恩寵・信仰・所業(1/4):信仰の構成要素
説明: イスラームにおける内的信仰と善行との関連性とは。第一部:イスラームにおける「信仰」の概念、及び内的な信念と善行との関連性について。
- より J.ハーシミー (ゥ 2011 IslamReligion.com)
- 掲載日時 05 Dec 2011
- 編集日時 11 Sep 2016
- プリント数: 126
- 観覧数: 18,904
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
序論
イスラームは、内面的なものである「信念」と共に、外面的なものである「行為」にも重要性を置く宗教です。ムスリムであることは、ただ単に儀礼的な崇拝行為を行なうことでも、自らの行為を伴わない形で心の中に特定の信仰を留めておくだけでもありません。一部では、イスラームが内的信仰よりも行為そのものに重きを置くと誤解されていますが、実際には内的信仰が第一であり、それはイスラームの根本である「五柱」における最重要項目にあたるものなのです。イスラーム的観点としては、内的信仰と外的行為は共にイスラームにおける「信仰」として構成されるものであるとします。
イスラームでは、救済は神の寛容さによるものであるとされ、その救済と寛容が与えられるのは、内的な信念に加え、善行を行う者たちであると説きます。したがって、キリスト教とイスラームとの違いは、一方が内的信仰を重要視し、もう一方がそれを軽視するということではありません。事実、キリスト教とイスラームは共に内的信仰が救済を得るために最も不可欠な要素であるとしています。相違点として、イスラームでは信仰が最も重要な要素であるだけでなく、救済を得るには内的信仰が善行によって伴われなければならないとしているところです。この論考では、まずイスラーム的観点を検証し、次にキリスト教の教義である「信仰義認(信仰のみを重要視するスタンス)」に対する批評的観察を行ないます。
信仰の構成要素
イスラームでは、行いは信仰から分かれる枝の一つであると説かれます。信仰(イーマーン)は内的な信念であるとは定義されず、内的信念と行い(アマル)との集約であるとされます。つまり、信仰と行いは実体を同じくするものであり、お互いを構成し合う要素であるのです。それゆえ「信仰vs. 行い」の議論は、後者が前者を構成する一部であるため、イスラームにおいては意義を持ちません。以下のように、ムスリムは信仰(イーマーン)が三つの要素によって構成されていると信じます:
(1)信念(イァティカード)
(2)舌による証言(カウル)
(3)行い(アマル)
信念
これら三つの信仰要素のうち、信念は最も重要なものと見なされます。それゆえ、この視点からも、イスラームが外的な行いを内的信仰よりも重要視するという主張は間違ったものです。正しい内的信仰を伴わない行いを神が認めることはありません。神はこのように述べています:
“もしあなたが(邪神をわれに)配したならば、(現世における)あなたの行いは虚しいものになり、必ず失敗者となるのである。”(クルアーン39:65)
正しい信念があってこそ、行いは受け入れられます。それゆえ、全能なる神がクルアーンにおいて行いについて言及するとき、そこでは「信仰」という言葉が先に言及され、行いよりも信仰が重要視されるイスラーム的観点が示されるのです:
“だが信仰して善行に勤しむ者は楽園の住人である。その中に永遠に住むのである。”(クルアーン2:82)
“信仰して善い行いに励む者に、アッラーは約束なされた。かれらには、御赦しと偉大な報奨がある。”(クルアーン5:9)
“だが信仰して善い行いに励む者は、われは誰にも、能力以上のものを負わせない。かれらは楽園の住人である。その中に永遠に住むのである。”(クルアーン7:42)
“本当に信仰して善行に励む者には、かれらの主は、その信仰によってかれらを導かれる。至福の楽園の中に、川はかれらの足元を流れるのである。”(クルアーン10:9)
“信仰して善行に励む者には、慈悲深い御方は、かれらに慈しみを与えるであろう。”(クルアーン19:96)
“われは信仰して、善行に勤しむ者には、いろいろの罪を取り消し、その行った最善のことに、必ず報いるであろう。”(クルアーン29:7)
“かれは信仰して善行に勤しむ者に答えて、恩恵を増やされる。”(クルアーン42:26)
