マリヤの子イエス(パート1/5):ムスリムもまた、イエスを愛しているのです
- より アーイシャ・ステイスィー(ゥ 2010 IslamReligion.com)
- 掲載日時 06 Dec 2010
- 編集日時 16 Dec 2018
- プリント数: 358
- 観覧数: 27,753
- 評価者: 130
- メール数: 0
- コメント日時: 0
キリスト教徒は度々、キリストとの関係強化と、自分たちの生活の中に彼を受け入れることについて話します。彼らはイエスが人間以上の存在であり、人類を原罪から解放するために十字架の上で死んだ、と主張しています。キリスト教徒は、イエスについて愛と尊敬の念を込めて話しますし、イエスが彼らの生活と心において特別な地位を占めていることは明らかです。では、ムスリムに関してはどうでしょうか?彼らはイエスに関してどう考え、イエスキリストはイスラームにおいてどのような地位を占めているのでしょうか?
イスラームに不慣れな人は、ムスリムもまたイエスを愛しているということを知ったら、驚くかもしれません。ムスリムは、敬意をもって「彼に平安あれ」という言葉を付け加えることなしには、イエスの名に言及することがありません。イスラームにおいてイエスは愛され、尊敬を受ける1人の男性であり、また唯一かつ真実の神への崇拝へと人々をいざなった使徒であり預言者なのです。
ムスリムとキリスト教徒は、イエスについて非常に似たいくつかの信仰を共有しています。いずれもイエスが処女マリヤから生まれ、イエスがイスラエルの民に遣わされた救世主だったことを信じています。また、最後の日にイエスが降臨することについても、両者は一致しています。しかし彼らは、一つの大きな問題に関して袂を分かつのです。ムスリムは、イエスが決して神などではなく、神の子でもなく、そして彼が三位一体の一部でもないことを信じているのです。
クルアーンの中で、神はキリスト教徒に直接こう語りかけています:
「啓典の民よ、あなた方の宗教において度を越してはならない。また神に対して、真理以外を口にしてもならない。実にマリヤの子メシア・イエスは神の使徒であり、かれがマリヤに授けたかれの御言葉であり、かれによって吹き込まれた魂である。ゆえに神とその使徒たちを信じるのだ。そして3つ(からなる神性)などと言ってはならない。やめるのだ。それがあなた方のために最善である。神は崇拝すべき唯一の存在。かれは子供を持つなどということから、無縁な崇高なるお方である。かれにこそ天地にある全ては属する。かれこそは守護者として十全なるお方。」(クルアーン 4:171)
イスラームは断固として、イエスの神性を否定します。また人間がいかなる形であっても原罪を背負って生まれる、などという概念も拒否します。クルアーンは、人間が他人の罪を背負うことなど不可能であり、かつ全人は神の前で自らの行為に責任を有するのだ、と述べているのです。「荷を負う者は、他の者の荷まで負わされることはない」(クルアーン 35:18)のです。しかし神はその無尽蔵の慈悲と英知ゆえに、人類を彼ら自身の思うがままにして放任したりはしませんでした。神は、かれの命令に則った崇拝や生活の仕方を伝える指針と法を下したのです。ムスリムは全ての預言者を信じ、愛することを要求されています。彼らの内の誰かを拒否することは、イスラームの信条を拒否することなのです。イエスは、人々を唯一の神の崇拝へといざなった、この預言者と使徒の長い系譜の中の1人に過ぎません。また彼は、当時正しい道から迷い去っていたイスラエルの民だけに遣わされたのです。イエスは言っています:
「そしてトーラーなど私以前のものを確証し、あなた方に禁じられたある種のものを合法化するために(あなた方の下に遣わされた)。私は、あなた方の主よりのみしるしを携えて、あなた方の下に到来したのだ。ゆえに神を畏れ、私に従うがよい。神こそは、私とあなた方の主。かれを崇拝するのだ。それこそは真っ直ぐな(正しい)道なのである。」(クルアーン 3:50−51)
ムスリムはイエスを愛し、尊敬します。しかし私たちはクルアーンと預言者ムハンマドの言葉によって、彼と私たちの生活における彼の役割を理解するのです。クルアーンの3つの章の中で、イエスと彼の母親マリヤ、そしてその家族の生活が描写されています。そしてそのいずれも、新約聖書の中には見出せない詳細を明らかにしています。
預言者ムハンマドは、何度もイエスに関して語っています。ある時は彼を、自分の兄弟と描写したこともありました。
