イスラームにおける悲しみの対処(1/5)
説明: なぜ悪いことは起こるのでしょうか? クルアーン的観点から見ていきます。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 05 Aug 2013
- 編集日時 09 Jun 2014
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戦争、飢饉、苦しみ。新聞が、世界中で起きている悲惨な出来事を報道しない日はありません。個人レベルにおいても、多くの人々は毎日の生活の中で悲しみと憂鬱を抱えて生きています。愛する人の死、経済的苦境、夫婦間の確執。なぜ神は人々に悪いことをお望みになるのでしょうか? この命題は、多くの宗教の信仰者たちが何百年にも渡って抱き続けてきたものです。これは信仰に対する最も大きな障害の一つであり、それにより数え切れない程の人々が神への信仰を完全に捨て去ることにつながりました。
有神論者たちは様々な方法で、神と悪との融合を試みてきました。ある多神教徒たちは、神は悪を嫌うものの、それを防ぐ力を持たないと主張しました。この概念は、神の地位が全能者(アル=アズィーズ)、至大者(アル=ジャッバール)、至強者(アル=カウィー)、万能者(アル=カディール)であるとするクルアーンによって否定されています。また一部の者たちは、神が悪を取り除く力を持ちつつも、悪がいつどこで起きるかを知らないとします。この概念は、火事によって建物の大半が延焼してしまった後にやってくる消防士のような地位に神を貶め、全知者(アル=アリーム)、全視者(アル=バスィール)、全聴者(アッ=サミーウ)、支配者(アル=マリク)としてクルアーンにおいて神の名は記されていることからも、到底受け入れられる主張ではありません。事実、もし神が地上のすべての悪を取り除こうと思われたのであれば、それを阻むものは何一つなく、神の御力に疑心を抱くことは冒涜であるとみなされます。
多神教は、更なる仮説を採用します。それは神は善良ながらも、他の悪い神々が神の善性を抑え、地上に腐敗を蔓延させている、というものです。それゆえ神は、それらの神々との抗争を強いられているとします。おそらくサタンが対抗の神で、神と常に争う地位にあるとしているのでしょう。この複数の神の概念は、クルアーンにおいて完全に否定されています。クルアーンでは神のことを、唯一なる御方(アル=ワーヒド)、唯一無二の者(アル=アハド)、第一の者(アル=アウワル)、最後の者(アル=アーヒル)と呼びます。クルアーンは唯一なる神の他に神はないと強調します。
“あなたがたの神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン2:163)
これと同じような1,000以上の節々によって、複数の神を信じることは不可能となっています。究極の神とは、まさに唯一無二なのです。
古代グノーシス派は、世界の悪と神との関係性に困難を見出すあまり、神そのものが悪であるとさえ結論付けしました。この主張をする人々は、神が全能であるのと同時に慈愛あまねき者であることは不可能だとします。もし神にすべての悪を取り除くことが出来るのに関わらずそうしないのであれば、かれは悪である必要があるというのです。この概念はクルアーンにおいて無条件に否定されます。クルアーンでは、神が寵愛する者(アル=ワドゥード)、最も優しい者(アル=バッル)、最も寛大な者(アル=カリーム)であると宣言します。またクルアーンでは、神が慈愛深き者(アッ=ラヒーム)、慈悲あまねき者(アッ=ラフマーン)、最も寛容な者(アル=ガッファール)、絶えず恩寵を施す主(ズー・アル=ファドル・アル=アズィーム)、そして平安と安定の究極の源泉(アッ=サラーム)であると言及しています。
このように、クルアーンは神が全能かつ寵愛する者であると断言しています。では、この世界に悪が蔓延していることから、それら2つの性質はどのように調和するのでしょうか? イスラーム的観点では、神はより大きな善を達成するために悪の発生を引き起こすとします。神がそのしもべを苦しめるのは、かれの望むような人物像に人々を形成するためです。苦しみによって、人々は永続する性質を養います。それは逆境における確固とした忍耐、そして謙虚な心と従順性です。また、より重要なこととして、苦しみは人々を神へと立ち向かせます。それは真の信仰者と偽者とをふるいにかけ、識別するのです。
人は苦しみによって神を想念する
