マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(3/5)
説明: マーガレットは、クルアーンが彼女の人生に与えた影響について語ります。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 28 Apr 2014
- 編集日時 28 Apr 2014
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Q:どのような形で、聖クルアーンはあなたの人生に影響を与えたのですか?
ある夕方、私が寝不足でひどく疲れていたとき、部屋に来た母が、図書館ヘ行くから何か欲しい本はないかと聞いてきました。そのとき私は聖クルアーンの英訳があるかどうか見てきてくれないかと頼みました。数年に渡るアラブへの情熱、そして彼らに関するすべての図書館の本を読み尽くした後も、なぜかそれまでは聖クルアーンについて読んでみようとも思わなかったのです。母はその一冊を手に帰宅しました。私は嬉しさのあまり、文字通り彼女の手からそれをもぎ取り、一晩中読み漁りました。そこには幼少の頃から慣れ親しんだ、バイブルの逸話があちこちにありました。
8年間の初等学校、4年間の中等学校、そして1年間の大学生活において、私は英文法・作文、現代フランス語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語、算数、幾何学、代数、ヨーロッパとアメリカの歴史、初等科学、生物学、音楽、美術を習いましたが、神については全く習わなかったのです。私による神への無知さは、ペンフレンドだったパキスタン人の弁護士との対話のなかで、私が無神論者なのは「神が天の王座に腰をおろす、長く白い髭をはやした老人だということを信じることが出来ないから」と告白させたほどでした。そのようなでたらめをどこで学んだのかと聞かれた私は、ライフ誌でミケランジェロの「創造」と「原罪」の、システィーナ礼拝堂の描写で見たのだと答えました。私はメトロポリタン美術館で友人と見た、老人としての神の肖像画や、キリストの十字架の絵画について説明しました。聖クルアーンにはこのように述べられています。
“アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは、かれの有である。かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、この2つを守って、疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。”(クルアーン2:255)
“しかし信仰のない者は、そのすることなすこと、砂漠の中の蜃気楼のようなもので、渇き切った者には水だと思われる。だがやってくれば何も見出せない。そこではアッラーの御前であり、かれの勘定が払われることを知るであろう。アッラーは清算に迅速であられる。また(不信者の状態は)、深海の暗黒のようなもので、波がかれらを覆い、その上に(また)波があり、その上を(更に)雲が覆っている。暗黒の上に暗黒が重なる。かれが手を差し伸べても凡んどそれは見られない。アッラーが光を与えられない者には、光はない。”(クルアーン24:39−40)
聖クルアーンを読んだ後の私の最初の感想は、これは完全に真摯かつ誠実で、それは安っぽい妥協や偽善を一切許さない唯一の真の宗教に違いない、というものでした。
1959年、私は余暇の殆どをニューヨーク公立図書館での読書に費やしていました。私はそこでミシュカート・アル=マサービーフの英訳全4巻を見つけました。それによって、私は聖クルアーンの正しく詳細な理解は、それに関連したハディースの知識なくしては可能ではないということを知ったのです。聖典の正しい解釈は、それが啓示された預言者以外には出来ないのです。
ミシュカートを勉強した私は、聖クルアーンを神の啓示として認め始めました。クルアーンが神によるものであり、ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)による創作ではないことを納得させたのは、そこ以外では見つけることの出来なかった、人生における重要な諸問題への納得のいく答えでした。
子供だった私は、死を異常なまでに恐れていました。特に自らの死については悪夢を見る程で、夜中に泣きじゃくりながら両親を起こしに行くこともありました。なぜ死ななければならないのか、そして死んだ後には何が起こるのかを彼らに問うと「それは避けられない運命だから受け入れるしかないんだよ。でもお前はまだとても若いし、医学は常に進歩し続けているから、ひょっとすれば100歳まで生きられるかもしれないよ」と言いました。両親、家族、そして私たちの友達は皆、来世を迷信とし、審判の日、天国での報奨または地獄での懲罰を時代遅れの概念と見なして頭ごなしに否定しました。私は来世の概念についての明確な根拠を求めて旧約聖書の全章を探しましたが、その努力は徒労に終わりました。そこでの預言者たち、長老たち、賢人たちは皆、現世でのみ報奨と懲罰を受けています。ヨブ(アイユーブ)の逸話はその代表格です。神は彼の愛する人々、所有物をすべて破壊し、さらに恐ろしい病によって彼の信仰を試しました。ヨブは悲しみのなかで、なぜ誠実たる者が苦しまなければならないのかと嘆きました。その逸話の最終的に、神は彼の現世での損失をすべて回復させますが、そこでは来世での帰結の可能性についてはまったく言及されていないのです。
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