「私はマリヤの子に最も近しい者である。そして全ての預言者は父系兄弟であり、彼と私の間にはいかなる預言者も挟んでいない。」(サヒーフ・アル=ブハーリーによる伝承)
それではイスラームにおけるイエスの卓越した地位を理解するために、イスラームの典拠に依拠したイエスの話を続けましょう。
最初の奇跡
「そして彼(イエス)を人々へのみしるしと、われらからの慈悲とすべく(彼を遣わした)。それは既に決定されていたことなのである。」(クルアーン 19:21)
マリヤはイエスを妊娠し、臨月間際になると家族から離れ、ベツレヘムの方へと旅立ちました。そしてナツメヤシの木の下で、息子イエスを産んだのです。[1]
休養し、一人での出産による痛みと恐怖から回復すると、マリヤは彼女の家族のもとに帰らなければならないことを悟りました。マリヤは子供を包み、腕の中で彼をあやしながら、恐れていました。一体どうやって、人々に息子の出産のことを説明出来るでしょう?彼女は神の言葉を念じながら、エルサレムへの帰路につきました。
「言うのだ、「私は最も慈悲深いお方に、斎戒を誓いました。それで今日は、人とは話せないのです。」それから彼女は、彼を抱いて民のもとにやって来た。」(クルアーン 19:26−27)
神は、マリヤが説明しようとしても、人々が彼女を信じようとはしないことをご存知でした。それで神はその英知により、彼女には喋らないよう伝えたのです。そしてマリヤが人々に近づくやいなや、彼らは彼女を非難し始めました。しかし彼女は、賢明なる神の指示に従い、応答を拒否したのです。この羞恥心に溢れた貞淑な女性は、腕の中の赤ん坊を指差すだけでした。
マリヤを囲んだ男女の群集は、不信そうに彼女を眺め、一体どうして腕の中の赤ん坊に話すことなど出来るのか、尋ねました。すると神のお許しにより、まだ赤ん坊であったマリヤの子イエスが最初の奇跡を行なったのです。 彼はこう話しました:
「彼は言った:“私は本当に、啓典を授けられた神のしもべである。かれは私を、預言者とされた。またかれは、私がどこにいようと祝福に溢れた者とされたのだ。かれは私が生ある限り、礼拝と浄財を行なうようご命じになられた。また私を母親に対する孝行者とされ、高慢で不幸な者とはされなかった。私が生まれた日と、私が死ぬ日、そして私が審判の日に生きたまま蘇らされる日の私に、平安あれ。”彼こそはマリヤの子イエス。彼らが疑念を抱いている、真実の言葉なのである。」(クルアーン 19:30−34)
ムスリムは、イエスが神のしもべであり、当時のイスラエルの民に遣わされた使徒であったことを信じています。そして彼は、神のご意思と許可を得て、数々の奇跡を起こしたのです。以下に示す預言者ムハンマドの言葉は、イスラームにおけるイエスの重要性を明確に要約しています:
「神の他に崇拝すべきいかなるものもなく、かれにはいかなる共同者や同位者もないこと、またムハンマドがそのしもべであり使徒であること、そしてイエスがそのしもべであり使徒であり、かつ神がマリヤに下した御言葉であり、かれによって創られた魂であること、また天国と地獄が真実であることを証言する者は、天国の8つの扉の好きな所から入ることを許されるのだ。」(サヒーフ・アル=ブハーリーとサヒーフ・ムスリムによる伝承)
マリヤの子イエス(パート2/5):イエスのメッセージ
- より アーイシャ・ステイスィー(ゥ 2010 IslamReligion.com)
- 掲載日時 06 Dec 2010
- 編集日時 06 Dec 2010
- プリント数: 335
- 観覧数: 24,724
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
私たちは既に、マリヤの息子イエス、あるいはムスリムの呼び方で言えばマルヤムの子イーサーが、マリヤの腕に抱かれながら最初の奇跡を行なったことを、立証しました。神の許しと共に彼は喋りましたが、その最初の言葉は「私は神のしもべである。」(クルアーン 19:30)でした。彼は「私は神である」とはおろか、「私は神の御子である」とさえも言わなかったのです。彼の最初の言葉は、彼のメッセージの基礎とその使命‐人々を、一つの神の純粋な崇拝へと呼び戻すこと‐を立証しているのです。