人間には、物事が順調なときには神を忘れ、苦境や災難に見舞われたときには神を思い起こす傾向があります。クルアーンでは、それが船乗りに譬えられます。順風満帆のとき、乗組員たちは神を想念しませんが、風が船を転覆させようとするものなら、彼らは急に神へと真摯に祈り出すのです。クルアーンはこう述べます。
“主こそは船をあなたがたのため海に航行させ、かれの恩恵を求めさせる方である。本当にかれは、あなたがたに対しいつも慈悲深くあられる。あなたがたが海上で災難にあうと、かれ以外にあなたがたが祈るものは見捨てる。だがかれが陸に救って下さると、あなたがたは背き去る。人間はいつも恩を忘れる。”(クルアーン17:66−67)
このたとえは、私たちの日常生活においても適用することが出来ます。人は経済的に豊かだと神を忘れがちですが、仕事を解雇されたりすれば、たちまち神の助けを求めるようになります。預言者ムハンマドが神の教えを布教したとき、彼に従った多くは貧者や奴隷たちでした。一方で、マッカの裕福層は信仰とはかけ離れた生活を続けました。俳優、歌手などの有名人を含む富裕層も、不信心な暮らしをすることで知られています。貧しく困窮した人々は、より神へと依存するのです。このことは、困窮が必ずしも悪いことではなく、また裕福であることも必ずしも善いことではないことを意味します。神はクルアーンの中でこう述べます。
“自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。”(クルアーン2:216)
これらのことは、人の心理状態に関わることです。人は幸運に恵まれると神を忘れ、不遇の中では神を思い起こします。そのため、神は試練や苦難によって私たちを苦しめ、私たちがかれに立ち返り、かれの恩寵を求めさせるのです。一体どれ程の人々が苦しみの上に苦しみを重ねられた後、神に立ち返り、イスラームに導かれたことでしょうか? 例えば、良い意図を持った政治家が、ひとたび権力に着くと、制度によって腐敗してしまう場合があります。やがて彼は賄賂の受け渡しをするようになり、裕福な政治家として贅沢三昧で不信仰な生活を送るようになります。そして神により、彼は突然逮捕され、すべての富を失い、妻にも去られ、彼は獄中でもがき苦しみます。自らの損得について熟考した彼は、最終的に神へと立ち返るのです。こうして、より大きな善いことが彼にもたらされるため、悪いことが起きたのです。彼は成功していたかに見えましたが、実際は地獄に向かっており、神が彼を困難によって苦しめたとき、彼は正しい道を歩み始めました。獄中での一時の苦しみは、永久の楽園に対して支払う僅かな代償に過ぎなかったのです。結論として、善良な人々に悪いことが起きるのは、長期的な視点からは、より善いことがもたらされるための神の計らいなのです。
イスラームにおける悲しみの対処(2/5)
説明: 苦しみは、自らを清める手段であること。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 12 Aug 2013
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苦しみによってもたらされるもう一つの益には、魂の浄化があります。預言者ムハンマドはこう述べています。
“私の魂がその御手にある御方(神のこと)にかけて。いかなる信仰者も、それによって彼の一部の罪が赦されることなしに、疲労、消耗、悩み、悲しみに見舞われることはないのだ。たとえそれがとげの刺さる痛みでも。”(ムスナド・アフマド)
一部の人は、悲しみを感じたときに胸焼けのようなものを感じます。それは物理学的には、不安とストレスによる胃食道逆流症とされるかも知れませんが、心が灼熱のかまどのように罪を焼き払う象徴でもあるのです。信仰者が苦しみにあえぐ時、神はそのご慈悲として彼の罪を一部を赦してくれます。その結果、彼は来世においてそれらの罪の懲罰を受けずに済み、楽園へと一歩近づくのです。
おそらく懐疑論者たちは、なぜ神がそのしもべたちを現世と来世で苦しめることなく、ただ単に赦すことをしないのかと思いを巡らせることでしょう。それに対する返答としては、「しもべが懺悔し、神の慈悲とお赦しを求めるのであれば、神は実際にありとあらゆる罪をお赦しになる」というものがあります。そのような人物が赦しを求めて神に立ち返るのであれば、神はいかなる懲罰や報いもなしにお赦しになるでしょう。神はその罪があたかも犯されなかったかのように、その人物を赦します。預言者ムハンマドによると、誰であれ赦しを求めて神に立ち返る者は、「それら(の罪)が海に浮かぶ水泡のように無数で、砂粒のように多く、山のように重く、雨の滴や、すべての木の葉のような数であったとしても、赦されるのである。」とされています。
