マルコム・X、米国(Part1)

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説明: 最も傑出したアフリカ系米国人革命家の一人による、真のイスラームの発見。そしてそれがいかに人種問題を解決するかについて。Part1:ネーション・オブ・イスラーム教団とハッジ。

  • より ユースフ・スィッディーキー
  • 掲載日時 06 Dec 2009
  • 編集日時 12 Dec 2009
  • プリント数: 340
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“私はムスリムであり、これからもずっとムスリムである。私の宗教はイスラームである。”

マルコム・X

幼少期

マルコム・Xはマルコム・リトルとして、1925年5月19日にネブラスカ州オマハで生まれました。彼の母親ルイーズ・ノートン・リトルは8人の子供を抱える多忙な主婦、そして彼の父親アール・リトルは歯に衣着せぬバプティスト教会の牧師で、黒人民族主義者マーカス・ガービーの熱烈な支持者でした。しかしアールの公民権運動は白人至上主義者団体であるブラック・リージョンによる死の脅迫を受け、マルコムの家族は彼が4歳になる前に2度の引越しを余儀なくされました。そしてリトルによるブラック・リージョン回避の努力も虚しく、彼らが住んでいたミシガン州ランシングの家は焼き討ちに合い、その2年後マルコムが僅か6歳の時には、トロリー(市街電車)の線路上でアールの切断された遺体が横たわっているのが発見されました。一方ルイーズは彼女の夫の死から数年後、神経衰弱で精神病院への入院を余儀なくされます。彼女の子供たちは養子に出されたり、または複数の孤児院に預けられたりして離ればなれになりました。

マルコムは頭脳明晰な学生で、学年トップの成績で中学校を卒業しました。しかし彼のお気に入りの教師から、彼の夢である弁護士への道は黒人には現実的でないと告げられて以来学校への興味を失い、15歳で中退してしまいます。街の生き方を学んだマルコムはギャング、泥棒、麻薬密売人やぽん引きなどと親しくなり、20歳の時には窃盗の罪で有罪となり、27歳になるまで刑務所で暮らしました。刑務所の中で彼は独学に励みました。そして獄中でネーション・オブ・イスラーム教団について知り、その教祖イライジャ・ムハンマドの教えを学び、それを受け入れました。そして1952年、彼は以前とは別人さながらになって出所します。

ネーション・オブ・イスラーム教団

マルコムは出所後デトロイトへと赴き、ネーション・オブ・イスラーム教団の活動に参加し、イライジャ・ムハンマド自身から手ほどきを受けました。マルコムの熱心な奉仕によって組織は全国規模となり、彼自身も世界的な著名人となりました。彼はテレビや一流雑誌のインタビューを受け、アメリカ全土の様々な大学やフォーラムで演説して回りました。彼の言葉には力がみなぎっており、黒人の苦境や白人による激しい迫害を巧みに表現しました。ある白人が南部のある大学が黒人の新入生を受理したことに関する事実に言及した際には、マルコムは怒りを込めてこう反応したものです:

“私がスベると、番組の主催者は釣り餌に魚がかかったかのようにこう言う:「ああ!マルコム・Xよ、あなたはそれがあなたの人種の飛躍であることを否定出来ないでしょう!」と。

そして私は釣り竿をぐいと引く。私はどこに行っても公民権の向上に関することを聞く。どうやら白人たちは黒人がハレルヤ!と叫んでいなければならないのだとでも思い込んでいるようだ。400年間に渡り、白人たちは黒人の背中にナイフを突き刺したままの状態だった。そして今、彼らはそのナイフを抜こうと半分ほど引っぱり出しただけなのだ。黒人たちはそれに関して感謝すべきだろうか?例え白人がナイフを完全に引き抜いたとしても、そこに大きな傷を残すことに変わりはないのだ!”

マルコムの言葉にはたびたびアメリカにおける黒人に対する不正への非難が含まれていましたが、ネーション・オブ・イスラーム教団におけるそれ同等の人種差別的信条は、白人たちが彼に対して同調し、手助けすることを妨げていました。彼は白人こそが悪魔であり、イライジャ・ムハンマドが神の使徒であると12年間に渡って説き続けていたのです。その後彼は完全に変わり、アメリカ人に対して重要なメッセージを数多く残しましたが、不幸にも現在に至るまでマルコムのイメージの大半はこの時期の彼に焦点を当てられているのです。

真のイスラームへの改心

1964年3月12日、ネーション・オブ・イスラーム教団内部からの嫉妬、そしてイライジャ・ムハンマドによる性的スキャンダル発覚により、マルコムは自らの団体の立ち上げを意図し、ネーション・オブ・イスラーム教団を去りました。その際に彼はこう語っています:

“私は自分が誰かに支配されたまま、眠りの中にあったように感じている。しかし今自分が言っていることは、本当に自分の口から出ているのだと感じている。以前は誰かによる、誰かのためのものであったが、今や私は自分自身の考えを持っているのだ。”

マルコムがイライジャ・ムハンマドのネーション・オブ・イスラーム教団を去ったのは、彼が38歳の時でした。彼は当時を思い出し、こう語っています:

“私が大学などで行った講演後の非公式な集まりでは、通常アメリカ在住者か留学生、または旅行中の、自分たちをアラブ人とか中東人、あるいは北アフリカ系ムスリムと呼ぶ、白い肌をした人々が私の前に集まって来た。私の白人に対する非難にも関わらず、彼らは私が自身をムスリムだと主張していることに真摯さを感じ、もし私が彼らの言う真のイスラームに触れれば、私はそれを理解し、受け入れるだろうと感じたと言うのである。私はイライジャの追従者として、これらの発言を自動的に却下した。しかしそのようなことを何度か経験した後、熟考の末、私は自分にこう問いただした:もし人が宗教に関して真摯であれば、その宗教の知識を広げることに関して立ち止まるべきではない、と。