イエスの時代、1つの神という概念は、イスラエルの子孫にとって別段新しいことではありませんでした。トーラーは、こう宣言しています:「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)しかし神の啓示は誤って翻訳され、乱用され、人々の心は硬化してしまいました。イエスは物質主義と豪奢さの生活に陥っていたイスラエルの子孫の首長らを告発し、トーラーの中に見出される既に改変されていたモーゼの法を支持すべく、到来したのです。
イエスの使命はトーラーを確証し、以前には違法とされていた物事を合法化し、また唯一の創造主への信仰を宣言すると共に再確認する、というものでした。預言者ムハンマドは、こう言っています:
「全ての預言者は、その民のもとのみに遣わされた。しかし私は、全人類に遣わされたのである。」(サヒーフ・アル=ブハーリーによる伝承)
こうしてイエスは、イスラエルの民に遣わされたのです。
神はクルアーンの中で、かれがイエスにトーラーと福音、そして英知を教示するであろう、と述べています:
-そしてかれ(神)は、彼に筆記と英知とトーラーと福音書をご教示になるであろう。,(クルアーン 3:48)
イエスは効果的に彼のメッセージを広めるためトーラーを理解し、かつ神から彼自身への啓示‐インジール、あるいは福音書を授けられました。神はまた、数々のみしるしと奇跡をもって人々を導き、影響を与えるための能力も与えました。
神はその全ての預言者を、奇跡でもってサポートしました。そしてその奇跡は、預言者たちが導きのために遣わされた民の注目を引き、かつ効果的なものだったのです。イエスの時代、イスラエルの民は医学の分野に非常に精通していました。従って、イエスが神の許可のもとに行なった奇跡は、この性質のものでした。彼は盲人に視力を与え、ハンセン病患者を治療し、死者を蘇らせました。神はこう仰います:
「…またあなたがわが許しと共に、生まれつきの盲人とライ病患者を治療した時。」(クルアーン 5:110)
幼少のイエス
「“私はあなた方のために、泥土で鳥の形を作り、そこに息を吹き込もう。そうすれば、それは神のお許しと共に鳥となる。”」(クルアーン 3:49)
初期のキリスト教徒によって書かれた一連のテキストの内の1つ「トマスによる幼少時のイエス」の中でも、この話は言及されています。但しこの話は、旧約聖書の教義には受け入れられませんでした。そこでは粘土で鳥を作り、そこに命を吹き込む若いイエスの話の詳細に触れられています。その話は魅惑的なのですが、ムスリムはクルアーンと預言者ムハンマドの伝承に言及されている通りにのみ、イエスのメッセージを信じます。
ムスリムは、神が人類に啓示した全ての啓典を信じなければなりません。しかし現存する聖書は、預言者イエスに啓示された福音書ではないのです。神がイエスに授けた言葉と智恵の数々は紛失し、隠蔽され、改変・改竄されてしまいました。「トマスによる幼少時のイエス」が聖書外典の文献とされていることこそは、このことに対する証拠の一つです。西暦325年、皇帝コンスタンティヌスは世界中の司教からなる会議を召集することにより、分裂していたキリスト教会を統一しようとしました。この会議はニケア公会議として知られているもので、それが残した遺産といえばそれ以前にはなかった三位一体という教義と、270から4000に渡る福音書の損失でした。評議会は、新しい聖書に値すると見なされない全ての福音書を焚書にするよう命じましたが、「トマスによる幼少時のイエス」もその内の一つでした[1]。しかし多くの福音書の写本は生き延び、聖書の中には含まれてはいなくても、その歴史的意義において評価されているのです。
クルアーンが私たちを解放する
ムスリムは、イエスが間違いなく神から啓示を授かったということを信じます。しかし彼は一語たりとも自ら書き留めてはおらず、またその弟子たちに筆記を指示したりもしませんでした3。ムスリムはキリスト教の書を立証したり、反証したりする必要はありません。クルアーンが私たちを、現存している聖書が神の言葉か、イエスの言葉か、などということを知る必要から解放してくれているのです。神は仰っています:
「かれこそは真理をもってあなたに、それ以前のものを確証する啓典を下されたお方。」(クルアーン 3:3)
またこうも仰っています:
「そしてわれら(神のこと)はあなたに、真実をもって(クルアーン)を下した。それはそれ以前の諸啓典を確証し、かつ従属させるものである。ゆえに神が下されたものでもって彼らの間を裁くのだ。」(クルアーン 5:48)