神は赦しを求める者を赦しますが、それは神に悔悟し、かれへの不従順を後悔して涙を流す謙虚な信仰者を神が愛でるからです。クルアーンはこのように述べます。
“誠にアッラーは、悔悟して不断に(かれに)帰る者を愛でられ…”(クルアーン2:222)
では、罪を犯しながらも決して赦しをを求めないような者たちは、どうなるのでしょう? また、それを止めようともせずに、罪を犯し続ける者たちはどうなるのでしょうか? 神が罪に対する懲罰を与えないことはありません。なぜなら、それは人々が無頓着かつ邪悪となることにつながるからです。それらの罪人たちに対する懲罰の施行は、父親が息子にとって有益になるため行うのと同様、彼ら自身にとって有益なものなのです。例えば、6歳児が電源コンセントに指を突っ込んだとしましょう。その父親は、子供が感電することをおそれて彼を罰します。たとえ反抗的な子供自身は、その懲罰が父の愛情と配慮によるものであることを理解するには幼すぎたとしても、親は子供の利益だけのために、懲罰を与えるのです。子供が指をコンセントに入れると、感電するのは父親ではなく、子供自身なのです。同様に、私たちが罪を犯せば、損失を被るのは私達自身であり、神の栄光には何の影響もありません。それゆえ現世における懲罰は手段なのであり、結末ではないのです。懲罰の目的は罰そのものではなく、その強い抑止力なのです。
もし父親が子供を甘やかしすぎ、電源コンセントに手を入れても何も言わないようであれば、子供は自分の行いの重大さを理解出来ないでしょう。その子はコンセントに手を入れ続けて、いずれ感電死してしまうかもしれません。同様に、神がそのしもべに苦難を与えなければ、彼らは決して自分たちの罪深さに気付かず、精神の死に到達してしまいます。例えば浮気性の夫は、自らの無思慮がやがては家庭崩壊につながるであろうことに気付かないかも知れず、ギャンブル中毒者は自らの中毒が破産につながることに気付かないかも知れず、アルコール中毒者はその酒癖が悲惨で空虚な人生の原因となっていることに気付かないかも知れないのです。それゆえ、神はそういった人々に懲罰を与えることによって、彼らの罪を贖うだけでなく、そうした有害な生き方に警告し、目を覚まさせるのです。
また、麻薬を使ってもお咎めなしの両親を持つ子供について考えてみてください。それは教育放棄であるだけでなく、叱ってくれる対象を持たない子供が自らを傷つけ続ける結果につながります。それゆえ、責任ある両親は、子供が悪いことをすると外出禁止の罰を与えるような一定のガイドラインを子供に設けます。これは、懲罰を怖れる子供が悪いことをしない抑止力となるのです。同様に、地獄の創造は、それが懲罰でありながら、人類への慈悲でもあります。それによる脅威を通して、神が善いものを創るのです。地獄という懲罰によってしもべを怖れさせることによって、人々は神を怖れ、神に従い、そして精神性を育み、誠実となり、導かれます。それは神を益しませんが、人々を益することです。神はそれを必要としませんが、人々はその生活の中で神を必要としているのです。
神は、人々に地獄という災いを決定付ける前に、多くのチャンスを与えます。それはスピード違反の運転手を捕まえる警察官に例えることが出来るでしょう。初めて運転手がスピード違反を犯したとき、警察官は単に警告を与えます。2回目には罰金が50ドル、そして3回目になるとそれは一気に300ドルにまで跳ね上がります。4回目にもなると地域奉仕活動が課せられ、その次には免許停止となります。警察官は自分のために運転手を捕まえているのではなく、事故と怪我を防ぐため、つまり運転手自身の利益のためにそうしたのです。それは神の手法に似ています。神は現世において人々に小規模な懲罰を与えることにより、彼らが自らの間違いに気付くようにするのです。言い換えると、神が善良な人々に災難をもたらすのは、彼らの罪に懲罰を与え、その懲罰によって彼らが現世の内に自らの過ちを正し、来世の懲罰を避けさせるためです。運転手は牢獄に収監されるよりは、50ドルの罰金の支払いを選ぶでしょう。それと同じように、信仰者は来世で地獄に落とされるよりは、現世における懲罰を選ぶのです。
その意味するところは、信仰者はある種の災難に見舞われたとき、自らの罪が赦されたという事実について安心すべきだということです。人は、最も公正な者である神が、あらゆる苦痛と悲しみへの代償を与えることを知るべきなのです。預言者ムハンマドによると、刺のちくりとする小さな痛みでさえ、神はそれを罪への償いとするのです。苦難の中にいる信仰者は、神に対して恩知らずであってはならず、神の公平さを疑問視してもなりません。なぜなら神は来世においてあらゆる者にその代償を与えるからです。それは人類に対する神の約束なのです。試練や苦難に心を悩ます信仰者は、自分が神に選ばれており、地獄での懲罰ではなく、現世における浄化こそが、神の愛情から来ているのだという事実を肝に銘じなければなりません。
