敬意(上)
説明: 神への敬意とは、かれに従うことを意味します。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 13 Jan 2014
- 編集日時 15 Sep 2020
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名誉を与え、尊敬し、高く評価すること。これが、最も広く理解されている「敬意」の定義です。事実、類義語辞典は敬意について、人々の気持ちに思いやりを示すことであり、敬意を「名誉」「親切さ」「従順」「寛大さ」の語と関連付けています。では、イスラームにおける敬意の役割とは何でしょうか?イスラームでは、すべての被造物に敬意・栄誉・尊敬を示すことは、各人の責任であると述べます。もちろん、最たる敬意に値するのは、創造主その御方です。敬意とは神の戒律に従い、愛することから始まりますが、そこからイスラームに内在する礼節、そして高い水準の倫理観がすべて派生します。
“アッラーと使徒に服従し、アッラーを畏れ、かれに自分の義務を尽くす者、そのような人々こそ(最後の目的を)成就する者である。”(クルアーン24:52)
成就する者となるため、各人が創造主に従い、人類、環境、信仰者たち、そして自分自身とも敬意をもって向き合えるようになることをイスラームは求めます。忘れてはならないのは、信仰者たちは一つの共同体を形成し、共同体の一部であっても危機にあれば、その全体も同じく危機に陥るということです。それゆえに、お互いに敬意を示している相互関係は重要なことです。私たちが責任を持たなければならないのは、自らの思考と行動だけでなく、他者と被造物に対して持っている影響力でもあるとイスラームは説きます。イスラームはまた、私たちに勧善懲悪を命じます。イスラームは、神の性質である平和・愛情・慈悲のそれぞれを敬意と結び付けるため、神への敬意・服従という義務を果たすためには、他人の名誉・評判・プライバシーを尊重しなければなりません。敬意を払うということには、陰口・嘘・中傷・噂話などの大罪から完全に離れ去ることが求められます。
人への敬意とは、人々の間に争いの種をまき、破滅へとつながるような罪から遠ざかるということです。敬意には、自分が望んでいるものを他者にも望むような同胞愛も含まれます。また敬意とは、自分が接して欲しいように他者に接することであり、さらには神が私たちに接して欲しいと望むような思いやり・愛情・慈悲をもって他人と接することです。大罪を行うことは、人類と神の慈悲の間に障壁を設け、あらゆる苦悩・困窮・悪を人の現世と来世の双方にもたらします。神は私たちに罪から遠ざかるよう命じ、自らの破滅的な欠点の克服のために努力するよう命じます。また神は、邪推・陰口・噂話は恥辱と不名誉をもたらすもの以外の何でもないことであると指摘します。
“信仰する者よ、邪推の多くを祓え。本当に邪推は、時には罪である。無用の詮索をしたり、また互いに陰口したりしてはならない。死んだ兄弟の肉を、食べるのを誰が好もうか。あなたがたはそれを忌み嫌うではないか。アッラーを畏れなさい。本当にアッラーは度々赦される方、慈悲深い方であられる。”(クルアーン49:12)
預言者ムハンマドの教友であり、クルアーンの解釈者でもあるイブン・アッバースは、神は屍肉を食用にするのを禁じたのと同じように陰口を禁じたのだと述べています。屍肉を食すことは、人が本能的に忌み嫌うことであり、人はそれと同じように他者への陰口を忌み嫌うべきなのです。敬意とはお互いへの思いやりを持つことなのであって、屍肉をむさぼる野獣のように人格攻撃をすることではないのです。
陰口
一部の人々は、陰口は「単なる言葉」に過ぎないと主張し、その害の有効性に疑問を呈します。しかし言葉には、実に強力で広範におよぶ効果があります。陰口に関しては明らかな敬意の欠如に加え、「単なる言葉」は中傷された側には苦痛と、中傷した側には地獄の炎が与えられます。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、無礼な言葉を発する者に待ち受ける運命について警告してこう述べています。「人は成り行きを予期せずに何らかの言葉を発するかもしれないが、それによって彼は東西の距離よりも遥かに深く地獄に投げ込まれるのである。」1
