リンダ・デルガド/米国出身の元キリスト教徒(前編)

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説明: 米国人の婦人警官によるイスラーム改宗記。

  • より リンダ・デルガド
  • 掲載日時 24 Jun 2013
  • 編集日時 24 Jun 2013
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およそ5年前、私は52歳のキリスト教徒でした。教会の定着メンバーには一度もなったことがありませんでしたが、私は人生の中でずっと真実を求め続けてきました。多くの教会に通い、そこでの教師たちと学んできましたが、何一つピンと来るものはなく、それらが神についての真実ではないと認識していました。私は9歳の頃から毎日聖書を読み続けてきました。過去の年月を通して、私がいかに真実を求め続けてきたかは言葉では言い尽くせません。

長年の真理探究において、私は様々な宗教を学んできました。カトリックの牧師とは1年以上に渡って、週に2回勉強しましたが、カトリック信仰を受け入れることは出来ませんでした。エホバの証人とも1年間学びましたが、これも受け入れられませんでした。LDS(末日聖徒イエスキリスト教会、通称モルモン教)とは2年近く勉強しましたが、それでも真実を見出すことは出来ませんでした。また私にはユダヤ教徒の友人がいて、ユダヤ教の信仰についても多くの議論を交わしました。そして多くのプロテスタント教会にも、私の持つ疑問解消のため、数カ月単位で幾度が通いました。

私の心は、イエスは神ではなく預言者なのだと叫んでいました。私の心は、アダムとイヴは彼ら自身の罪に責任を持つのであり、彼らの罪は私とは関係ないのだと叫んでいました。私の心は、神以外の存在ではなく、神のみに礼拝せよ、と叫んでいました。私の理性は、私には善行と悪行の双方に責任があり、神は決して人の形をして私にその責任はないのだと言ったりはしないと叫んでいました。神は全知全能であるため、人間として生き死にする必要なんかないのです。

当時の私は多くの疑問を抱え込んでおり、そのことについて神に助けを祈っていました。私が怖れていたことは、真実を知らぬ間に死に直面することでした。私は頻繁に祈りました。宣教師や牧師などから得られる答えは、「これは神秘なのです」といったものでした。私は神が人々に天国を望んでいるのだと感じていたため、そこにたどり着く方法や、いかに人生を生きるべきなのか、またはどのように神を理解すればよいのかといった重要なことを謎のままとするはずはないと信じていました。私は直感的に、耳に入ってくる情報が虚偽であることを理解していました。

当時の私は52歳で、米国アリゾナ州に住んでいましたが、ムスリムと会話をしたことすらありませんでした。私は他の欧米人同様、メディアによってイスラームが「狂信的なテロリストの宗教」であると思い込まされていたため、イスラームについてはいかなる本や情報を読んだりもしたことがありませんでした。この宗教については何一つ知りませんでした。

発見

4年前、私は警察官としての24年間のキャリアを終えて引退しました。引退の一年前、私は巡査部長でしたが、世界中の警察官には共通の結束があり、私たちはそれを法執行における兄弟/姉妹と呼んでいました。国籍や警察の部署が違っても、必ずお互いを手助けしていたのです。

その年、私は米国の大学で英語を学びつつ、警察アカデミーに参加するために渡米してきたサウジアラビアの警官グループから、援助の要請を受け取りました。サウジ人の警官たちは、ホストファミリーと暮らし、英語や米国の慣習を勉強できるような環境を探していました。

私の息子はシングルペアレントとして、男手一つで私の孫娘を育てていました。私たち夫婦は息子親子の手助けが出来るよう、彼らが隣の家で暮らすことの出来るようにしました。私は夫にサウジの警官のことを話し、彼らを援助することに決めました。孫娘にとって、外国の人々と接することは良い教育となるからです。彼らがムスリムであるということは前もって聞いており、私はそのことに興味津々でした。

アリゾナ州立大学のサウジ人通訳者が、アブドルという名の若者を連れてきました。彼は英語が全く話せませんでした。私は彼が住むことになる寝室やトイレを紹介しました。私は即座にアブドルが気に入りました。彼の礼儀正しさや丁寧な仕草は、私の心を勝ちとったのです。