イスラームにおける悲しみの対処(3/5)
説明: 信仰者は逆境において試みられること。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 19 Aug 2013
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神が人々に試練と苦難をもたらすもう一つの理由は、人々を試みるためです。クルアーンはこのように述べます。
“人びとは、「わたしたちは信じます。」と言いさえすれば、試みられることはなく、放って置かれると考えるのか。”(クルアーン29:2)
この概念は、結婚の類推によって明確に理解することが出来ます。一人の男性は、順境においては妻を愛し、忠実であり続けるかも知れませんが、ひとたび逆境となると妻から離れ去るかも知れません。例えば、その女性が若く美しければ彼は彼女を熱愛しますが、彼女が病気になって外面的に美しくなくなれば、彼は彼女から立ち去るでしょう。このことは、彼が彼女を真には愛していなかったことを示します。同様に、人は順境だけでなく逆境においても神を愛し、かれに従順でなければならないのです。偽善者たちは天気が良ければ神の道へと招きますが、嵐がやって来ればすぐさま神への信仰を捨て去ります。
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)の時代には、そうすることが彼らにとって有益だったため、多くの偽善者たちがイスラームに改宗しました。それにより、彼らはイスラーム政権において有力な地位を確保することが出来たのです。しかし状況が暗転すると、彼らは信仰表明をしていたにも関わらず、たちまち不信仰をあらわにしました。強力な敵がイスラーム国家の存続を脅かすと、偽善者たちは信仰を棄てたのです。イスラームの敵は、初期のムスリムたちを迫害・虐待して村八分にし、一部を殺害さえしました。これは真の信仰者と偽者とを区別しました。真の信仰者たちは、深刻な逆境の中でも神を信頼したのです。このように、神は真の信仰者と偽善者とを判別するために人々を試みます。神はこう述べます。
“人びとは、「わたしたちは信じます。」と言いさえすれば、試みられることはなく、放って置かれると考えるのか。本当にわれは、かれら以前の者も試みている。アッラーは、誠実な者を必ず知り、また虚言の徒をも必ず知っておられる。”(クルアーン29:2−3)
この概念は、クルアーンの複数の節々において繰り返されています。
“アッラーは、信者たちの善い者の中から悪い者を区別されるまでは、決してかれらを今の状態で放置されないであろう。”(クルアーン3:179)
神の使徒は、ムスリムになれば成功がもたらされることを、その追従者たちに約束しました。強力な敵がムスリム軍を圧倒したとき、偽善者たちは使徒の約束に疑問を呈しはじめました。それだけでなく、彼らは神の全能性をも疑ったのです。クルアーンはこう述べます。
“見るがいい。かれら(敵軍)は、あなたがたの上からまた下から襲って来た。その時目は霞み、心臓は喉もとまで届いて、あなたがたはアッラーに就いて、色々と(悪い)想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺に揺さぶられた。その時、偽信者や心に病の宿っている者たちは、「アッラーとその使徒は、只欺いてわたしたちに約束したのです。」と言った。”(クルアーン33:10−12)
この事件は、偽善者たちにその不信仰をあらわにさせましたが、真の信仰者たちの信仰心をより確固なものとしました。クルアーンはこう述べます。
“信者たちは、部族連合の軍勢を見た時…かれらの信心と服従、帰依の念を、嫌が上にも深めた。”(クルアーン33:22)
このように、神は試練にかけることにより、人々の真偽を区別させるのです。何事であれ、試験にかけて確認しないことにはその価値は判別しません。自動車製造業者は、自動車の速度・衝突試験をすることによって安全性や耐久性を確認します。同様に、神はその被造物を試み、彼らがいかなる信仰を持つか、また彼らが衝突した際はいかなる反応をみせるかを確認するのです。神はこう述べます。
“われはあなたがたの中、努力し、耐え忍ぶ者たちを区別するためにあなたがたを試みる。またあなたがたの言行をも確める。”(クルアーン47:31)
