけることが出来る。一方で、大半のムスリムコミュニティでは、家庭で教えられている倫理と社会で見出すことの出来るものは非常に似通ったものだ。だから、本当に自由があるのはどちらなんだろうね?」彼によるこうした類推から、私はイスラーム的指針や規制とは、人の行動をがんじがらめにし、自由を抑圧することを目的とされたのではなく、人間の自由を定義し、それに尊厳を与えるものなのではないかと推測したのです。

ムスリムの友人たちから夕食に招待されたとき、イスラームについてさらに知る機会がありました。私が中東に来る前、ラスベガスに住んでいたことを彼らに言うと、米国出身のムスリムがこう言いました。「君は良きムスリムとして人生を終えられるよう、努力しなければならない。」私は直ちに、それが何を意味するのか彼に尋ねました。彼はこう言いました。「君が非ムスリムとして死ぬのなら、それは君が手持ちの全てのチップをたった一つの番号に賭け、あわよくば審判の日、神がそのご慈悲から君を天国に入れてもらえるよう期待する、ルーレットのようなものだ。反対に、君が良きムスリムとして死ぬのなら、それはルーレット盤のすべての番号にチップを賭けることであり、球がどの番号で止まろうが君は安心していられる。言い換えれば、良きムスリムとして生き死にすることは、地獄に落ちないための最善の保険であると同時に、天国に入るための最善の投資なんだよ。」私は元ラスベガス市民として、この強烈な例えを直ちに理解することが出来ました。

この時点で、私は神がその諸預言者や諸使徒に下した啓示についての諸宗教に集中してみない限り、真実を見出すことは出来ないだろうと考えるようになりました。それゆえ、私はキリスト教とイスラームを通した真実探求を敢行することに決めたのです。

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