次に、ファハドが家にやって来ました。彼はアブドルよりも若く、恥ずかしがり屋でしたが、素晴らしい若者でした。私は彼らの指導員となり、警察の職務や、米国、サウジアラビア、イスラームについての議論を多くの交わしました。私は彼らがお互いに、そして米国に英語を学びにやってきた他の16人のサウジ人と連携して助け合っているのを何度も目にしました。彼らの過ごした一年間で、私はファハドとアブドルが米国文化に染まってしまわなかったことに逆に敬意を抱きました。彼らはどんなに疲れていても、金曜日にはモスクを訪れて礼拝しましたし、常に食事規定に関して注意を払っていました。彼らは私に伝統的なサウジ料理の仕方を教えてくれたり、アラブレストランやマーケットに連れていってくれたりしました。また、私の孫娘に対してもとても親切でした。彼らは彼女にプレゼントをあげたり、冗談を言って笑わせたり、良き年長者として接しました。

彼らは私たち夫妻に対しても敬意を払ってくれました。彼らは毎日、サウジ人の同僚たちと勉強に出かける前に、私たちがスーパーなどから何か入り用はないかと電話してきました。私は彼らにコンピュータの使い方を教え、その一方でインターネットのアラブ新聞などを読んで、彼らの文化や宗教について学ぶようになりました。彼らが不快感を味わうような言行をしたくはなかったからです。

ある日、私は彼らが余分なクルアーンを持ち合わせていないかと尋ねました。そこに何が書かれてあるのか興味を持ったのです。彼らはワシントンDCの大使館に連絡し、英訳クルアーン、テープ、その他の小冊子を私のために取り寄せてくれました。私の要望によって、私たちはイスラームのことについて話し合いました(彼らは英語を話さなければならなかったので、これが良い英語レッスンとしても機能しました)。私は彼らに愛着を感じるようになっており、彼らはイスラームを教えた最初の非ムスリムが私であったことを教えてくれました。やがて彼らは警察アカデミーでの一年間の勉学と訓練を終了しました。私は警察キャリアにおいて指導員だったため、彼らの警察関連の勉強を手助けできました。また、多くの警察の同僚たちも家に招き、彼らの大学の課題や英語の勉強を手伝ってもらいました。ある時、留学生の一人の奥さんが米国にやって来たため、私は彼らの家に招待されました。彼らは非常に丁重に出迎えてくれ、彼の奥さんとはムスリムの身なりや礼拝時の清めなどについて話し合うことが出来ました。

私の「息子たち」がサウジアラビアに帰国する一週間前、私は彼らの好物の伝統料理をふるまう夕食会を計画しました(それらすべてを料理することは出来なかったので、一部はこっそり購入してきましたが)。私はヒジャーブとアバーヤ(イスラーム的外衣)を購入しました。私のことをムスリムの姉として彼らに記憶して欲しかったのです。食事前に、私はシャハーダ(イスラーム入信の信仰宣言)をしました。それはもう、泣いたり笑ったりで、とても特別な時を過ごしました。私は心から、神が私の長年の祈りに答えるかたちで、彼らを私のもとに送ってくれたのだと信じています。神はイスラームの光によって、私が真実を見ることの出来るようにしてくれたのです。神はまさに、イスラームを私の家に送り届けてくれたのです。私は神のご慈悲、寵愛、そして思いやりを讃えます。

イスラームへの旅立ち

サウジの息子たちは、私の改宗から一週間後に帰国しました。私は彼らをとても恋しく感じましたが、それでも幸福でした。私は改宗のほぼ直後から地元のモスクに定着メンバーとして加わり、ムスリムとしての登録を済ませました。私はムスリム・コミュニティからの歓待を期待しました。ムスリムたちは皆、私が過去一年間で出会ったサウジの息子たちや彼らの同僚たちのようだと思い込んでいたのです。