逆境や苦難は、現実には神の慈悲なのです。なぜなら、それは神に対して忍耐強く、忠実であることによって信仰者たちに善行を稼ぐ機会を与えるからです。神が彼らに課した試験に合格することで、それらの信仰者たちは楽園への道を開かれます。神はこう述べます。
“それともあなたがたは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような(試みが)まだ訪れない先に(至上の幸福の)園に入ろうと考えるのか。”(クルアーン2:214)
人は様々な試練や苦難によって試されます。貧困、飢餓、恐怖などは、すべて神による試験の一形態です。愛する人の死もその一つです。感謝しないしもべが愛する人を亡くすと、神に挑戦的な態度をとり、どうしてそのようなことをしたのかと辛辣になります。しかし、感謝するしもべは忍耐強くい続け、完全に神を信頼するのです。このようにして、神は人々の真贋を区別します。神は述べます。
“われは、恐れや飢え、と共に財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。災難に遭うと、「本当にわたしたちは、アッラーのもの。かれの御許にわたしたちは帰ります。」と言う者、このような者の上にこそ主からの祝福と御恵みは下り、またかれらは、正しく導かれる。”(クルアーン2:155−157)
神は必ずしも苦難によって試みるとは限りません。神による試練は、祝福、富、健康、子女、家族などの形態を取ることもあります。それらの祝福に対して人々が取る行動は、実に大いなる試練なのです。著名人や裕福な人々は財産や名声、物質的な豊かさを与えられてはいますが、彼らは神に対する感謝の心を見せず、罪深くよこしまな生活をしています。神はこう述べます。
“あなたがたの財産と子女とは一つの試みであり、またアッラーはあなたがたへの最高の報奨を持つ方であることを知れ。”(クルアーン8:28)
それゆえ、神は苦難と祝福の双方によって私たちを試みることが分かります。しかし、試練の種類がどうであれ、神に感謝し続ける者たちこそが信仰者なのです。クルアーンは述べます。
“あなたがたは、財産や生活などに就いて必ず試みにあう。そしてあなたがた以前に啓典を下された者からも、多神教徒からも、多くの悪口を聞かされるであろう。だがあなたがたが耐え忍んで主を畏れるならば、本当にそれは、物事を決断し成し遂げることになる。”(クルアーン3:186)
結論として、信仰者に降りかかる苦難の中には、たとえ最初はそう見えなくとも、多くの善があることを知るべきなのです。苦しみを通して罪は贖われ、魂は浄化されます。試練を通して神への忠誠心が試みられ、それにおいて確固たる者たちだけが成功するのです。これらの者たちに、現世と来世のいずれか、または双方において神は報奨します。神はこう述べます。
“だがよく耐え忍ぶ者たちの外には、それは成し遂げられないであろう。格別幸運な者たちの外には、それを成し遂げられないのである。”(クルアーン41:35)
イスラームにおける悲しみの対処(4/5)
説明: 試練を受ける者は、正しい者たちの仲間です。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 26 Aug 2013
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災難が降りかかったとき、私たちは自らが誠実な神のしもべと同じ境遇にあることに誇りを持つべきです。預言者たちは皆、試練にかけられました。預言者アブラハム、そして彼の子(二人に神の称賛あれ)は、これ以上ない程の過酷な試練にかけられました。神はアブラハムに、息子のイシュマエルを犠牲に捧げるよう命じました。もちろん、この命令は預言者アブラハムにとって極めて困難なもので、愛する息子を失うことを想像するだけでも、とても悲しいことでした。しかし、預言者アブラハムは忍耐強く、神への服従を貫き通しました。彼だけではなく、イシュマエルも同様に従順し、自らを犠牲のために差し出したのです。
神が預言者アブラハムにもたらした試練は、彼の決意を試すためのものでした。もしも預言者アブラハムと彼の息子の信仰が弱ければ、この過酷な試練に落第し、神への強い信仰と従順に対しての偉大なる報奨を受け取ることもなかったでしょう。預言者アブラハムが息子に手を下す直前、羊が現れ、神は息子の代わりにそれを犠牲に捧げるよう命じます。その報奨として、彼らを地上における指導者として擁立することを神は約束しました。神は預言者アブラハムと彼の息子にこう述べます。