トーラーや福音書の中でムスリムが知って有益になるものは全て、クルアーンの中に明確に記載されています。過去の啓典において存在した全てのよきものは、現在クルアーンの中に見出すことが出来るのです[2]。現存している新約聖書の言葉でクルアーンの内容と一致しているものは、改竄されたり紛失したりしていないイエスのメッセージの一部である可能性があります。イエスのメッセージは、神の全ての預言者がその民に伝えたメッセージと同一のものでした。つまり「あなた方の神は唯一である。ゆえにかれのみを崇拝せよ。」というものだったのです。神はクルアーンの中で、イエスの話についてこう仰っています:
「実にこれは真実の話である。そして神の他に、崇拝に値するものなど存在しないのだ。神こそは、この上なく威光高く、英知に溢れたお方である。」(クルアーン 3:62)
マリヤの子イエス(パート3/5):その弟子たち
- より アーイシャ・ステイスィー(ゥ 2010 IslamReligion.com)
- 掲載日時 13 Dec 2010
- 編集日時 13 Dec 2010
- プリント数: 457
- 観覧数: 24,585
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
クルアーンの第5章は、アル=マーイダ(食卓)章と名付けられています。この章は、イエスと彼の母親マリヤの人生を広く取り扱っている、クルアーンの中の3つの章の内の一つです。尚残りの2つは第3章のアーリ・イムラーン(イムラーン家)章と、第19章のマルヤム(マリヤ)章です。ムスリムはイエスを愛し、彼の母親に敬意を表しますが、彼らを崇拝することはしません。しかしムスリムが神の直接的な言葉と信じているクルアーンは、イエスと彼の母マリヤ、そして彼らの家族全体にまで非常に高い敬意を示しています。
私たちは、イエスがイスラエルの人々の間で長年暮らし、彼らを唯一・真実の神への崇拝に回帰することへといざない、神の許しのもとに奇跡を行なっていたことを知っています。しかし彼の周囲の多くの人々は彼の呼びかけを拒否し、彼のメッセージに耳を傾けることが出来ませんでした。しかしイエスの周りには、アラビア語でアル=ハワーリーユーン(イエスの弟子たち)と呼ばれる、彼の仲間のグループが集まっていました。
神はクルアーンの中で仰ります:
「そしてわれが弟子たちに、われとわが使徒を信じよ、と示唆した時のこと(を思い出せ)。彼らは言った:“私たちは信じました。私たちが(あなたのご命令に)服従する者(ムスリム)であることを、証言して下さい。”」(クルアーン 5:111)
弟子たちは自分自身をムスリムと言及しました。イスラームという宗教がこの600年後に啓示されることになるというのに、これは一体どういうことでしょうか?神は一般的な意味としての「ムスリム」に言及したに違いありません。ムスリムとは、誰であれ唯一の神とかれへの服従を受け入れ、かつ神への忠誠心を示しますが、特別な意味においては信仰者のことを表します。またムスリムとイスラームという語は同じアラビア語の語源‐サラマ‐に由来しますが、それは平和と安全(サラーム)が神への服従に付随するものであるためです。従って、神の全ての預言者とその信者は、ムスリムであると理解することが出来ます。
食べ物の盛られた食卓
イエスの弟子たちは、イエスにこう言いました:
「“マリヤの子イエスよ、あなたの主は、天から私たちに(食べ物の盛られた)食卓を下すことが出来ますか?”」(クルアーン 5:112)
彼らはイエスに奇跡を起こすことを求めていたのでしょうか?自らをムスリムと呼ぶイエスの弟子たちが神の力と、神が望みのままに奇跡を授けるということに疑念を覚えたのでしょうか?そのようなことは不信仰的な行為であるゆえ、そうではなかったに違いありません。イエスの弟子たちは、果たしてそれが可能であるかを尋ねたのではなく、イエスがその特定の時間に神に祈り、食べ物を授けてもらうことが出来るかどうかを尋ねたのです。しかしイエスは、別な風に考えました。彼はこう答えました:
「“信仰者なら、神を畏れなさい。”」(クルアーン 5:112)
彼らはこのイエスの反応を見ると、彼らの言葉について説明しようと試みました。まず彼らは、こう言いました:「私たちはそこから食べたいのです。」
彼らは非常に空腹で、神が彼らの必要を満たしてくれることを望んでいたのかもしれません。神は全ての糧を分配する唯一の供給者であるゆえ、神に糧を求めることは問題のないことです。次いで、弟子たちはこう言いました:「そして、心を落ち着けたいのです。」