私の家族は、依然としてショックの状態でした。彼らは私が過去そうだったように、新しい宗教に一時的にのめり込んだ後、それに失望し、別の宗教にくら替えするのだろうと思っていたからです。私が日常生活で変化を見せ始めたため、彼らはそれに驚いたのです。夫は日和見主義なので、私が今後ハラール(合法)食を食べ、食卓からハラーム(禁忌)食を排除すると言い出すと、ただ「OK」と言いました。

私の取った次の行動は、家の中から人々や動物の写真を外しだしたことです。ある日、仕事から帰宅した夫が遭遇した場面は、私が壁などに貼ってあった家族写真を大きなフォトアルバムにしまい込んでいるところでした。彼は傍観するだけで、何も言いませんでした。

次に、私は家族に改宗についての手紙を出し、それが私たちの家族関係にもたらす変化(何が変わるのか、そして何が変わらないのか)について述べ伝えました。またイスラームの基礎についてもいくつか説明しました。家族は沈黙を貫きました。私は礼拝の方法について、そしてクルアーンを読めるようになるよう勉強を続けました。またインターネットのイスラーム掲示板で活動的になったことも、新たな学びの助けとなりました。

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リンダ・デルガド/米国出身の元キリスト教徒(後編)

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説明: イスラーム改宗後の、新しい経験。

  • より リンダ・デルガド
  • 掲載日時 01 Jul 2013
  • 編集日時 01 Jul 2013
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私は、仕事のないときには「イスラームの基礎」クラスにも参加しました。当時はまだ州警察の巡査で、ヴェールをまとうことは難しい、いや不可能なことでした。このことは私にとって、不満と懸念の源泉となりました。8ヶ月後には定年を迎えたので、それまでは在宅で週3日のテレコミュニケーションと研究調査の担当を要請し、受け入れられました。

その半年後も、モスクの姉妹たちは私に打ち解けようとしませんでした。私はがっかりしました。そしてだんだん自分が部外者のように感じてきました。私は当惑しましたし、心配しました。私は何人かの姉妹たちと共同で地域奉仕活動を始めました。私はサウジの息子たちによって毎日実践されていた親切さ、友情心、そして礼儀を求めていたのです。私はモスクで多くのミスもしました。例えば礼拝室で会話にいそしんだり、食事会では左手で食事したり、爪にマニキュア液を塗って叱られたりしました。またウドゥー(礼拝前のお清め)を間違ったやり方で行い、眉をひそめられたりもしました。それらのことで、とても落胆しました。

しかしある日、インターネットで知り合った姉妹からの小包が郵便で届いていました。その中には何着ものアバーヤ、ヒジャーブ、シルクのストッキング、そして私のイスラーム改宗を歓迎する、暖かく友情にあふれた手紙が同梱されていました。彼女はクウェイト在住でした。次に、別の親切な姉妹からは、彼女手作りの礼拝着と礼拝用絨毯が送られてきました。彼女はサウジアラビア在住でした。また、一通のEメールを受け取り、それは同じく新改宗者の彼女がときに「部外者」のように感じていることを相談するものでした。そこには、「私は多くのムスリムたちと出会う前に改宗していて良かった。」と書かれていました。これは中傷ではなく、イスラームは完全だけれども、ムスリムは不完全なのだということを思い出させるものです。私自身に欠点があるのと同じよう、他の姉妹や兄弟たちも同様なのです。また、私は個人的に、神がムスリムに与えた最も大きな恩寵の一つとは、同胞愛なのではないかと感じ始めました。

過去4年間で、私の人生は急激に変化しました。私の家族は、親切さと寛容心から、私がムスリムであり、ムスリムとして留まるということを受け入れるようになりました。愛する家族によってイスラームを放棄するよう迫られるといったような、多くの改宗者たちが直面するような試練から私をお救いになった神に、称賛あれ!