この概念を説明するにあたり、ムスリム学者たちは信仰を木に喩えました。信念は、表面から隠され、目には見えないために根と見なされます。根は木を支える基盤であり、それなくしては木が木であることが出来ません。そして行いは、木の幹や枝のように、表面上見て取ることの出来るものです。「信仰vs. 行い」といった議論が妥当でないのはこのためです。一本の木を他の木と比較することは出来ますが、木(信仰)と枝(行い)を比較することは出来ません。信念と四肢による行いとを比較すると、前者が根幹であることが分かり、後者がその枝であることが分かるのです。根幹は常に枝よりも重要なのです。枝が落ちても木は立ち続け、新しい枝がやがて生えてきますが、根元から切ってしまうと木全体が枯れ落ちてしまいます。
信念は信仰の木における根幹であり、それなしには死んでしまいます。善行はその木の幹と枝です。枝のない根だけの状態であれば、それは本質的に木でなくなってしまいます。枝が多ければ多いほど、それは完全な木として立派なものになるでしょう。それゆえ、信仰の根幹は信念であるといえますが、それは善行なしには非完全なのです。幹と枝がなければ、それは木とは言えませんし、根幹部分がなければ、木は立つことも出来ません。
それゆえ、イスラーム的立場として、次のような主張がなされます:信仰(イーマーン)は根幹的なものであり、イスラームにおいて最も重要な柱です。信仰は信念と行為が共に含まれます。前者は後者に比べより重要なものであり、それなくしては信仰が成立しません。
信念の重要性は、その欠如によるうわべの善行が否定されることによって明白にされます。たとえば、神のご満悦を求めてお金を喜捨することは善行の伴なった良い信念から来るものであり、それに対し神の報償があるでしょう。しかし自分の親切さを誇張し、人々の評判を目当てにお金を寄付したのであれば、それは悪質な意図と腐敗した信念が伴なったうわべの善行であり、それゆえ神のご満悦は全く得られません。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこのように言っています:
“諸々の行為は、意図したことによって決まるのです。”(アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
これが意味するのは、行為または発言は、信念に根付いたものでない限り、何の役にも立たないということです。
恩寵・信仰・所業(2/4):発言と行い、そして神への愛
説明: イスラームにおける内的信仰と行いとの関係。第二部:信仰と愛に関連する発言と行いの役割とは。
- より J.ハーシミー (ゥ 2011 IslamReligion.com)
- 掲載日時 05 Dec 2011
- 編集日時 05 Dec 2011
- プリント数: 134
- 観覧数: 18,266
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
発言
人は、神への公な信仰宣言をしなければなりません。サタンでさえ心には信仰を秘めていましたが、かれは神への忠誠を誓う宣言をするどころか、反逆と対抗を宣言したのです。したがって、ムスリムは「神以外に崇拝に値するものは何も無い」と宣言し、この教えを説いた神の預言者たちを全員信じなければなりません。
イブン・タイミーヤは、「キターブ・アル=イーマーン(信仰の書)」においてこう述べています:
“心では信じているものの、それを口頭で証言しない者は、現世と来世の双方において信仰者としてみなされない。神はそのような者を(神の)教えにおける信仰者とはされていないのだ。それを発言として証言しない限りは、彼が信仰者とみなされることはないのである。”
“それゆえ、口頭による発言は信仰における必須要素であり、初期・後期双方の学識者たちによると、口頭による証言をなしには救済を得ることは出来ないとされているのである。そうすることが可能であるにも関わらず信仰証言をしない人物は、不信仰者である。その人物は内的にも外的にも不信仰者なのである。”(キターブ・アル=イーマーン)
行いの重要性
心の中の信念は、結果的に善行をもたらします。何かを信じているけれども、良い行いをしないということは起こり得るでしょうか?大学者イブン・タイミーヤはこのように述べています:
“信仰の根元は心の中にあるものであり、それが外的な行いとして現れるというのは必然的なことなのである。心に信仰がありながらも、(その結果)四肢によって(善行として)行われないということは、まず考えられないことである。外的な行いが少ないのは、心の中にある信念が少ないからである…行いは心と相関しているため、人が心の中の信念だけで満足することは決して望ましいことではない。善行は必ずそれに付随するのである。”(アル=ファターワー、7/198)