彼らは自分の眼で奇跡を見ることにより、彼らの信仰心が更に強くなるということを意図していました。そしてこのことは、彼らの最後の言明で証明されます:「そしてあなたが私たちに語ったことが本当であることを知り、その証人になりたいのです。」
最後に言及したこととは言え、真実とそれを支える証拠である奇跡を目にすることは、彼らの要求に対する最大の正当な理由です。弟子たちは彼らが全人類に対する証人となるべく、イエスが神のお許しのもと、奇跡を実行することを依頼しました。弟子たちは、彼らが自分の目で目撃した奇跡を宣言することにより、イエスのメッセージを伝えたかったのです。
「彼らは言った:“私たちはそこから食べ、心を落ち着けたいのです。そしてあなたが私たちに語ったことが本当であることを知り、その証人になりたいのです。”マリヤの子イエスは言った:“神よ、私たちの主よ。あなたからのみしるしとして、そしてそれを私たちの内の最初の者と最後の者の祭日とすべく、私たちのために天から食卓をお与え下さい。そして私たちに糧をお授け下さい。あなたこそは最もよく糧を授けられるお方なのですから。”」(クルアーン 5:113−114)
イエスは奇跡を願いました。彼は神に、食物の盛られた食卓が下されることを祈りました。イエスはまた、それが彼ら全員のためのものであり、かつそれが祝宴となることをも求めました。クルアーンで使用されているこのアラビア語は、繰り返し行なわれる祭りや祝祭を意味する「イード」です。イエスは、彼の弟子たちと彼らの後の世代の者たちが神の祝福を想起し、感謝深くあるよう望んだのです。
私たちは預言者やその他の廉直な信仰者の祈願の言葉から、多くのことを学びます。イエスの祈りは、食物と一緒に食卓が下されることだけではなく、神が彼らに糧を授けてくれることゆえのものだったのです。食事というものが最高の供給者である神から授けられる糧のほんの一部であることから、彼はそれを分かり易い形にしただけなのです。神からの糧は食料や住みか、知識などに限定されず、全ての生活必需品を包含します。神はイエスの祈りに、こう答えました:
「“われは、それをあなた方に下そう。ゆえに、その後に及んであなた方の内の者が不信仰に陥るのであれば、われはその者を罰するであろう。全世界のいかなるものも、そのように罰したことのない罰し方でもって。”」(クルアーン 5:115)
知識は責任である
神の返答が非常に絶対的なものであった理由は、もし神からのみしるしや奇跡を与えられた後に及んで人が不信仰に陥るのであれば、それは奇跡を見ることなしに不信仰に陥ることよりも悪いということによっています。それはなぜでしょうか?一度奇跡を見れば、人は直に神の全能性に関する知識を得ると共に、理解することになるからです。人は知識を持てば持つほど、神の前でより多くの責任を有することになるのです。みしるしを目にしたら、それを信じ、神のメッセージを広めるという義務がより大きくなります。神は食物の盛られた食卓を下すことで、イエスの弟子たちが自ら課した大きな責任を自覚するよう命じたのです。
食卓の日はイエスの弟子とその信者たちにとっての祝宴と祭典になりましたが、時間が経つにつれ、その奇跡の本当の意味と本質は失われてしまいました。そして最終的に、イエスは神として崇拝されるようになってしまいます。全人類が神の前に立つ復活の日、イエスの弟子たちはイエスの真のメッセージを知ったことにおける大きな責任を負うことになるでしょう。神はイエスキリストに、こう直接語りかけています:
「“マリヤの子イエスよ、あなたは人々に、“神の他に、私と私の母親を2つの神とせよ。などと言ったのか?”彼(イエス)は言った:“崇高なるお方よ。私には、自分に権利がないようなことを言うことなど、許されてはおりません。もしそのようなことを言ったとしたら、あなたはそのことをご存知です。あなたは私の心の内をご存知ですが、私はあなたが秘められたことについては存じ上げません。実にあなたは、不可知の領域をご存知のお方であられます。私が彼らに言ったことは、私の主であり、あなた方の主であられる神を崇拝せよ、とあなたが私に命じられたこと以外の何ものでもありません。”」(クルアーン5:116−117)
また私たちの内、最後の預言者ムハンマドを含む全ての預言者によって広められたものと同一のものである、イエスの真のメッセージの祝福を受けた人々もまた、復活の日に大きな責任を負うことになります。
マリヤの子イエス(パート4/5):イエスは本当に死んだのか?