あるとき、預言者に近い教友の一人が、いかに天国に入り、地獄から遠ざかるべきかについて預言者に質問しました。預言者ムハンマドは善行の徳について言及し、彼が善行の基礎について知りたいかどうか尋ねました。その教友が「もちろんです」と答えると、預言者ムハンマドは自らの舌を掴んでこう言ったのです。「これを控えるのだ。」教友はいぶかしげにこう問いかけました。「私たちは自らの発言について、責任を問われることになるのでしょうか?」預言者ムハンマドは、「舌の収穫したもの」よりも彼らを地獄に早く送り込むものは無い、と答えたのです2。
陰口が「単なる言葉」に過ぎないものではないことが確証されたので、その定義を明確にさせましょう。陰口とは、軽蔑的に第三者についての会話をしたり、その人物が他人に話されることを好まないような話しをすることです。それが陰口と言われるのは、その話題にしている人物のいないとき、またはその人物の陰でそうされるからです。預言者ムハンマドは陰口について、「あなたの同胞について、その同胞が言及されることを好まないようなことに言及すること」3であると述べています。イマーム・ナワウィーは、陰口について「当該人物の身体的特徴、宗教的実践、現世的地位、風貌、人格、富、両親、子供、配偶者、召使い、衣服、活動、笑顔、しかめ面など、すべてに渡ることである。言葉によって明確に言及されたか、あるいは身振り手振りで不明瞭に言及されたかは関係ない」と説明しています。
預言者ムハンマドは真実の言葉と陰口との違いについても問われており、彼は陰口の辛辣性について説明した後、それと中傷との違いについてこう述べています。「もしもあなたが彼について真実を述べたのなら、それでもあなたは陰口をたたいたことになるのである。もしもあなたが彼について嘘を述べたのなら、あなたは彼を中傷したことになるのである。」4中傷とは虚偽の言葉を述べることで、それは大罪であり、厳重な懲罰の対象となります。
“また理由もなく、男女の信者を不当に悩ます者は、必ずそしられて明白な罪を負う。”(クルアーン33:58)
預言者ムハンマドにまつわる別の伝承では、彼のこよなく愛した妻アーイシャが、彼の別の妻の一人について背が低い、または小柄と述べたものがあり、その際預言者ムハンマドは彼女の発言の重大性について明確にしています。彼はこう言いました。「あなたの発した言葉は、もしそれが海水と混ぜられたのであれば、それを汚染したことであろう。」5
現在、陰口は広く浸透しており、人々は怒りや嫉妬の表現法としてそれを用いています。それに関わる者は、神に不従順であること、また他者を害していることから、神に敬意を示していないことになるのです。雑誌やテレビ番組は、噂話や他人の人生の詮索に尽力します。そこにはプライバシーの尊重などというものはなく、一般的に信じられていることに反して、噂話の情報源は他人の人生ではありません。習慣的に噂や陰口に耽り、自らの欲望に対する努力を怠り、神の赦しを求めない人物は、自分自身に対する敬意をすべて失います。そうした人物は、地獄の業火を怖れることが既になくなっているからです。その罪は重く、懲罰は厳しいですが、神は慈悲深き御方であり、真摯な悔悟をいつでもお受け入れになります。
“それであなたがたの中、無知で悪事を行った者も、悔悟してその身を修めるならば(許される)、本当にかれは寛容にして慈悲深くあられる。”(クルアーン6:54)
敬意(中)
説明: 失われてしまった敬意をいかにして取り戻すか。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 13 Jan 2014
- 編集日時 13 Jan 2014
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現代社会における技術とテクノロジーの飛躍的な進歩により、瞬時にして世界中のどこにいてもコミュニケーションを取ることが可能となり、人々が敬意について、またはその欠如について語るのを耳にすることが多くなりました。私たちは環境に対する敬意、他文化・他宗教に対する敬意、お互いに対する敬意、そして21世紀のキャッチコピー、自己への敬意(自尊心)について耳にします。私たちは政治家や政府への敬意を失い、有名スポーツ選手や俳優への敬意をつのらせます。また私たちは照明を消したり、不必要な電源を落とすことで地球への敬意を示そうとします。私たちは人生について不平を述べ、家庭や職場で敬意が示されていないことに不満を漏らします。私たちは、貧しい国々でチャリティー活動をする俳優については熱く語る一方、ゴミ箱に残飯を投げ捨てます。また私たちは麻薬中毒から不幸を招いた歌手には涙しますが、道端のホームレスをまたいで通り過ぎます。私たちは地球温暖化に警鐘を唱える知識人は尊敬しますが、創造主による戒律は無視します。そして私たちは敬意の重要性を理解することは出来ますが、その実践を出来ずにいます。私たちの多くは、本質的なものを見失ってしまったのです。