イスラームは、信念と行いとの間に矛盾はないと説きます。むしろ、信念と行いは互いを満たしあい、共に織り合わさっているのです。信じていると主張しながらも、行いとしてそれを示さない人物は、偽善者なのです。
例えばある男性が自分の妻を愛しているのなら、彼は彼女に対して良い待遇をするでしょう。もしその男性が、妻を軽視し乱暴するのなら、彼が彼女を真に愛しているとは言えないはずです。愛情は行いに現れるからです。男性が自分の妻を愛するなら、彼は彼女が喜ぶことをするものです。同じように、もし人が真に神を愛しているのなら、その人物は神への恭順性を行為によって示すでしょう。そうした人物は、神のご満悦を得るために善行を行わなければならないことを知っているのです。善い行いをするよう努力することにより、神のご満悦を得ようとすることこそが、救済への道なのです。
イスラームの大学者であるアル=ハサン・アル=バスリーは、こう説明しています:
“信仰とは、飾り気や希望的観測によるものではなく、心に留まるものであり、行為によって確証される。良い発言をしながらも良い行いをしない者は、神によってその言葉と行いが比較される。良い発言をし良い行いをする者は、その行為によってその言葉が高められるのである。なぜなら、神はこのように仰せられている:
“(一切の)善い言葉は、かれ(神)の許に登って行き、正しい行いはそれを高める。”(クルアーン35:10)
(イブン・バッタによるアル=イバーナ・アル=クブラー3/120、そしてアル=ハティーブ・アル=バグダーディーによるイクティダー・アル=イルム・アル=アマル56番より。)
真の信仰とは、神の約束に対する希望を持ち、それを信頼することです。神はクルアーンにおいてこう述べられています:
“だからかれに仕え、かれを信頼しなさい。”(クルアーン11:123)
“死ぬことのない永生者を信頼して、かれを讃えて唱念しなさい。”(クルアーン25:58)
神に対して真の希望を持つことと、単に希望的観測をすることには違いがあります。イブン・アル=カイイム(2/27−28)はこう説明しています:
“希望的観測と真の希望との違いは、単なる希望的観測には、奮闘することも(目標の達成に向かって)努力することも伴わない怠惰さが含まれていることである。しかし、神への希望と信頼には、奮闘、努力、そして(神への)美しき信頼が必要とされる。前者(単なる希望的観測)は、たとえば土が自ら種まきをしてくれるよう望むようなことであり、後者(神への希望)は、たとえば実際に畑を耕し、種を蒔いた上で、作物が育つよう望むことである…希望を持つことは、行為を伴わない限りは正しいものではないのである。”
シャー・アル=キルマーニーは述べています:
“正しい希望のしるしとは、良き恭順である。”(イブン・アル=カイイムによる引用、2/27−28)
イブン・アル=カイイム(2/27−28)は続けます:
“希望には三つの種類が存在する。その内の二つは賞賛に値し、一つは咎められるべき単なる妄想である。最初の二つとは:(1)導きを受けた神への服従行為をし、その報奨を希望すること。(2)罪を犯すが悔悟し、神の赦し、恩赦、情け、寛容、温和、慈しみを希望すること。(3)第三(の種類)は罪を犯すこと、物事の限度を超えることに固執し、(神の慈悲を保証する)何の行為をすることもなく神の慈悲を希望することである。これは妄想であり、単なる希望的観測、誤った希望に過ぎないのである。”
私たちは神を愛さなければなりません。しかし、それは心からだけではなく、行為を伴ったものでなければならないのです。一晩中祈ったのであれば、それによって私たちの心には神への想起が植え付けられるでしょう。これによって、私たちは(祈りという)行為によって内的信仰が増強されるのを見て取ることが出来ます。一方、罪深い行為は信仰を減少させます。もしある男性が不法な性行為によって一晩を過ごしたのなら、それは彼の心に影響し、彼の信仰心が減少することになるのです。善行は心の信念を補強しますが、悪行は心を腐敗させます。
実際、神を愛していると主張するにも関わらず、それを証明する行為をしないような人々は、結局は心に信念がなく、それを確証する発言も出来ず、その行為は空虚な心を反映するものでしかないのです。一部の宗教の多くの人々は、これみよがしに神への愛を自称しますが、行為によってその主張を支えることはしません。しかしムスリムはアラビア語でシャハーダといわれる信仰宣言をしなければなりません。この単語は逐語的に“証言”を意味し、それは神以外に崇拝に値するものはないことを証言することです。ただ発言のみによって証言することはごく簡単なことです。一方、自らの身体、行為、さらには人生によって神の栄光を証言することは、信念の大きな表れとなるのです。シャヒード(自らの生命を神に捧げる者)という言葉は、シャハーダ(信仰宣言)と同じ語根から来ているのは、神の栄光を最も良く宣言するものは発言のみによるものでなく、自らの行為によるものであるからです。
