サナー エジプト出身の元キリスト教徒(前半):幼少期の疑問
説明: 伝統的キリスト教徒の少女が自らの信仰に疑問を抱き、クルアーンを読み始めます。
- より サナー
- 掲載日時 06 Oct 2014
- 編集日時 05 Oct 2014
- プリント数: 29
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サナーは、長い疑念と苦悩の旅路の末に、神が真の宗教へと導いたエジプト人キリスト教徒の女性です。以下は彼女による改宗記です。
私は他のエジプト人キリスト教徒たちと同じように、狂信的キリスト教徒として育てられました。両親は私の宗教教育に力を注ぎました。彼らは毎週日曜日の朝に私を連れて教会へ行き、牧師の手に口づけし、彼と礼拝を共にしました。私は彼が教会で三位一体の教義を説き、誰であれキリスト教徒でなければ、その人物は異教徒・無神論者であり、神によって認められることは決してないと断言していました。
他の多くの子供たち同様、私は完全に理解することなく牧師の話を聞き、教会から出るとすぐにムスリムの友人と遊びに戻ったものでした。子供は牧師たちが人々の心に植え付ける憎悪について知らないものです。少し成長した私は、小学校に入りました。私はより多くのクラスメートの友達が出来ました。私は学校で、ムスリムのクラスメートたちの美点について観察していました。彼らは私を姉妹として接してくれましたし、彼らは決して宗教上の違いから差別したりはしませんでした。後に、私は聖クルアーンがムスリムたちに、ムスリムと争わない非ムスリムたちに親切に接し、彼らがイスラームに改宗し不信仰から救われるよう促しているということを知りました。全能なる神は、聖クルアーンにおいてこう述べています。
“アッラーは、宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり、またあなたがたを家から追放しなかった者たちに親切を尽し、公正に待遇することを禁じられない。本当にアッラーは公正な者を御好みになられる。”(クルアーン60:8)
私は一人のムスリムの女の子と、特に強い友情で結ばれていました。私たちは、キリスト教徒の学生たちがキリスト教の基本信条を学んだ宗教クラス以外では、いつも一緒でした。私は先生にこう質問をしたいと思っていました。「どうしてムスリムたちはすごく良い性格で付き合いやすいのに、キリスト教の信条では不信仰者となるのですか?」私は彼女を怒らせるのが怖くて聞くことが出来ずにいましたが、ある日ついにその質問をすることが出来ました。私の質問は彼女を驚かせたようでしたが、彼女は怒りを押さえて作り笑いをし、こう言いました。「あなたはまだ若いのよ。まだ人生がどういうものなのか知らないでしょう。あなたはムスリムたちの悪質な本性を隠すそういった単純なものから騙されてはならないの。私たち大人は彼らのことをもっと良く知っているのだから。」私は不本意ながら沈黙しましたが、客観的でも論理的でもなかった彼女の答えには納得出来ずにいました。
時が過ぎ、私の親友のムスリム家族が私たちの街スエズからカイロに引っ越すことになりました。その日、私たちは別れを惜しんで泣きじゃくり、プレゼントを交換しました。友人は聖クルアーンよりも彼女の強い気持ちを表現することは出来ないと考え、豪華に装飾した箱の中にそれを入れて贈ってくれました。彼女は言いました。「私たちの友情の証、そして一緒にいた日々を思い出させるものとして、何か貴重なプレゼントを考えていたの。神さまの御言葉が書かれたこの聖クルアーンよりも良いものは見つからなかったわ。」私は感謝し、快くそのプレゼントを受け取りました。私はそれを家族から隠しました。友人が去った後、アザーン(ムスリムの礼拝の呼びかけ)が聞こえる度に、私は聖クルアーンを取り出して口づけしていました。私は何か問題が起きることを怖れ、辺りを見回し、家族の誰かが見ていないかを確認しつつそうしていました。
