元英国外交官チャールズ・ル・ガイ・イートン(1/6)

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説明: 哲学者/作家による真実の探求は、信仰と行為を調和させるための恒常的な葛藤に悩まされました。第1部:世俗的な少年時代、そしてアラビアの言及。

  • より ガイ・イートン
  • 掲載日時 24 Sep 2012
  • 編集日時 06 Oct 2012
  • プリント数: 105
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私は戦時中に英国人の両親の元、スイスに生まれました。私の誕生時には、第一次世界大戦を集結させた最終的な平和条約がローザンヌにおいてトルコとの間で結ばれました。世界中を巻き込み、すべてを変えてしまった動乱は、一時的に収束を迎えました。その影響によって古い確信や道徳観は打ち砕かれました。私の家族の背景は血の葛藤による染みがありました。私が生まれたとき、父は既に67歳に達しており、彼はナポレオン・ボナパルトとの戦時下に生まれたのです。双方ともに兵士でした。

私には故郷くらいあっても良さそうなものですが、それすらもありませんでした。私はスイス生まれでしたが、スイス人ではありません。私の母はフランス育ちで、フランス人をこよなく愛しましたが、私はフランス人でもありませんでした。私は英国人だったでしょうか?そう感じたことは一度もありません。私の母は、英語は冷たい、愚かな、無性で知性も文化もない言語であることを、繰り返し述べ続けて来たのですから。私は彼らのようになりたくはありませんでした。では、私はどこに属していたのでしょうか?回想すると、この奇妙な少年時代は、イスラームを信仰するための良い布石だったのではないかと思えてきます。ムスリムはどこで生まれようと、どの人種であろうと、イスラームの地であるダールル=イスラームが故郷なのです。パスポートは現世と来世ともに、シンプルな信仰宣言である「ラー・イラーハ・イッラッラー」です。現世においては安全・安定性を期待すべきではなく、明日にでも死が訪れるかもしれないことを念頭に入れます。また、確固とした基盤はこの脆き地球には置かず、自存する御方に対して置くのです。

キリスト教に関してはどうだったでしょうか?父がもし信仰を持っていたとしても、彼は一度たりともそれについて語ったことはありませんでしたが、彼は90歳に近かった臨終の床で、こう尋ねました。「幸せな場所はあるんだろうか?」私の養育は、母に完全に委ねられていました。彼女は気質からも、無宗教とは言えませんでしたが、宗教的枠組みの中で育てられたにも関わらず、いわゆる宗教組織というものには至極批判的でした。彼女は一つのことに関しては確信的でした。それは、我が子に対しては自分自身の頭で考えさせ、決して二次的な意見を強制させない、ということです。彼女は私が宗教を「無理やり飲み込まされる」ことから、断固として守ろうとしました。彼女は我が家に仕えた家政婦たちに、私に宗教のことを言及しようものなら、その場で解雇になることを警告していました。私が5,6歳のとき、ある一人の若い女性により、母の命令は破られました。彼女の野望とは、アラビアで宣教師となり、多神教の「ムスリム主義」によって迷妄に陥っている不幸な人々の魂を救うのだというものでした。私はこのとき、初めてアラビアのことを耳にし、彼女はその謎めいた土地の地図を書いてくれました。

ある日、彼女は私をワーズワース刑務所を通る道の散歩に連れ出しました。おそらく私は行儀が悪かったのでしょう。彼女は私の腕を乱暴につかみ、刑務所の門を指差してこう言いました。「言う事を聞かないと、お空にいる赤毛の男があなたをあそこに閉じ込めるわよ!」私はこのとき初めて「神」について知りましたが、それは嫌なものでした。何らかの理由で、私は赤毛の男性を恐れており(そのことを彼女は知っていたのでしょう)、いたずら坊主に罰を与えるために空に住んでいるこの男に関しては、とても怖がっていたのを覚えています。私は家に帰るなり、母へその男について尋ねました。彼女が私を落ち着かせるために何と言ったかは覚えていませんが、若い女性は即座に首となりました。

やがて、大半の子供たちからはかなり遅れてスイスで学校に通いだし、14歳になると英国のカントゥルジオ会修道院で学びました。学校チャペルでの奉仕や、聖書のクラスから、キリスト教は私に影響を与えたでしょうか?それらは私だけでなく、級友たちにも全く影響を与えませんでした。それは驚くようなことでもありません。宗教は、人生と教育における一区分として限定されたような状況では、完全かつ効果的な形で生き延びることは出来ないのです。宗教とは全部か無かのどちらかしかあり得ないのです。つまり、それは全ての汚れた教えを小さく見せるか、それらによって小さくされるかのどちらかなのです。週に一度か二度、他のクラスでの勉強と同じように、聖書についても勉強しました。そこでは、私たちの教育のバックボーンを構成する、より重要な科目とは全く無関係であると捉えられていました。神は歴史的出来事に関わってはおらず、科学のクラスで学ぶ現象を定めたのでもなく、現在進行中の事象についても関わりはなく、「完全なる偶然によって」成立した世界は、地平線の彼方に存在したもの、またはしないものへの言及を抜きに理解を求められたのです。神は必要事に対する、余剰価値でしかありませんでした。

それに加え、私は自分が存在している意味について知る必要がありました。そうした必要性を人生の中のどこかで感じたことのある人たちだけが、空腹時の食欲や性欲にも似たその必要性を知っているのです。私は、自分がどこへ向かっているのか、そしてそれは何故なのかを知らずして前進する訳にはいきませんでした。私は、自らの行為が物事の枠組みにおいてどのような役割を果たすのかを理解しない限り、何もすることが出来ませんでした。私は、自分が何も知らないということを思い知らされたのです。つまり、何が本当に重要なのかが分からず、私は自分の無知さによって、濃い霧の中にいるかのように麻痺していたのです。

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