これは、常識的判断の問題です。父親が息子に愛していると告げることと、自らの腎臓をそれを必要としている息子に提供することは、まったく次元の違う話です。後者こそがより高い段階の愛でしょう。人は祖国を愛していると言うことは容易に出来ますが、軍隊に入り生命の危険を犯してまで国を守ろうとすることは、より高い段階の愛です。ありきたりな言い方でしょうが、行いは言葉よりも多くを語るのです。一部の宗教の追従者たちが、いかに神を愛しているか語るのをよく耳にしますが、彼らは私たちムスリムがいかに神への愛情を示すのに励んでいるかを知りません。私たちは神へ祈るとき、一日に五回かれへの愛を示し、かれの命令に従います。さらにムスリムはその謙遜さから、自分たちの神への愛によって天国が約束されているなどと主張することはしません。神への愛を誇張して誇らしげに語る者、または自らの行いの中でそれをはっきりと示し、いと高き主の満悦を得るため苦労する者と、どちらが優れているかは明白でしょう。
クルアーンの中で、全能なる神は預言者に対し、神を愛していると主張する者たちが、従順な行いによってそれを示すように告げるよう命じています:
“言ってやるがいい。「あなたがたがもしアッラーを敬愛するならば、わたしに従え。そうすればアッラーもあなたがたを愛でられ、あなたがた罪を赦される。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」”(クルアーン3:31)
これは全能なる神による言わば挑戦であり、かれは私たちにこう告げるのです:もし私たちが神を真に愛するのなら、神の戒律に従い、それを証明せよ、と。しかしながら、私たちが神の法を破るのであれば、私たちは神を真に愛しているのではなく、それは不誠実かつ全くの偽善であるのです。
恩寵・信仰・所業(3/4):神の恩寵
説明: イスラームにおける内的信仰と行いとの関係。第三部:人が天国を“獲得”するのは、内的な信念と善行のみによるものだとする間違った概念について。
- より J.ハーシミー (ゥ 2011 IslamReligion.com)
- 掲載日時 12 Dec 2011
- 編集日時 12 Dec 2011
- プリント数: 130
- 観覧数: 18,456
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
神の恩寵
一部の人々は、イスラームでは行いによって天国が獲得できるのだと説いていると勘違いしています。これは事実ではありません。イスラームでは、人が天国へ入れられるのは信仰によるものでも、行いによるものでもないとされます。私たちが天国へ入れられるのは、神の恩寵と慈悲によるものだけなのです。そうでないと信じることは、神の御力と完全なる王権に異議を唱えることを意味します。神こそはお赦しを授ける者であり、人が自らに赦しを与えると主張することは、神の御名と性質の一つが自らに属していると主張することです。それは自らの地位を創造主の地位に押し上げることであり、神の栄光と御力に同位者を配すること、すなわちイスラームで最も重い罪であるシルクにあたります。
この現世で家を買うには、一定の値段を支払う必要があります。より大きく、より良い家である程、その値段は高額になります。邸宅は一般住宅よりも費用がかかり、宮殿は邸宅よりも費用がかかります。天国の宮殿がいかに高くつくかは想像することもできません。もし私たちの所業が通貨となるのであれば、それをどんなに貯蓄しても、天国の敷地の1平方センチですら決して手に入れることは出来ないでしょう。人が善行を貯めることが出来ないのは、私たちが既に多大な負債を抱えていることがその理由の一つです。いかなる量の善行をもってしても、視力や聴力など、全能なる神によって私たちに与えたものを返済するようなことは出来ないのです。したがって、いかなる人間であれ、自らの徳行によって天国を勝ち取ることは出来ないという結論に辿りつくのです。
誰一人として、自らの信仰や行為をもって永遠なる救済を得ることは出来ず、それはただ神の恩寵によって与えられるのです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこのように言っています:
“…あなたがたの内の誰一人として、自らの徳行から救済を得ることは出来ないということを承知しなさい。”
人々は彼に尋ねました:“神の使徒よ、あなたでさえそうなのでしょうか?”