さらに時は過ぎ、私は処女マリア教会で助祭として働く男性と結婚しました。私は新居に持参品を運び込みました。その中にはもちろん、聖クルアーンもありましたが、夫の目からは隠していました。私は中東の一般的な女性と同じように、誠実な妻として彼と暮らしていました。3人の子供を授かった私は、官庁事務所で働いていました。私はそこでヴェールを着けたムスリム女性と同僚になり、彼女は私の親友を思い起こさせました。近くのモスクからアザーンの声が聞こえる度に、私はいつも心の奥底で自分が依然として非ムスリムであること、そして教会関係者の妻であることに説明の出来ない感情を抱いていました。
日々が過ぎ、洗練された性格を持つ敬虔なムスリム女性の同僚として、私はイスラームの真理について考え始めました。私はイスラームとムスリムについて教会で聞いたことと、自分で実際に見聞きし、感じたことを比較しました。私はイスラームの真理を認識し始めていました。私は夫の留守中、イスラームに関するラジオやテレビ番組をつけ、私を悩ませていた多くの疑問についての答えを見つけ出そうとしていました。私はムハンマド・リファート師、アブドル=バースィト・アブドッ=サマド師による聖クルアーン朗誦の魅力に心を奪われました。彼らの朗誦を聞くと、私はクルアーンが人間によるものであるはずがなく、神による啓示であると感じました。
ある日、夫の仕事中、私は震える手でクローゼットを開け、私の宝物である聖クルアーンを取り出しました。それを開くと、次の章句が目に入りました。全能なる神はこう述べるのです。
“イーサー(イエス)はアッラーの御許では、丁度アーダムと同じである。かれが泥でかれ(アーダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”(クルアーン3:59)
サナー エジプト出身の元キリスト教徒(後半):クルアーンの力
説明: 伝統的キリスト教の女性が、クルアーンから疑問の答えを見い出しますが、改宗後に友人や家族による困難に直面します。
- より サナー
- 掲載日時 13 Oct 2014
- 編集日時 13 Oct 2014
- プリント数: 26
- 観覧数: 11,183
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私の両手は震えが止まらなくなり、顔には汗がにじみ出ました。私の全身はぞくぞくし、自分でもその感覚に驚きました。私は道端やテレビ、友人宅などで聖クルアーンを聞いたことがありましたが、そうした感覚は初めてでした。そのまま読み続けたいと思いましたが、夫が扉の鍵を開ける音が聞こえたので手を止め、素早く聖クルアーンを隠し、急いで夫を出迎えました。翌日、私は頭の中に膨大な疑問を抱えつつ出勤しました。私が読んだ章句は、イエス(彼に平安あれ)の誤った性質についての疑念を払拭させました。彼は、牧師たちが語るように、神の子なのでしょうか?――彼らが同位者とするもののすべてを超越する(至高なる)神に栄光あれ!――この章句はイエス(彼に平安あれ)が人間であると宣言し、もやを晴らします。それゆえ、彼は神の子ではないのです。全能なる神はこう述べます。
“かれは御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。”(クルアーン112:3−4)
私は唯一なる真実の神以外に崇拝に値する神はなく、ムハンマドが神の使徒であるという永遠なる真理を知って以来、現状からの出口を模索し始めました。私はイスラーム改宗の事実を公言出来るだろうか? 私の親戚や夫の反応はどういったものになるだろうか? さらに、子供たちの将来はどうなるのだろうか? これらの疑問は私の心を奪い、仕事が殆ど手につきませんでした。おそらく第一歩を踏み出すことによって、私は親戚や夫、教会から殺害されるといったような大きな危険に晒されることになるでしょう。