私たちの多くにとってその達成が困難に映る、失われてしまった敬意はどのようして回復させることが出来るのでしょうか? それはただ単に、神の戒律に従い、その通りにかれを崇拝するだけで良いのです。神はクルアーンにおいて、かれが人類を創造されたのは、かれを崇拝させるためだけであると述べています(クルアーン51:56)。神を崇拝するということは、かれがそれに値する敬意を私たちが示すということです。神の崇拝は、私たちが全人類に敬意を示すことを可能とさせ、また環境に敬意を示し、他者から敬意を示されることでもあります。神への畏怖心と親密性が明らかな人物ほど、私たちの敬意に値する人間はいません。前回、私たちは陰口と噂話の危険性について、そしてそうした態度が彼ら自身、そして神への敬意を喪失させてしまっていることについて指摘しました。
私たちは人間として、自分たちの程度の低い欲望をよく抑制しなければなりませんが、最も犯すことが抵抗し難い罪の一つには、他者についての噂話があります。しかしながら、正しい方法で神を崇拝し、かれを愛するには、私たちが陰口という悪を断ち切ることが絶対に必要となるのです。こうした卑しい性質を取り除く方法の一つとして、神の懲罰を警告し、私たちの悔悟を促すクルアーンの節々、そして預言者ムハンマドの言葉について熟考することが挙げられます。
“それともかれらは、われがかれらの秘めごとや謀議を、聞かないとでも思うのか。いや、わが使徒たち(天使)は、かれらの傍らで記録している。”(クルアーン43:80)
預言者ムハンマドは、私たちが神の御前では羞恥心を感じるよう促しています。彼はこう言いました。「そうされるべきであるように、神の御前で恥じらうのだ。それゆえ、頭とその中にあるものを守り、腹とそこに入れるものを守り、死について、そして塵土へと戻ることについて考察するのだ。」1私たちは陰口をたたくことに関して恥を知らなければならず、それに携わることによって失うものについて熟考しなければなりません。そうしなければ、敬意の本質は失われてしまうのです。
イスラームが無礼とは無関係であること
預言者ムハンマドは常々、彼の教友たちに対して神に背くことの重大性を喚起していました。彼は多くの伝承で、他者の権利を尊重しないことからもたらされる深刻な結末について説いています。彼は言っています。「私の追従者の中、破綻した者とは、復活の日にそれまで行っていた礼拝、喜捨、断食の善行があるものの、ある人物を侮辱して打ち、また他者の財を奪っていたため、それらの善行が取り消されてしまうような者である。そして彼の善行がなくなると、彼が不正を働いた人物の罪が彼の上にのしかかり、業火の中に投げ込まれるのである。」2真の信仰者とは自己修養に励み、他者に無礼を振舞うのではなく、他者を守るという自らの責任について認識している者なのです。イスラームにおける信仰者たちは、お互いへの敬意を軽んずることなく、無礼を容認することもありません。
噂話や陰口の悪から自らを守る簡単な方法として、そうする者たちから遠ざかることが挙げられます。神はクルアーンにおいてこう述べられます。
“また、つまらない談話を耳にする時かれらは身を引いて言う。「わたしたちには、わたしたちの行いがあり、あなたがたにはあなたがたの行いがある。あなたがたの上に平安あれ。わたしたちは無知蒙昧な者を相手にしない。”(クルアーン28:55)
預言者ムハンマドは、空虚・無益な行動や会話に耽るような者たちではなく、誠意ある者たちと付き合うことを非常に強調しています。彼はこのように言っています。「例えば良き仲間と悪しき仲間は、麝香を抱えた者と、たたら吹きのようである。麝香を抱える者は、あなたにそれを分けてくれるかも知れないし、少なくともその芳香を楽しませてくれる。たたら吹きはあなたの衣服を焦がすかもしれないし、少なくともその悪臭に悩まされることになる。」3
誠意ある人々との付き合いを心がけることは、陰口や噂話から遠ざかることにつながります。なぜなら友人を思いやる者とは、そのような態度のもたらす害悪や懲罰について注意し合うものだからです。また、他人の間違いについて噂話をするのではなく、自分の欠点や性格の短所について思い起こすことも重要です。偉大なる学者ハサン・アル=バスリーはこう述べています。「誰であれ、ある罪から悔悟したにも関わらず、それをその同胞のせいにした者は、神がその罪をその人物自身に犯させることによって懲罰を与えるのだということを、我々はお互いに戒め合っていた。」
