聖書の矛盾性を認めるキリスト教学者たち(4/7):キリスト教聖典における改変
- より ミシュアル・ブン・ class=
- 掲載日時 23 May 2011
- 編集日時 23 May 2011
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6世紀のアフリカ人聖職者であるビクター・トゥヌネンシスは、その年代記(西暦566年)の中で、メッサーラはコンスタンティノープルの執政官だったとき(西暦506年)、アナスタシウス皇帝が無学の人々によって著されたものであると見なされたキリスト教福音書を“検閲・改変した”と伝えています。それは、6世紀のキリスト教が改変され、それ以前のキリスト教とは異なったものであることを示しています。1
これらの“修正”は、キリスト教におけるイエス後の数世紀に限られていたわけではありません。ヒギンス卿はこう述べています:
“ラテン語とギリシャ語に関し、ベネディクト会修道士らやその他多くの人材が卓越していたことを否定することは不可能です。クリーブランドの‘Life of Lanfranc, Archbishop of Canterbury(カンタベリー大司教ランフランの生涯)’には、次のようなくだりがあります:「カンタベリーの大司教であるベネディクト会修道士のランフランは、写本家らによって聖典が大いに改竄されていたことを発見し、それらと共に、正統派信仰に則った父祖らによる書物をも自ら修正しようと試みました。」”
言い換えたならば、キリスト教聖典は11〜12世紀の教義に見合うよう書き直されたのであり、初期教会の先人らの書物でさえ“修正”され、変更が発見されないようにされたのです。ヒギンス卿は続けます:「同プロテスタント聖職者は次のような注目に値する発言をしています:“公平無私の精神は私に告白をさせた。正統派は複数の箇所で福音書を改変したのである。”」
そして著者はコンスタンティノープル、ローマ、カンタベリー、そしてキリスト教世界全般において福音書を“修正”し、それ以前のあらゆる写本を破壊する甚大な努力がいかになされたかという記録を挙げているのです。
セオドア・ザハンは、使徒信条における諸教会の辛辣な対立を描いています。彼は、ギリシャ正教会による諸聖典の意図的な加筆と削除をローマカトリック教会が告発したことを指摘しています。その一方でギリシャ正教会側はローマカトリック教会に対し、原文から背き去った逸脱について告発しています。しかし双方ともに相反しているにも関わらず、非英国国教徒に対しては結託し“真理の道”を外れた異端という烙印を押して非難します。また彼らはカトリック教会に対しても“真実をねじ曲げた者”として非難しています。著者はこのように結びます。“これらの非難合戦は、事実によって裏付けられてはいないのだろうか?”
14.われはまた、「私たちはキリスト教徒です。」と言う者とも約束を結んだ。だが彼らも授けられた教訓の一部分を忘れてしまった。それでわれは復活の日まで、敵意と憎悪の念とをかれらの間にこびりつかせた。アッラーは彼らに、その行ったことを間もなく後で告げ知らせられるであろう。
15.啓典の民(ユダヤ、キリスト教徒)よ、われの使徒(ムハンマド)が正にあなたがたの処へ来た。あなたがたが啓典(律法、福音)の中の隠してきた多くのことをあなたがたに解明し、また多くのことをそのままにした。アッラーからの御光と、明瞭な啓典が今正にあなたがたに下ったのである。
16.これによってアッラーは、御好みになる者を平安の道に導き、またその御許しによって、暗黒から光明に連れ出し、彼らを正しい道に導かれる。
17.「アッラーこそは、マリアの子メシアである。」と言う者は、確かに不信心者である。言ってやるがいい。「誰がアッラーに対し、少しでも力があろうか。もしかれがマリアの子メシア、その母と地上のすべてのものを滅ぼそうと御考えになられたら、誰が制止出来よう。」天と地、そしてその間のすべてのものは、アッラーの大権に属する。かれは御考えになられたものを創造なされる。アッラーはすべてのことに全能であられる。
18.ユダヤ人やキリスト教徒は言う。「私たちはアッラーの子であり、かれに愛でられる。」言ってやるがいい。「それなら何故かれは、あなたがたの罪を罰されるのか。いや、あなたがたは、かれが創られた人間に過ぎない。かれは、御望みの者を赦し、御望みの者を罰される。」天と地、そしてその間のすべてのものは、アッラーの大権に属し、またかれこそは帰り所なのである。
19.あなたがた啓典の民よ、使徒たちが中断された後わが使徒(ムハンマド)がやって来て、あなたがたに対し(事物の)解明をする。これはあなたがたに、「私たちには吉報の伝達者も警告者も来ない。」と言わせないためである。今、吉報を伝え警告を与える者が、正にあなたがたの処に来たのである。誠にアッラーはすべてのことに全能であられる。(クルアーン 5:14−19)
プロテスタントとカトリックの双方から認知と尊敬を受ける人物であるアウグスティヌスも、キリスト教の教義には秘密があると述べているのです:
“…キリスト教における多くの真実が一般大衆に知れ渡ることは不都合だったのであり、一部の虚偽を一般大衆が信じ込む方が好都合だったのである。
ヒギンス卿は認めます:
“これらの差し控えられた真実の中に現代キリスト教の謎があると信じこむことは、不正なことなどではない。またそのような信条を有する教会の最高権威者らが、聖なる書物の修正において躊躇などしないだろうことに関しても、私は否定できずにいるのだ。”3
パウロへと帰属される書簡ですら、実際には彼の著作ではないとされています。幾年にも渡る調査の結果、13書簡のうち、パウロ自身によって書かれたものは7書簡しかないことが、カトリックとプロテスタントの双方により合意されています。それらはローマ人への手紙、第一・第二コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、フィリピ人への手紙、フィレモンへの手紙、そして第一テサロニケ人への手紙です。
キリスト教諸宗派では、何が“神感による”神の書なのかというはっきりした定義についてさえ合意に至っていません。プロテスタントは真の“神感による”聖書の書物は66冊あるとし、カトリックでは73冊となっていますが、それ以外にもモルモン教などの多くの諸宗派による“新しい”書物などもあるのです。次の部では、最も初期のキリスト教徒たちは何世代にも渡って、プロテスタントの66書、またはカトリックの73書のどちらにも従ったりはしていなかったことが明らかにされます。それとは正反対に、彼らは12使徒の時代よりもより啓蒙された時代の、後になって贋作あるいは外典であると“認知”された書物を信じていたのです。
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