敬意(中)
説明: 失われてしまった敬意をいかにして取り戻すか。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 13 Jan 2014
- 編集日時 13 Jan 2014
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現代社会における技術とテクノロジーの飛躍的な進歩により、瞬時にして世界中のどこにいてもコミュニケーションを取ることが可能となり、人々が敬意について、またはその欠如について語るのを耳にすることが多くなりました。私たちは環境に対する敬意、他文化・他宗教に対する敬意、お互いに対する敬意、そして21世紀のキャッチコピー、自己への敬意(自尊心)について耳にします。私たちは政治家や政府への敬意を失い、有名スポーツ選手や俳優への敬意をつのらせます。また私たちは照明を消したり、不必要な電源を落とすことで地球への敬意を示そうとします。私たちは人生について不平を述べ、家庭や職場で敬意が示されていないことに不満を漏らします。私たちは、貧しい国々でチャリティー活動をする俳優については熱く語る一方、ゴミ箱に残飯を投げ捨てます。また私たちは麻薬中毒から不幸を招いた歌手には涙しますが、道端のホームレスをまたいで通り過ぎます。私たちは地球温暖化に警鐘を唱える知識人は尊敬しますが、創造主による戒律は無視します。そして私たちは敬意の重要性を理解することは出来ますが、その実践を出来ずにいます。私たちの多くは、本質的なものを見失ってしまったのです。
私たちの多くにとってその達成が困難に映る、失われてしまった敬意はどのようして回復させることが出来るのでしょうか? それはただ単に、神の戒律に従い、その通りにかれを崇拝するだけで良いのです。神はクルアーンにおいて、かれが人類を創造されたのは、かれを崇拝させるためだけであると述べています(クルアーン51:56)。神を崇拝するということは、かれがそれに値する敬意を私たちが示すということです。神の崇拝は、私たちが全人類に敬意を示すことを可能とさせ、また環境に敬意を示し、他者から敬意を示されることでもあります。神への畏怖心と親密性が明らかな人物ほど、私たちの敬意に値する人間はいません。前回、私たちは陰口と噂話の危険性について、そしてそうした態度が彼ら自身、そして神への敬意を喪失させてしまっていることについて指摘しました。
私たちは人間として、自分たちの程度の低い欲望をよく抑制しなければなりませんが、最も犯すことが抵抗し難い罪の一つには、他者についての噂話があります。しかしながら、正しい方法で神を崇拝し、かれを愛するには、私たちが陰口という悪を断ち切ることが絶対に必要となるのです。こうした卑しい性質を取り除く方法の一つとして、神の懲罰を警告し、私たちの悔悟を促すクルアーンの節々、そして預言者ムハンマドの言葉について熟考することが挙げられます。
“それともかれらは、われがかれらの秘めごとや謀議を、聞かないとでも思うのか。いや、わが使徒たち(天使)は、かれらの傍らで記録している。”(クルアーン43:80)
預言者ムハンマドは、私たちが神の御前では羞恥心を感じるよう促しています。彼はこう言いました。「そうされるべきであるように、神の御前で恥じらうのだ。それゆえ、頭とその中にあるものを守り、腹とそこに入れるものを守り、死について、そして塵土へと戻ることについて考察するのだ。」1私たちは陰口をたたくことに関して恥を知らなければならず、それに携わることによって失うものについて熟考しなければなりません。そうしなければ、敬意の本質は失われてしまうのです。
イスラームが無礼とは無関係であること
預言者ムハンマドは常々、彼の教友たちに対して神に背くことの重大性を喚起していました。彼は多くの伝承で、他者の権利を尊重しないことからもたらされる深刻な結末について説いています。彼は言っています。「私の追従者の中、破綻した者とは、復活の日にそれまで行っていた礼拝、喜捨、断食の善行があるものの、ある人物を侮辱して打ち、また他者の財を奪っていたため、それらの善行が取り消されてしまうような者である。そして彼の善行がなくなると、彼が不正を働いた人物の罪が彼の上にのしかかり、業火の中に投げ込まれるのである。」2真の信仰者とは自己修養に励み、他者に無礼を振舞うのではなく、他者を守るという自らの責任について認識している者なのです。イスラームにおける信仰者たちは、お互いへの敬意を軽んずることなく、無礼を容認することもありません。
噂話や陰口の悪から自らを守る簡単な方法として、そうする者たちから遠ざかることが挙げられます。神はクルアーンにおいてこう述べられます。
“また、つまらない談話を耳にする時かれらは身を引いて言う。「わたしたちには、わたしたちの行いがあり、あなたがたにはあなたがたの行いがある。あなたがたの上に平安あれ。わたしたちは無知蒙昧な者を相手にしない。”(クルアーン28:55)
預言者ムハンマドは、空虚・無益な行動や会話に耽るような者たちではなく、誠意ある者たちと付き合うことを非常に強調しています。彼はこのように言っています。「例えば良き仲間と悪しき仲間は、麝香を抱えた者と、たたら吹きのようである。麝香を抱える者は、あなたにそれを分けてくれるかも知れないし、少なくともその芳香を楽しませてくれる。たたら吹きはあなたの衣服を焦がすかもしれないし、少なくともその悪臭に悩まされることになる。」3
誠意ある人々との付き合いを心がけることは、陰口や噂話から遠ざかることにつながります。なぜなら友人を思いやる者とは、そのような態度のもたらす害悪や懲罰について注意し合うものだからです。また、他人の間違いについて噂話をするのではなく、自分の欠点や性格の短所について思い起こすことも重要です。偉大なる学者ハサン・アル=バスリーはこう述べています。「誰であれ、ある罪から悔悟したにも関わらず、それをその同胞のせいにした者は、神がその罪をその人物自身に犯させることによって懲罰を与えるのだということを、我々はお互いに戒め合っていた。」
陰口や噂話が大罪であることは確証されていますが、イスラーム学者たちは他人の間違いや性格について語ることが許される特定の状況についても説明しています4。例えば抑圧されている者が、その不正について権威に報告することや、悪事を感知した者が、それを取り除くことの出来る者に告げ知らせること、また宗教的助言を与える資格を持つ者に助言を求める際、人の過ちについて言及することなどは認められています。誰かに言及する際、その人物についての説明(盲人・聾者・車いす使用者など)をすることは、それがその人物を揶揄・卑下する形でない限りは認められます。そして、自分の知人を結婚相手や商取引の相手として考えている人物からその知人に関しての助言を求められた場合、その知人の欠点を隠すことは禁じられています。
上記の状況についての慎重な考察からは、それらの例外においてもそこに敬意は内在していることが明らかになります。誰かを抑圧することは、その人物への敬意の欠如であり、悪事を働くことはコミュニティへの敬意の欠如であり、真摯な助言を求める者を欺くことは、同じく敬意の欠如によるものです。私たちが敬意の欠けた対応を受けたと感じれば、私たちは自分たちの犯した罪を思い起こし、神へと立ち返って悔悟すべきです。私たちの人生から敬意の本質が欠けているのなら、完全なる服従によって神を崇拝することによって、それを回復させることが出来ます。イスラームは、神に従うことによって私たちが神への敬意を示すことを求めているのです。そして神に従うこととは、そもそも他者と自らに敬意を示すことも意味しているのです。
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