“そこでかれら両人は(命令に)服して、かれ(子供)が額を(地に付け)うつ伏せになった時、われは告げた。「イブラーヒーム(アブラハム)よ。あなたは確かにあの夢を実践した。本当にわれは、このように正しい行いをする者に報いる。これは明らかに試みであった。」”(クルアーン37:103−106)
クルアーンはこのようにも述べます。
“またイブラーヒームが、ある御言葉で主から試みられ、かれがそれを果たした時を思い起せ。「われはあなたを、人びとの導師としよう。」と主は仰せられた。”(クルアーン2:124)
預言者アブラハムが息子を犠牲に捧げるよう命じられた際、彼がためらったであろうことは疑いありませんが、彼は全能なる神への従順を貫きました。人が嫌うことの中には、善きこともあるのです。神はこう述べます。
“自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。”(クルアーン2:216)
もう一つの例として、預言者ヨセフ(神の慈悲と祝福あれ)のものがあります。クルアーンは、彼がその人生の中で直面した試練と苦難の詳細を多く述べています。彼の父は、彼をこよなく愛しましたが、そのことは彼の兄たちを酷く嫉妬させました。彼らは共謀してヨセフを深い井戸の底に突き落としました。キャラバンが井戸を通りがかったとき、彼らの内の一人が桶を垂らすと、こう言いました。「吉報だ!男の子がいるぞ!」そして彼らはヨセフをエジプトまで連れて行き、奴隷市場に売り払ったのです。エジプト知事が彼を買い取り、ヨセフは彼のもとで精を出して働きました。知事のもとでは、試練が過酷さを増しました。知事の妻は非常に美しい女性でしたが、彼女はヨセフを誘惑しようとしたのです。これはヨセフにとっての大いなる試練でしたが、彼は彼女の誘惑を忍耐と共に断り続けました。ある日、知事の妻は誘惑と共にヨセフを襲い、彼の衣服を破きましたが、その瞬間に彼女の夫が部屋に入ってきました。彼女は襲いかかって来たのはヨセフの方だと言い訳しましたが、彼の衣服が後ろから裂けているのに気付いた知事は、妻に対して全能なる神に悔悟するよう忠告しました。彼女は、預言者ヨセフをものにしようと計略を練りました。彼女は、彼が彼女を受け入れるか、または投獄されるかという2つの選択肢を与えたのです。彼は後者を選び、投獄されることになりました。
私たちに災難が降りかかったときは、預言者ヨセフが被った試練について想いを馳せるべきでしょう。預言者ヨセフは奴隷にされ、数年間の投獄生活を味わいましたが、それらを通して彼は忍耐し続けました。彼は降りかかった災難に対して決して憎悪の感情を抱かず、神に対して嘆願し続けました。そしてようやく、多くの年月を経て、神は預言者ヨセフの忍耐に報いたのです。彼は獄中である男に出会い、ヨセフは神によって与えられた能力を使って彼の夢解釈をしました。彼は男が解放され、国王の召使いになるであろうことを告げました。その予言は現実のものとなり、男は国王の召使いとなったのです。
ある日、国王は夢を見ました。クルアーンにはその逸話が述べられています。
“(エジプトの)王が言った。「わたしは7頭の肥えた牛が、7頭のやせた牛に食われているのを(夢に)見ました。また穀物の7穂が緑で、他(の7穂)が枯れているのを見ました。首長たちよ、あなたがたが夢を解け得るならば、このわたしの夢を解釈して下さい。」”(クルアーン12:43)
預言者ヨセフの元同房者は、エジプト王の召使いだったため、すぐにヨセフのことを思い出しました。彼は預言者ヨセフのことを国王に告げると、ヨセフは夢解釈を求められました。預言者ヨセフは国王に対し、7年間の豊作期の後、7年間の飢饉期が訪れることを告げました。彼は飢饉のための備えがあるよう、豊作期において穀物を蓄えておくよう助言しました。
国王は預言者ヨセフに大いに感謝し、彼を解放しただけでなく、政府の長官職に就かせました。こうして神は逆境を通して大きなる善を確立させたのです。もしも預言者ヨセフが井戸に放り込まれず、奴隷として売り払われず、また不正に投獄されなければ、彼は国王に発見されず、偉大な権威を持つ役職にも就けなかったでしょう。預言者ヨセフがそれらの苦難を通り抜けてきたのは、その地位を得るためだったのです。それゆえ、私たちは人生における困難に対して前向きであり続けなければならないのです。苦難を被っているその時には分からないかも知れませんが、もしかすると、神はより大きな善を私たちにお望みかも知れないのです。
また、預言者ソロモンも、異なった方法で試練を受けました。彼には莫大な富と権力が与えられました。歴史は富と権力が腐敗することを実証しています。しかし、預言者ソロモンは、神を畏れ、敬虔であり続けた数少ない国王だったのです。クルアーンはこう述べます。