説明: この記事では、イエスの磔刑に関するムスリムの信仰について大まかに説明すると共に、人類の原罪ゆえにイエスが犠牲を払う必要があったという観念を否認します。
- より アーイシャ・ステイスィー(ゥ 2010 IslamReligion.com)
- 掲載日時 13 Dec 2010
- 編集日時 13 Dec 2010
- プリント数: 330
- 観覧数: 34,447
- 評価者: 133
- メール数: 0
- コメント日時: 0
イエスが十字架の上で死んだ、という観念は、キリスト教の信仰の中核です。それは、イエスが人類の罪のために死んだという信念を表しています。イエスの磔刑はキリスト教の中の重要な教義ですが、ムスリムはそれを完全に拒否します。イエスの磔の刑に関するムスリムの信仰をご説明する前に、ここで原罪の概念に対するイスラーム的見解を理解しておいた方が有益かもしれません。
アダムとイブが楽園で禁じられた木の実を食べたのは、蛇による誘惑のためではありませんでした。彼らを騙し、そそのかしたのは悪魔だったのです。そしてその際、彼らは自らの自由意志を用い、判断ミスをしました。イブだけがこの間違いにおいて責任を負うわけではありません。アダムとイブは、共に神に対する不服従を認識し、反省し、神の赦しを乞いました。そして神はその無限の慈悲と英知でもって、彼らを赦したのです。イスラームに原罪の概念はありません。各人は自らの行いに対してのみ、責任を負うのです。
「荷を負う者は、他の者の荷まで負わされることはない。」(クルアーン 35:18)
神であれ、その息子であれ、あるいは神の預言者であれ、人類の罪の贖罪のために自らを犠牲にする、などという必要はありません。イスラームは、このような見解を完全に拒否します。イスラームの基礎は、私たちが神以外の何ものも崇拝しない、ということを確信をもって知ることのもとに成り立っています。そして罪の赦しは、唯一の真の神のみによってなされるものですから、人が罪の赦しを乞う際には、真摯な反省をもって従順に神のもとに立ち返り、罪の赦しを乞い、二度とその罪を繰り返さないように約束しなければなりません。このようにしてのみ、罪というものは赦されるのです。
原罪と赦しに関するイスラームの理解を見てみれば、イスラームにおいては、イエスが人類の罪を贖うために到来したのではないと教えられていることが分かります。むしろ彼の目的は、それ以前の預言者たちのメッセージを再確認することだったのです。
「…神の他に、崇拝に値するものなど存在しないのだ…」(クルアーン3:62)
ムスリムは、イエスが磔刑にされたとも、また彼が死んだとも信じてはいません。
磔刑
イエスのメッセージは、ローマ帝国の権力者たち同様、イスラエルの民の多くからも拒否されました。彼の弟子として知られている信者たちは、彼の周りに小さな集団を作っていました。イスラエルの民はイエスに対して共謀し、彼を暗殺する計画を立てました。彼は、ローマ帝国で良く知られていた身の毛もよだつ特定の方法で、公開処刑される予定でした。つまり磔の刑です。
磔の刑は、恥ずべき死に方と見なされていました。そしてローマ帝国の「市民」は、この懲罰から免除されていました。それは死の苦痛を長引かせることだけではなく、身体の切断をも意図して創案されたのです。イスラエルの民は彼らのメシア、神の使者イエスに対し、この屈辱的な死を計画していました。しかし神はその無限の慈悲でもって、イエスに似ている者と彼を取り替え、この忌まわしい出来事を防止されたのです。そしてイエスは生きたまま、その肉体と魂と共に天国に召されました。クルアーンは取り替えられた人物に対しての詳細について何も語ってはいませんが、私たちは確信をもって、それが使徒イエスではなかったことを信じ、また知っているのです。
ムスリムは、神の崇拝と、神の命令に沿っての生き方において人間が必要とする全ての知識は、クルアーンと預言者ムハンマドの正統な伝承の中に含まれていると信じています。従って、そこに細かい詳細が説明されていないということは、神がその英知によって、そのような詳細は私たちにとって何のメリットもないと判断されたためなのです。クルアーンは神ご自身の言葉によって、イエスに対しての彼らの策略と、神によるその破棄、そしてイエスの昇天について説明しています。
「彼らは策謀したが、神も策謀された。しかし神こそは最高の策謀者であられる。」(クルアーン 3:54)
「また彼らの、“私たちは、神の使徒であるマリヤの息子、メシア・イエスを殺したのだ。”という言葉ゆえに(呪った)。彼らは彼のことを殺してもいなければ、磔刑にもしていない。彼に似た者を彼と思い込んだだけなのだ。彼について(見解を)異ならせている者たちは、実に疑念の中にある。彼らはそのことについて(確実な)知識もなく、ただ単に推測に従っているに過ぎない。彼らは決して、彼のことを殺してなどいないのだ。いや、神は彼を、かれの御許に上げられたのである。神は威光高く、この上なく英明なお方。」(クルアーン 4: 157−158)