私が出会った正統派ムスリムたちは次から次に、私がマフムード・ユーセフ・シャワルビー博士に会って話すことをしきりに促した…そしてある日、私とシャワルビー博士は、一人の新聞記者によって引き合わされた。彼はとても誠実な人物だった。彼は、私のことを新聞やテレビで注目していたと言い、一方私は彼のことを聞いていたと言った。そこで私たちは15〜20分程会話をした。私たちは共に次の予定が入っていたためにその場を去らなければならなかったが、彼の語った理論は私の頭から離れなかった。彼が言ったのは、「人は自分の兄弟に対し、自分自身に望む同じことを彼に対しても望むようになるまでは、完全な信仰を持たないのである」というものだった(預言者ムハンマド-彼に神の称賛あれ-の言葉)。”

巡礼の影響

マルコムは更に、ハッジに関してこう述べています:

ハッジとして知られるマッカへの巡礼は、全ての正統派ムスリムが可能な限り、一生に一度は果たすべき義務である。

聖クルアーンはこう述べている:

“この(アブラハムによって建てられた神の)家への巡礼は、そこに赴ける人々に課せられたアッラーヘの義務である…”(クルアーン3:97)

“人々に、巡礼〔ハッジ〕するよう呼びかけよ。彼らは歩いてあなたの許に来る。あるいは、どれも痩せこけているラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばる来る。”(クルアーン22:27)

ジェッダへと向かう空港の中では、何千人もの人々が全く同じ装いをしていた。例えどこかの国王や乞食がいたとしても、これだと他の人々と見分けがつかないであろう。私の友人はこっそり、とある権力者が私たちの近くにいるのを合図したが、彼は私と全く同じものを着ていた。このような格好の中、我々は断続的に“ラッバイカ!(アッラーフンマ)ラッバイカ(主よ、あなたの御許に馳せ参じます!)!”と声を張り上げた。飛行機では肌の白い者も黒い者も、茶色い者も赤い者も黄色い者も、青い瞳も金髪も、そして私の縮れた赤毛もが皆同じ場所に込み合っていたのである!皆で同じ神を称え、お互いに敬意を表していたのだ…

それを機に私は‘白人’を再評価し始めた。私が一般的に言われる‘白人’というものを理解したのは、第一に特定の態度や行為を示し、肌の色自体は二次的なものに過ぎなかった。アメリカでは‘白人’という言葉が、黒人とその他全ての有色人種に対する特定の態度と行為を示す者たちを意味していたのだ。しかしムスリム世界で白い肌の色をした人々は、私がこれまでに見て来た他の誰よりも偽りなく親身になってくれた。あの朝は、私の‘白人’の価値観に対する画期的な変革の始まりだった。

そこには何万人もの巡礼者たちが世界中から集まって来ていた。彼らは青い目をした金髪から黒い肌のアフリカ人まであらゆる人種から構成されていたが、我々は皆同じ儀礼を行ない、私のアメリカでの経験上、白人と非白人の間では決して起こり得ないと信じていた統一と同胞愛の精神を体現していたのだ… アメリカはイスラームを理解する必要がある。なぜならこれは社会から人種差別をなくす唯一の宗教であるからだ。私はムスリム世界を旅して回るにあたり、アメリカでは白人と見なされる容姿をした人々と出会い、話し、更には食事を共にした。彼らの心からはイスラームの教えによって、いわゆる‘白人’の態度が取り除かれていたのだ。私はこれまでに一度も、このような誠実さと真の同胞愛が肌の色に関係なく、全ての人種によって実践されているのを見たことがなかった。

マルコムの新しい米国像

マルコムは続けます:

“聖地で過ごした時間は、アメリカで黒人と白人の間で起こっていることに関し、精神的に更なる洞察力を養うことを可能にさせた。アメリカ黒人は、彼らの白人に対する人種的憎悪に関して咎められる筋合いはない。彼らはただ400年間に渡るアメリカ白人からの執拗な人種差別に反応しているだけなのだ。しかし人種差別がアメリカを自滅的な方向へと導いている中、私は彼らとの経験によって、大学で学ぶ白人の若い世代は壁に描かれたメッセージを見て、真実への精神的探求を始めるだろうと強く信じた。それは人種差別が必然的にもたらす悲惨な結末を避けるための、アメリカに残された唯一の道である。

私は神が今、いわゆる‘キリスト教徒’の白人社会に対して悔い改め、世界の非白人に対する搾取と奴隷制度に対する罪を償う最後の機会を与えているのだと信じている。これは神がファラオに対して悔悟する機会を与えたのと同じである。しかしファラオは頑なに、彼の圧制に対する正義を拒否し続けた。そして我々が知るように、神は最終的にファラオを破滅に追い込んだのである。

私はアッザム博士との、彼の邸宅での夕食を決して忘れない。彼と話せば話す程、私には彼の広大な知識の宝庫とその多様性が果てしなく思われた。彼は預言者ムハンマド-彼に神の称賛あれ-の子孫の人種的構成について語り、それがいかに黒人と白人のどちらも包括しているのかを示してくれた。彼はまた、ムスリム世界における人種問題は、西洋からの影響が大きい地域でのみ存在していることも明らかにしてくれた。そして彼は、肌の色に対する態度に基づいた相違は、西洋の影響の度合いに反映しているのだと述べたのだった。”

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