次第に私は、地元やネット上で意気投合出きる姉妹たちと出会い、何十人もの姉妹たちがサポート、愛情、友情をもたらしてくれました。ムスリムとしての一年目が終わろうとするとき、生命を脅かす病気に連続してかかってしまいました。私はイスラームという綱にしがみつきました。世界各地の姉妹たちは、日課のドゥア−(祈願)と共に、ブラック・シード茶やザムザム水を送ってくれました。

私の健康状態が悪化を続け、身体が弱くなると、私は地域奉仕活動を断念せざるを得なくなり、地元のムスリムコミュニティからも疎遠となりました。一方で、アラビア語の発音は非常に難しかったですが、礼拝をきちんと出来るようになるよう頑張りました。私のイスラームの先生はカセットテープを作ってくれ、ある姉妹はそれを私の家まで届けてくれたりしました。2年後、私はクルアーンの4つの章を朗誦できるようになりました。大半のムスリムたちにとって、この数は少なく映るかも知れませんが、私にとっては大きな達成でした。それから礼拝の他の部分の言葉の暗記にも取り掛かりました。それには更に2年間の苦労が必要でした。

ムスリムとしての3年目の前半、私は心臓発作を起こし、手術を受けました。それによって礼拝時には椅子に座って行わなければならなくなり、頭を地面に付けて礼拝することが今後もう出来なくなることが分かり、悲しさで一杯でした。しかしこの時、私は神の恩寵であるイスラームが、容易な宗教であるということを真に理解したのです。椅子に座った状態での礼拝や、病気時の断食の中断は認められているのです。そのおかげで私は、こうした現状によってムスリムとして不適格だと感じずに済みました。

いくつかのモスクを訪問した後、それらが小さな「国連」のように、モスク内でも言語や文化によっていくつかの小さなグループに分かれていることが分かってきました。そうした相違にも関わらず、イスラームに則った笑顔と「アッサラーム・アライクム(あなたに平安あれ)」の挨拶は、常に対人関係における共通の潤滑油なのです。

しばらくすると、私は自分のような新改宗者の姉妹たちに傾くようになってきました。私たちは多くの共通項を共有していました。ノンムスリムの家族、アラビア語の発音における労苦、イスラームの祭日や、ラマダーン中の断食を解くときの孤独といった、同じような試練を経験しているからです。改宗するということは、私たちの新たな習慣を容認出来なかったり、ダンスや男女混合といったような活動を止めてしまうといったようなことから、時には長年の友人を失うことも意味します。

地域奉仕活動が出来なくなったことから、私はムスリムコミュニティ全体に対して貢献することの出来るような方法を探し始めました。それについて、常に神の援助を求めていました。ある日孫娘が、私がサウジの息子たちや、イスラーム、そしてイスラームに対する家族の経験などをまとめた本を出してはどうかと提案しました。私はそれらについて、そして友人だったムスリムと非ムスリムの若い女性たちの逸話を紹介する本を書くことを決意しました。それらの逸話は、若い女性が学校や家庭などで直面する諸問題に対し、イスラーム的な解決法を示すものです。

私は書き始めた数冊の本のシリーズを「イスラミック・ローズ・ブックス」と呼びました。また著者と著者志望の姉妹のためにネット上のグループを立ち上げ、それはIslamic Writers Alliance(イスラーム著者連合)の設立にまで発展しました。この連合は、著者や著者志望のムスリム女性のための支援を提供する国際団体です。その主な目的は、読者や出版社に私たちの著作を広めることです。また私はムスリムのフードバンクが、在庫やクライアント、連絡先を把握することの出来るデータバンクを作り、資金提供のためのレポート作成を容易とする手助けをしました。また私の著作販売の利益の大部分を、イスラーム子ども図書館の本の購入に充てました。そういったイスラーム書籍が置いてあるはずの図書館の本棚の多くが空っぽだったことを発見したからです。

私には、まだまだイスラームに関して学ばなければならない多くのことがあります。クルアーンを読むことに疲れたことはありませんし、私の好きな余暇の過ごし方は、イスラームにおいて有名な歴史的人物に関する著書を読むことです。私がイスラームにおいて何か確信が持てない場合は、預言者(彼に平安あれ)のスンナに答えを見出そうと努めます。私は彼が様々な状況においてどのような対処をしたのかを自らの導きとします。私のイスラームにおける旅は続き、私は新たな経験を期待しています。私は神の慈悲と寵愛を、日々感謝しています。

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