イエスは死んでいない
イスラエルの民とローマ権力は、イエスを害することが出来ませんでした。神は、神自身がイエスをその御許へと召し、イエスの名において行なわれた虚偽の言明を暴露しています。
「“イエスよ、われはあなたを召し、われのもとに上げ、不信仰者たちから清めよう。”」(クルアーン 3:55)
上の節では、神がイエスを「召される」際に、「ムタワッフィーカ(mutawaffeeka)」という言葉を用いられています。アラビア語の豊富さに対する明確な理解と、多くの単語の意味のレベルに関する知識なしには、神の意図を誤解する恐れがあります。現代アラビア語において、「ムタワッフィーカ(mutawaffeeka)」は時に死亡を、また時には睡眠を示すことがあります。しかしクルアーンのこの句の中では、神がイエスを完全にかれの御許に召された、という語本来の包括的な意味で用いられています。従って、彼は昇天の際にはいかなる損傷もなく、肉体と魂と共に生きた状態であったのです。
ムスリムは、イエスが死んではおらず、審判の日の前の最後の日々にこの世に戻って来ることを信じています。預言者ムハンマドは、彼の教友たちに、こう言いました:
「マリヤの子イエスがあなた方のもとに降臨し、福音の法ではなくクルアーンの法によって人々を裁くことになる時、あなた方はどうなるのか?」(サヒーフ・アル=ブハーリーによる伝承)
神はクルアーンの中で、審判の日が必ず訪れる日であることを、私たちに確認します。またイエスの降臨は、それが間もなく到来することの予兆の一つであることに、警告を放つのです。
「実に彼は、(審判の)時の予兆の一つである。ゆえにそこにおいて疑念を抱かず、われに従うのだ。これこそは真っ直ぐな道である。」(クルアーン 43:61)
このように、イエスの磔と死に関するイスラームの信仰は明快です。イエスを磔にする姦計があったもののそれは失敗し、彼は死ぬことなく昇天したのです。そして彼は審判の日が起こるまでの最後の日々にこの世に回帰し、そのメッセージを継続するのです。
マリヤの子イエス(パート5/5):啓典の民
説明: ムハンマドの到来以前のイエスとその追随者に対するクルアーン用語「バヌー・イスラーイール(イスラエルの子ら)」と「イーサー(イエス)」、そして「アフルル=キターブ(啓典の民)」に関しての概観。
- より アーイシャ・ステイスィー(ゥ 2010 IslamReligion.com)
- 掲載日時 20 Dec 2010
- 編集日時 20 Dec 2010
- プリント数: 348
- 観覧数: 29,144
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
ムスリムのマリヤの子イエスに対する信仰について読み、理解した後、説明を要するいくつかの問題が浮かんできます。皆様は「啓典の民」という言葉をお読みになっても、その概念が明確に理解出来ていないかもしれません。また同様に、イエスについて利用可能な文献を探す際に「イーサー」という名前に遭遇し、それが果たしてイエスと同一人物かどうかを疑問に思われた方もいるかもしれません。しかしもう少し探索してみるか、クルアーンを読むかしてみれば、以下の点に関心が向けられるでしょう。
イーサーとは誰か?
イーサーとはイエスのことです。発音上の違いゆえに、多くの人はムスリムがイーサーのこと‐つまりイエスのことを話している時、そのことに気付かないのかもしれません。イーサーの綴りは(英語で)、Isa, Esa, Essa, Eissaなど、複数の形をとることがあります。アラビア語はアラビア文字で書かれるものですから、いかなる字訳システムでもそれを音に沿って再現しようと試みます。そして綴りの形は同あれ、それら全ては神の使徒イエスのことを示しているのです。
イエスとその民は、セム系アラム語を話していました。それは中東、北アフリカ、アフリカ東北部などで、300万人以上の人によって話されていた言語です。尚、セム語にはアラビア語とヘブライ語なども含まれます。イーサーという語は、アラム語でイエスを意味するEeshuにより近いと言えるでしょう。またヘブライ語では、ヨシュア(Yeshua)と訳されています。
イエスの名前を非セム系の言語に訳することは、少々複雑です。14世紀まで、「J」という文字はいかなる言語にも存在しませんでした[1]。従って、イエスという名がギリシャ語に翻訳された時、それはIesousとなり、ラテン語においてはIesusとなったのです[2]。その後、"I"と"J"は交互に使用されるようになりました。そして最終的に、英語ではJesusと訳されたのです。最後の"S"は最後にギリシャ語において、男性名詞に付属する文字です。
アラム語 |
アラビア語 |
ヘブライ語 |
ギリシャ語 |
ラテン語 |
英語 |
Eeshu |
Eisa |
Yeshua |
Iesous |
Iesus |
Jesus |
啓典の民とは誰のことか?