数週間に渡り、私は人から距離を置いて過ごしました。私の同僚たちは、私を活発な人物として見ていました。私は聖クルアーンを開いた日から、殆ど仕事が手付かずになっていました。やがて、待ち望んでいた日が来ました。その日、私はあらゆる疑念や恐怖を振り払い、不信仰の闇から信仰の光の中へと抜けだしたのです。その日、決意したことに思いを巡らせながら、仕事中に席についていた私は、ムスリムがズフルの礼拝をし、主にまみえることを呼びかけるアザーンの声を聞きました。呼びかけ人の声は私の魂に完全に染み込みました。私は探し求めていた精神的な開放を感じました。その瞬間、私は自分の中のイーマーン(信仰心)を無視し続けた自分の不信仰の罪の重大さを認識しました。それゆえ、私は躊躇することなく立ち上がってこう宣言したのです。「私は、唯一なる真実の神以外に崇拝に値する神はなく、ムハンマドが神の使徒であると宣言します」
完全に仰天した同僚たちは、頬に嬉し涙を流しながら私に駆けつけ、祝福してくれました。私もわっと泣き出し、神が私を赦し、私にご満悦してくれるよう嘆願していました。この知らせは官庁事務所の隅々にまで行き届きました。キリスト教徒の同僚たちがそのことを知ったとき、彼らはわざわざ私の家族と夫にそのことを密告しました。彼らはまた、私の改宗の直接の理由についての噂話を流し始めました。私はこのことは気にしていませんでした。私にとって最も重要なことは、イスラームの改宗について公言することだったのです。私は(エジプト人がイスラームに改宗する際に義務付けられるように)警察本部へ行き、この件について公式な手続きをしました。帰宅すると、私は夫がその知らせについて知るやいなや、親戚を集め、私の衣服をすべて燃やし、私の所有していた金銭、ジュエリー、家財道具のすべてを差し押さえていたことを知りました。そのことは私を傷つけました。しかし、私をもっと傷つけたのは、彼が子供たちを連れ去ったことでした。彼はそうすることにより、私を不信仰の闇に連れ戻したかったのです。私は子供たちについて非常に悲しみ、彼らが三位一体を信じながら教会に通って育つことにより、その父親と共に地獄に落ちてしまうことを怖れました。
私は子供たちをイスラーム的に育てることが出来るように、彼らを取り戻してくれるよう神に嘆願しました。神はそれに答えてくれました。あるムスリム男性が、子供たちの保護監督権を訴える方法を教えてくれたのです。私は法廷へ行き、裁判官の前でこの件を提訴し、自身のイスラーム改宗証明書を提示しました。法廷は真実を支持してくれました。裁判官は夫を召喚し、2つの選択肢を与えました。それは、イスラームに改宗するか、婚姻関係を解消させるかのどちらかです。イスラーム法においては、ムスリム女性が非ムスリム男性と結婚することは許可されていないのです。夫は傲慢にも真の宗教への改宗を拒否しました。その結果、裁判官は私たちの婚姻関係の解消を命じ、私に子供たちの親権を与えてくれました。子供が分別年齢に達しない場合、法はムスリムの親に保護者としての権利を与えます。
私は、これで問題が解決したと思いました。しかし、前夫と親族からの冷遇に私は悩まされていました。彼らは私の自信を壊し、名誉を傷つけるために噂を流しました。また彼らは他のムスリム家族が私を助けたり会話したりしないよう説得しようとしていました。そうしたやっかいな状況にも関わらず、私は真の宗教のために強くあるよう心がけ、信仰を固く守り、あらゆる試練を乗り越えました。私は両手を掲げ、困難に直面した際の助力を授けてくれるよう、そして人生を容易にしてくれるよう天地の創造主である神に祈りました。最も近く、最も寛大である神はそれに答えてくれました。4人の娘、1人の息子を持つあるムスリムの未亡人が私に同情してくれ、私の勇気を称賛してくれました。彼女は貧しかったにもかかわらず、素晴らしい性格を持ち、一人息子で、妻を亡くしていたムハンマドを私に紹介してくれました。
現在、私はムスリムの夫、彼の家族、そして子供たちと幸せに暮らしています。私たちの生活は苦しいものの、人生に満足しており幸福です。前夫の憎悪、キリスト教徒の家族らによる敵意も、私がそうされたのと同じように、彼らが正しい宗教に導かれ、彼らに慈悲深くあるよう全能なる神に常に祈らずにはいられません。
神にとって、それは決して難しいことなどではないのです。
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