陰口や噂話が大罪であることは確証されていますが、イスラーム学者たちは他人の間違いや性格について語ることが許される特定の状況についても説明しています4。例えば抑圧されている者が、その不正について権威に報告することや、悪事を感知した者が、それを取り除くことの出来る者に告げ知らせること、また宗教的助言を与える資格を持つ者に助言を求める際、人の過ちについて言及することなどは認められています。誰かに言及する際、その人物についての説明(盲人・聾者・車いす使用者など)をすることは、それがその人物を揶揄・卑下する形でない限りは認められます。そして、自分の知人を結婚相手や商取引の相手として考えている人物からその知人に関しての助言を求められた場合、その知人の欠点を隠すことは禁じられています。
上記の状況についての慎重な考察からは、それらの例外においてもそこに敬意は内在していることが明らかになります。誰かを抑圧することは、その人物への敬意の欠如であり、悪事を働くことはコミュニティへの敬意の欠如であり、真摯な助言を求める者を欺くことは、同じく敬意の欠如によるものです。私たちが敬意の欠けた対応を受けたと感じれば、私たちは自分たちの犯した罪を思い起こし、神へと立ち返って悔悟すべきです。私たちの人生から敬意の本質が欠けているのなら、完全なる服従によって神を崇拝することによって、それを回復させることが出来ます。イスラームは、神に従うことによって私たちが神への敬意を示すことを求めているのです。そして神に従うこととは、そもそも他者と自らに敬意を示すことも意味しているのです。
敬意(下)
説明: 他人への嘘・詮索・悪口について。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 20 Jan 2014
- 編集日時 20 Jan 2014
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前回、私たちはお互いへの敬意、また環境や自分自身への敬意がいかにイスラームに内在するものであるかについて考察しました。私たち自身、そして私たちの周りにあるもの全てに敬意を示すという概念は、神への完全なる服従、そして私たちがいかにして、そしてなぜ神の御意に従わなければならないのかという理解抜きにしては可能ではありません。神はクルアーンのなかで、私たちの人生における唯一の目的について喚起します。
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
神への崇拝とは、一日中同じ場所に留まって祈り続けることではなく、現世的生活を放棄して隠遁生活に入ることでもありません。それは神への義務を果たし、神が私たちの意識と発言のなかに常にある状態のことを言います。日常的でありふれた所作でも、創造主のご満悦を得るために行われたのであればそれは崇拝となります。礼拝や断食、喜捨などの義務を果たすことは、感謝と謙遜の意識をもってなされることにより崇拝行為となります。神は自存者・全能者であるため、私たちを必要とはされません。私たちこそが、神を必要としているのです。神こそは私たちが存在する原因であり、私たちが人生を築き上げるべき基礎なのです。
目的なく生きられる人生の向かうところは、喪失以外の何でもありません。
“時間にかけて(誓う)。本当に人間は、喪失の中にいる。信仰して善行に勤しみ、互いに真理を勧めあい、また忍耐を勧めあう者たちの外は。”(クルアーン103:1−3)
しかし、人生を目的によって満たすことは満足感をもたらし、それによって私たちはお互いに、そして自分たち自身に敬意を示すことが出来るようになります。神への敬意とは、神に従うことです。神に従うこととは、私たちが他人の敬意に値するような、特別な地位にあることです。神への服従の失敗は、敬意を欠いた人生につながります。お互いを軽蔑し、噂話をし、陰口をたたくことは、私たちの人生における敬意の欠如を意味します。他人への嘘・詮索・悪口といった大罪に携わることは、私たちが他人からの敬意に値しないことも意味するのです。
嘘
嘘をつくことは、社会における腐敗の大きな原因の一つです。それがどのような形であれ、嘘は人々の間に敵意を生み出し、敬意を損なわせますが、最も不快な形の嘘とは、神またはその諸預言者・諸使徒に虚偽の物事を帰すことです。イスラームは嘘を禁じ、信仰者が正直者であるよう求めます。クルアーンの言葉はそのことを証言します。神はこう仰せられました。
“あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい。”(クルアーン9:119)
“知識もなく人を迷わせるために、アッラーに就いて虚偽を捏造するより、甚だしい不義があろうか。”(クルアーン6:144)
預言者ムハンマドにまつわる伝承からは、彼が追従者たちに対して正直であることを心がけ、虚偽に内在する害悪から遠ざかるよう、たびたび勧告していたことが分かります。
“嘘をつくことがないよう心がけるのだ。嘘は不道徳につながり、不道徳は地獄の業火につながるのだから。”1
彼の最大の敵の一人だった人物でさえ、預言者ムハンマドが正直者で、正直であるよう呼びかけていたことについて証言しています。アブー・スフヤーン2は預言者をひどく嫌っていましたが、彼が追従者たちに礼拝をするよう、正直者であるよう、また近親関係を維持するよう命じていたことを明らかにしています3。
詮索
預言者ムハンマドは追従者たちに対し、他人を詮索しないよう警告しています。彼はこのように述べています。
“嫌疑をかけることのないよう、心がけるのだ。それは最も正しくない発言なのだから。盗み聞きしてはならない。お互いにこそこそと詮索し合ってはならない。お互いに嫉妬してはならない。お互いに断交してはならない。お互いに憎悪してはならない。神のしもべたちよ、同胞となるのだ。”4
神ご自身も、私たちが嫌疑をかけることのないよう、喚起しています。神はこのように仰せられました。
“邪推の多くを祓え。本当に邪推は、時には罪である。無用の詮索をしたりまた互いに陰口してはならない。”(クルアーン49:12)
イスラームにおいて、他人の秘密を探ったり、それを暴露したりすることは許されていません。盗み聞きしたり、個人的なことに関わる質問を多くしたり、詮索やそれに関連する物事全ては、他人のプライバシーの侵害であり、神に背く行為であるため禁じられています。
偉大なるカリフとして知られ、多くの人々の尊敬を集めたウマル・ブン・アブドル=アズィーズは、悪意のこもった噂話を回してきた人物にこう言いました。
“もしあなたが御望みなら、この件について調べてみよう。もしあなたが嘘をついているのであれば、あなたは神が“もし邪な者が情報をあなたがたに齎したならば、慎重に検討しなさい。これはあなたがたが、気付かない中に人びとに危害を及ぼし、その行ったことを後悔することにならないためである。”(クルアーン49:6)と言及しているような人物の一人となるであろう。もしあなたが真実を述べているのであれば、あなたは神が “中傷し、悪口を言い歩く者”(クルアーン68:11) と言及する人物の一人となるであろう。あるいはもしあなたが御望みなら、私たちはあなたを許そう。” その人物は言いました。“信仰者の長よ、お赦しください。もう決してそれを致しません。” 嘘、噂話、中傷、詮索、悪口はいずれも大罪なのです。
悪口
悪口は、その対象の人物への敬意だけでなく、自尊心の欠如をも示します。侮辱、中傷、罵り、悪態などは、通常は怒りにまかせて発言されるものです。怒りとは、あらゆる種類の悪業や無礼への扉を開く可能性のある感情です。それは時に、善意の絆を絶ち切り、家族関係すらも破壊してしまうものです。また怒りは中傷の言葉だけに留まらず、お互いへの身体的な危害につながることもあります。
預言者ムハンマドは、侮辱的な言葉を使ったり、卑猥な話し方をしたり、人を罵ったりする人物ではありませんでした。彼は誰かを非難したいとき、こう言ったものです。「一体、彼はどうしたというのだ。彼に災いあれ!」5神に服従する真の信仰者とは、自らの舌を制御し、善いこと以外は発言しないようにしなければなりません。預言者ムハンマドにまつわる伝承においては、誰であれ神と最後の日を信じる者は、善いことを話すか、沈黙していなければならない6、と彼は述べています。彼は、信仰者と中傷の言葉を交わすことは悪であり、戦うことは軽度の不信仰であり、呪うことは殺すことと同様であると述べています7。
厳しい言葉は、誤解の入り込む余地を与えません。悪口は悪業につながり、最終的には懲罰を受けることになります。神は私たちに、最善の言葉とは神への唱念であることを喚起します。なぜなら、それは満ち足りた気持ちと心の平穏をもたらすからです。
“アッラーを唱念することにより、心の安らぎが得られないはずがないのである。”(クルアーン13:28)
善行に勤しむことを心がけ、神のご満悦を求めるような人こそは、敬意の意味を真に理解している人なのです。
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