“またわれらはスライマーン(ソロモン)を試み…彼は(神へと)立ち返った。”(クルアーン38:34)
実に、すべての神の預言者たちは試みられました。このことは、神が誠実なしもべたちに試練を与えることを指し示しており、私たちは彼らと同じ祝福を受けていることについて誇りを持つべきです。また、私たちは試練において忍耐し続けた彼らの態度も見倣うべきなのです。
イスラームにおける悲しみの対処(5/5)
説明: では、いかに悲しみに対処すべきでしょうか。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 02 Sep 2013
- 編集日時 02 Sep 2013
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この投稿において述べられてきた全てのことは、非常に重要なことですが、結局は次の質問に集約されます。私たちは、災難が降りかかってきたとき、いかにそれがもたらす悲しみに対処すべきなのでしょうか?あらゆる人々は人生において悲しみと直面しなければならず、一部の人々は他の人々よりも多くそれを経験します。人々は異なった方法で悲しみに対処しますが、信仰者としてどのような対処をすべきなのでしょうか。
信仰者がまず第一に認識しなければならないこととは、災難は神がもたらすものであるということです。クルアーンはこう述べます。
“(幸運・災難の)一切はアッラーの御許からである。”(クルアーン4:78)
それらが神によるものであると理解すれば、私たちは神が慈愛深き御方(アル=ワドゥード)、最も親切な御方(アル=バッル)であると気付くことが出来ます。神が私たちに定めることには、それに直ちに気付くことが出来るかどうかに関わらず、一定の善きことが含まれているのです。全能なる神はこう述べます。
“自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。”(クルアーン2:216)
偉大なイスラーム学者、ハサン・アル=バスリーはこう述べています。
“降りかかる災難とそれによってもたらされる不幸に憤慨してはならない。あなたが嫌うことには救済があるかも知れず、あなたが好むことには破滅があるかもしれないのだから。”
例えば、ある男性が解雇されたとすれば、そうされなければ可能ではなかった、より良い仕事を見つける手段になるかもしれないのです。災難による確かなる恩恵の一つは、神の御意による罪の赦しです。ムスアブ・ブン・サアド・ブン・マーリクは、父親がこのように言ったと伝えています。
“「神の使徒よ、この世で最も試練を受ける人々とは誰でしょうか?」彼は答えました。「預言者たちである。次に彼らに似た(敬虔で神を畏れる)者たちである。人はその敬虔さと信仰の度合いによって試練を受けるのだ。強い信仰を持つ者は、厳しい試練を受ける。同様に、弱い信仰を持つ者は、その度合に応じた試練を受けるのだ。人は、罪のなくなるまで試練を受け続けるのである。」”(イブン・ヒッバーン 2901番)
ファドル・ブン・サハルは述べています。
“災難には罪の贖い、忍耐への報奨を得る機会の他、怠慢を追い払い、健康という祝福を思い起こさせ、悔悟・喜捨を促すため、賢明な者が無視すべきでない祝福があるのだ。”
信仰者は、災難が降りかかった時には神へと立ち返るべきです。そうすることにより、災難は信仰者に、神のみを崇拝するという人生の唯一の目的を思い出させるのです。これこそは、私たちの存在する意味であり、人生の目的なのです。神はクルアーンにおいてこう述べます。
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
人は順境において、たびたび主への崇拝を忘れます。そして災難がやって来ると、ようやく神への嘆願を始めるのです。このように、災難は私たちが創造された目的を思い出させる役割を果たします。シャイフ・アル=イスラーム(代表的イスラーム学者の称号)、イブン・タイミーヤはこう述べています。
“人を神へと立ち返らせる災難は、神への想念を忘れさせる祝福よりも良いのである。”
イマーム・アッ=スフヤーンは述べています。
“人が嫌うものは、人を神へと嘆願させ、人が好むものは人を(崇拝行為に)無頓着にさせるため、人が嫌うものは人が好むものよりも良い場合があるのだ。”
それゆえ、災難が降りかかれば、私たちは「神に称賛あれ(アル=ハムドゥ・リッラー)」といって感謝の気持ちを表すべきなのです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう述べています。