神が啓典の民に言及する時、それは主にユダヤ教徒とキリスト教徒のことを表しています。クルアーンの中でユダヤ教徒は、バヌー・イスラーイール、つまり逐語的にはイスラエルの子ら、あるいはイスラエル人と呼ばれています。これらの特別な集団は、トーラーと福音の中で啓示された神の啓示に従っているか、あるいは過去に従っていました。またユダヤ教徒とキリスト教徒が、聖典の民、と呼ばれるのをお聞きになられたこともあるかもしれません。
ムスリムは、クルアーン以前の啓典が古代において紛失したり、改竄されたり、歪曲されたりしたのだ、と信じています。そして同時にモーゼとイエスの真の追随者は、唯一の神のみを真の従順さでもって崇拝するムスリム達である、ということも認識しています。マリヤの子イエスは、モーゼのメッセージを確証し、イスラエルの子らを正しい道へと回帰させるために到来しました。ムスリムはユダヤ教徒たちがイエスの使命とメッセージを否定し、一方のキリスト教徒は不当にも彼を神の地位にまで高めた、という風に信じています。
「言え、“啓典の民(キリスト教徒)よ、あなた方の宗教において不当にも度を越してはならない。またそれ以前に迷い去り、多くの人々を迷わせ、正しい道から迷い去った者たちの私欲に追従してはならない。”」(クルアーン 5:77)
私たちは既に前の章で、クルアーンがいかに預言者イエスと彼の母親マリヤを重点的に扱っているかということを論じてきました。しかし一方でクルアーンはその多くの句において、啓示の民、特にキリスト教徒と自称する人々に対して直接語りかけています。
キリスト教徒とユダヤ教徒は、ムスリムが唯一の神を信じているという理由だけのために、彼らを批判しないよう注意されています。またキリスト教徒(キリストの教えに従う人々)とムスリムの間には、イエスとその他全ての預言者への愛情と敬意のように、多くの共通点があることにも注意を喚起しています。
「…またあなた方は、信仰者たちに最も親愛の念を示す者たちが、“私たちはキリスト教徒である”と言う者たちであることを見出すであろう。それは彼らの内に修道僧や学僧がおり、また高慢ではないためである。そして彼らが使徒に下されたもの(クルアーン)を聞けば、あなたは彼らが真理を知ったがゆえにその眼を涙で溢れさせるのを見るであろう。彼らは言う:“われらが主よ、私たちは(彼に下されたものを)信仰しました。私たちを(審判の日、それが真理であると)証言する者たちと共に書き留めて下さい…。”」(クルアーン 5:82−83)
マリヤのイエスの息子と同様に、預言者ムハンマドもまた、彼以前の全ての預言者のメッセージを確認するために到来しました。つまり、唯一の神のみの崇拝へと、人々を誘うことです。但し彼の使命は、彼以前の他の預言者(ノア、アブラハム、モーゼ、イエスなど)と一つだけ異なる点がありました。彼以前の全ての預言者たちは彼らの時代の、彼らの民のもとに遣わされたのですが、預言者ムハンマドは全人類へと遣わされたのです。預言者ムハンマドの出現とクルアーンの啓示は、啓典の民に啓示された宗教を完了させました。
神はクルアーンの中で、次のように言って啓典の民をいざなうよう語りかけています:
「言え、“啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)よ、私たちとあなた方との間の正義の言葉へとやって来るのだ。(その言葉とは:)私たちが神以外の何ものをも崇拝せず、かれに何ものをも並べたりしないこと。そして神を差し置いて、自分たちの内の誰かを主としたりしないこと。”」(クルアーン 3:64)
また預言者ムハンマドはその教友に、次いで全人類に対してこう言いました:
「私はいかなる者よりも、マリヤの子に最も近しいのだ。そして全ての預言者は兄弟であり、私とイエスの間には誰もいない。」
また、こうも言っています:
「イエスを信じていた者が私を信じれば、倍の報奨を得るであろう。」(サヒーフ・アル=ブハーリーによる伝承)
イスラームは平和と尊重、寛容さの宗教です。それは他宗教、特に啓典の民に対し、公正かつ同情的な態度を適用するのです。
コメントを付ける