預言者は応えました:“私でさえ、神の慈悲と恩寵がもたらされない限りは、そうなのだ。”
人類において最も誠実な者が、預言者ムハンマドであったということは承知の事実ですが、彼でさえ神の恩寵によってのみ天国に入るのだということを、ここで私たちは知ります。このことは、人生を通して善行をし続けたため、それによって神の恩寵抜きに天国に入ると思い込んだという、預言者の言行集(ハディース)におけるある男の逸話によってさらに明白となります。傲慢にも自らの行為によって天国が与えられると思い込んだその人物は、神の恩寵を信じなかったため、地獄に放り込まれることになったのです。
しかし、このことが信仰と行いの重要性を損なうということではありません。全能なる神は、信仰して善行する者に対してその恩寵と慈悲を与えるのだ、とムスリムは信じます。全能なる神はこのように述べています:
“かれ(神)は信仰して善行に勤しむ者に答えて、恩寵を増やされる。”(クルアーン42:26)
全能なる神は、かれの恩寵、慈悲、そして愛は“信仰”して“善行”に励む者に与えられるのだと私たちに告げ知らせます:
“信仰して善行に励む者には、慈悲深い御方は、かれらに慈しみを与えるであろう。”(クルアーン19:96)
善行に励む者を神は愛し、悪行に耽る者を神は厭うのである、とムスリムは信じます。これはキリスト教徒による、神は邪悪な者、不道徳な者、罪深い者さえも愛するという主張と相反します。この概念はバイブルの中でも否定されているものです:
“神は邪悪な者に対してはいつもお怒りである。”(欽定訳聖書 詩篇7:11)
“神に逆らう悪人の灯が消され、彼らに災いが襲い、神がその怒りをもって苦しみを与えられることが何度あろうか。”(ヨブ記21:17)
神がすべての人間を愛するという概念は、いわばネオ・ヒッピー的な理想かもしれませんが、それは神の教えによって証明されてはいません。キリスト教徒も神によって地獄が創られたこと、そして一部の人々はそこに送られることを信じています。神は、みずから地獄へと落とし永遠の罰に処する者を愛しているのでしょうか?もしそうなのであれば、それはどういった愛なのでしょうか?もし神が、罪深い者ではなく罪だけを真に厭うのであれば、地獄に落とされるのが罪ではなく、罪人なのはなぜなのでしょうか。
神が邪悪な者を愛されないことは確かです。一体どのような神がアドルフ・ヒトラー、スターリン、ファラオをはじめとする邪悪な圧制者を愛されるというのでしょう?神は殺人鬼、強姦犯や犯罪者を愛されはしません。神が邪悪な者を愛すると信じるということは、神の正義に異を唱えることなのです。神は善のみを愛し、悪を厭うのであると私たちは主張します。ただ「最も慈悲深き者」は神の性質の一つであるため、邪悪な者が真摯な悔悟によって神に向き合うのであれば、かれはすぐさまそれをお認めになるでしょう。
神によって愛でられる者は誰であれ天国に入り、真の誠実さによって信じ、善行に励む者に対し、神はその愛と恩寵を授けるということがこの問題の結論です。神が恩寵を与えるのは、それを得ようと励む者に対してのみです。神の恩寵を得ようと望みながらも自分では神の戒律に従おうとしない者が、どうしてそれを得ることが出来るというのでしょうか。
恩寵・信仰・所業(4/4):バイブルと「信仰のみ」
説明: イスラームにおける内的信仰と行いとの関係。第四部:バイブルにおける“信仰のみ”の概念について。
- より J.ハーシミー (ゥ 2011 IslamReligion.com)
- 掲載日時 12 Dec 2011
- 編集日時 12 Dec 2011
- プリント数: 118
- 観覧数: 17,480
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
バイブルで否定される、“信仰のみ”の教義
キリスト教では、人は天国に入る前に(神による)義認を得なければならないと信じられています。西方教会のキリスト教徒は、単に“信仰のみ”によってこの義認を得ることが出来ると主張します。しかし、この“信仰のみ”の教義はバイブルにおいては否定されているのです。興味深いことに、“信仰”という言葉は新約聖書の中で200回以上出てきますが、“のみ”という言葉が付随する場面はたった一度だけです。そしてこの二つの言葉が共に登場する場面においては、その教義が明白に否定されているのです:
“これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰のみによるのではないのだ。”(ヤコブの手紙2:24)
このくだりでは、“信仰のみ”の教義が完全に否定されているのを見て取ることが出来ます。また、ヤコブの手紙2:14−18ではこのように書かれています:
14.“わが兄弟よ、自分では信仰を持っていると主張する者がいても、行いが伴わなければ何の役に立つというのだろうか。そのような信仰が、彼を救うことが出来るだろうか。
15.もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
16.あなたがたのだれかが、彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つだろうか。
17.信仰もそれと同じことなのだ。行いが伴わない信仰は、それだけでは死んだものである。
18.しかし、「あなたには信仰があり、私には行いがある」と言う人がいるかもしれない。行いの伴わないあなたの信仰を見せてみよ。そうすれば、私は行いによって自分の信仰を見せてあげよう。”(ヤコブの手紙2:14−18)
サタンでさえも、神を信じてはいましたが、かれは忠誠の誓いも、行いによってそれを確証することもしませんでした。バイブルは続けます:
19.“あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいている。
20.ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、という証明が欲しいのか。
21.神が我らの父祖アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったか。
22.アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるだろう。
23.「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのだ。
24.これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰のみでそうされるのではないのだ 。
25.同様に、娼婦ラハブでさえも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではないか。
26.魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものなのだ。(ヤコブの手紙2:19−26)
一部のキリスト教徒は、イエスを自らの救世主であり、彼こそが神であると宣言するだけで事足り、そうすることにより人は“生まれ変わる”のであると主張します。彼らは、イエスを救世主であると宣言する、このたった一度の経験により、天の王国に入ることが保証されると信じています。しかし、こうした概念はバイブルによって否定されているのです。マタイによる福音書の7章21節は、ただ単に自らの主をイエスであると宣言するだけでは事足りず、救済を得るには神の戒律に従わなければならないとしています:
“私に向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の王国に入るわけではない。天におわす私の父の御心を行う者だけが入るのである。”(マタイ7:21)
神は人に対し、各自の両手の稼いだもの(行い)に釣り合うものを与えます。天の王国における永遠の生命を勝ち取るのに必要なのは、継続的に善行をし続けることだけなのです。バイブルではこのように記されています:
“神は各々の行いにもとづいてお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の生命をお与えになります。”(ローマ人2:6−7)
したがって、永遠の生命は善行をすることが条件なのです。バイブルは、善を行う者は天国に入り、悪を行う者は地獄に入ると述べます:
“…善を行った者は復活して生命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。”(ヨハネ5:29)
一部のキリスト教徒が信じるように、救済はにわかに達成されるものではなく、人生を通して努力し続けることにより与えられるものなのです。バイブルはこう記しています:
“…恐れおののきつつ、自らの救済を達成出来るように努め続けなさい。”(フィリピの信徒2:12)
バイブルはさらにこう述べます:
“しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。”(マタイ24:13)
バイブルでは、天国に入るには神の戒律に従わなければならないとイエス(神の慈悲と祝福あれ)が言ったとされています。ここからも、信仰のみによっては救済を達成するには事足りず、天国での生命は神の戒律に従うことによって与えられることが明白にされているのです。バイブルではこう記されています:
“イエスは言われた。「…もし生命を得たいのなら、戒律を守りなさい。」”(マタイ19:17)
“信仰のみ”の教義に潜む危険性
行いの重要性を過小視する教義を伝播することには、大きな危険が伴います。多くのキリスト教徒は、イエスが彼らの罪を免責したことから、罪深い生活を離れる必要がないと思い込んでいます。言い替えるなら、イエスが彼らに罪を犯す「フリーパス」を与えたと信じているのです。そして、キリスト教徒が一週間に渡って罪を犯し続けながら、日曜日だけは教会を訪れ、何があろうと彼らは救済されるのだという考え方に満足するのを見出すことが出来ます。この“一度だけ救われると、常に救われる”教義は、神に対する人の義務を忘れさせるのです。そういった教義を宣教する宗教は、実際にはその追従者たちが正義の道からさまよい去ることを助けているのです。一方、イスラームではその追従者に対し、神の恩寵は信仰と行いによってもたらされ、人は天国を得るためには不断の努力をしなければならないと忠告されています。ムスリムが一日に五回の礼拝をするのはこのためであり、ただ一度だけの出来事ではなく、人の一生をかけた廉直かつ継続的な努力なのです。
“信仰のみ”の教義は、全能なる神によって説かれたものではないため、冒涜的なものです。“信仰のみ”の教義はクルアーンにおいては当然のことながら、バイブルでさえ存在していません。啓典において全く根拠の見出せないものに従うことは、正しいことではありません。
結論
救済は神の恩寵を得ることによってもたらされ、それは内的な信仰と善き行いによって達成されます。これが、クルアーンとバイブル双方において根拠を見出すことの出来る信条なのです。神の約束とは、“内的信仰”と“善行”を通して恩寵が与えられることなのであり、“信仰のみ”はそれに当てはまりません。
一部の人々は“信仰のみ”によって天国が約束されていると信じていますが、それは彼らが実際に天国に入ることを意味しているのでしょうか?単に何かを信じるだけでは、実現はしないのです。あなたは、イエスが主であると信じるだけで私たちは救われる、とテレビ伝道師が主張するのを耳にしたことがあるかもしれません。そしてチャンネルを変えると、腹部に装着するだけで、一ヶ月で20キロも減量することの出来るようなベルトが声高に宣伝されるのに出くわします。こうした約束は、テレビ伝道師による天国の約束と比べ、疑わしさの点において相違はあるでしょうか?
自分の行い(ダイエット、運動など)を省みずに、そのようなエクササイズ・ベルトを買い、それに頼り切ることはいかに愚かなことでしょうか。そういった人物のように、自分の食生活や運動に無頓着なのであれば、ベルトで20キロ痩せられるという内的な信念を持つにも関わらず、やがて高脂肪によって動脈硬化が引き起こされ、心筋梗塞で死んでしまうかもしれません。イスラームの信仰において、罪は心のしみです。罪を重ね過ぎると、心全体が黒いしみに覆われて死んでしまいます。脂肪分が心臓を塞ぐように、罪は心を塞ぐのです。真っ黒な心を神に提示する者は、“信仰のみ”という概念を信じるかどうかに関わらず、天国に入ることは出来ません。自らの信念だけに頼る人物というのは、エクササイズ・ベルトを頼る人物と似通っています。彼らは一時的にはそれのもたらす約束に惑わされ、満足しますが、やがて現実がその醜い頭を現し、人々は自らの行いの責任を問われることになるのです。
魔法のようなエクササイズ・ベルトは、欠如しているものを補わせると信じ込ませるため、人々は健康な食生活と運動習慣に無関心になります。それと同じ様に、“信仰のみ”の概念は、行いについて人々を怠慢にさせるのです。このような人々が死んだとき、彼らは神の恩寵を得るために人生で善行を積み重ねて来なかったことを嘆くでしょう。人は、苦労もせずに天国が得られるという甘い話に乗せられるのではなく、人生の中で善行に励むべきなのです。
クルアーンは私たちを虚偽で満足させるのではなく、真実を確証します。つまり、人は天国を得るためには不断の努力をしなければならないということです。偉大な報酬には、多大な努力が伴うことは常識的なことです。全能なる神はこのように述べます:
“神の(道の)ために、限りを尽くして奮闘努力しなさい。”(クルアーン22:78)
また神はこうも述べます:
“だがわれ(の道)のために奮闘努力する者は、必ずわが道に導くであろう。本当に神は善い行いの者と共におられる。”(クルアーン29:69)
私たちは、心で信じるだけでなく、行為として表に出すことによって、神のご満悦を得ることに努力しなければなりません。心の中の信念は何よりも重要ですが、そのことが四肢による行為の重要性を取り消すことにはなりません。信仰の伴わない行為は不誠実であり、行為の伴わない信仰は偽善なのです。
コメントを付ける