“信仰者の諸事は何と良いことだろう。その諸事がすべて良いのは、信仰者だけに限られる。何か良いことが起きたなら、彼はそれに感謝し、そのことは彼にとって良いことなのだ。何か悪いことが起きたなら、彼はそれに忍耐をもって対処し、そのことは彼にとって良いことなのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
シャイフ・アル=イスラーム、イブン・タイミーヤが不当にも投獄された際、彼はそのことを敵から与えられた祝福であるとみなしました。シャイフ・アル=イスラームはその期間を神への崇拝の時間に費やしました。彼はこう述べています。
“敵は私に対して何が出来るだろうか。… 投獄は宗教的な隠遁(神への崇拝の機会)で、私の殺害は殉教であり、私の故郷からの追放は旅なのである。”
預言者ムハンマドは述べています。
“災難が降りかかったとき、「実に、私たちは神に属すのであり、かれにこそ帰還します。神よ、私の苦痛に報い、より良い何かで補ってください。」と神に言うよう命じられたことを言いながらも、より良い何かでもって償われないムスリムはいないのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
私たちは、神が愛でられる者たちに試練を課すことを思い出すべきです。預言者はこう述べています。
“最も大きな報奨は、最も大きな試練によってもたらされる。神が人を愛でられるとき、かれは彼らを試すのだ。誰であれそれを受け入れる者は、かれのご満悦を勝ち取るのである。”(アッ=ティルミズィー)
さらに、預言者はこう述べます。
“楽園への道には、数々の苦難が伴うのだ。”
災難や悲しみによって、現世の様々な罪は贖われ、来世においてそれらの罪に対する懲罰を受けずに済みます。預言者ムハンマドはこう述べています。
“信仰する男女には、彼ら自身、彼らの子供、彼らの富に対して試練が課され続けるであろう。彼らが罪の無い状態で神と会うその時まで。”(アッ=ティルミズィー)
神が私たちに災難をもたらすのは、私たちを破壊するためでも、私たちの意思を挫くためでも、私たちに止めを刺すためでもなく、それは私たちの忍耐と信仰を確認するための手段なのです。試練や苦難がなければ、人は傲慢、無思慮、頑なな心を持つようになり、それらは地獄の底へと導くでしょう。それゆえ、そうした心の病を癒すための治癒として、また破滅をもたらすであろう人格の悪い要素を取り除くため、神の慈悲によって試練が課されるのです。
人生において災難が降りかかったときは、神が私たちへの贖いとしてくれることを期待すべきですが、それに対する忍耐を示さなければなりません。究極の贖いとは、現世におけるものではなく、来世のものであり、それについて満足すべきです。アブー・スフヤーンはムスリム防衛の戦いにおいて目を失い、彼の視力が戻るように祈ってくれるよう預言者に頼みました。預言者が彼に、現世と来世のどちらで視力をあたえられるのが良いかと尋ねると、アブー・スフヤーンは来世への贖いが良いと答えました。事実、アブー・スフヤーンはもう片方の視力も失ったのです。
神は述べます。
“われは欲する者に慈悲を施す。また善行をなす者への報奨を虚しくしない。信仰して、絶えず主を畏れる者には、来世における報奨こそ最も優れたものである。”(クルアーン12:56−57)
信仰者は決して、神の慈悲に絶望してはなりません。神が信仰者に救いをもたらさないと考えてはならないのです。事実、アラビア語のサタン(イブリース)は、「絶望」を意味するアブラサという語根から成り立つ言葉です。サタンに(預言者アダムの創造によって彼が「格下」になるという)災難が降りかかったとき、彼はそれが神のもたらした良いことであるとは考えず、神の慈悲に絶望し、快楽主義に陥りました。同様に、一部の人々は災難が降りかかると、飲酒やその他の罪深い行いに走り、苦痛を和らげようとします。しかし、信仰者は絶望する代わりに、神へと立ち返るべきなのです。神はかれの創造に対し、こう保証します。
“朝(の輝き)において、静寂な夜において(誓う)。主は、あなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。本当に来世(将来)は、あなたにとって現世(現在)より、もっと良いのである。やがて主はあなたの満足するものを御授けになる。”(クルアーン93:1−5)
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