イーマーン・ユースフ 米国出身の元カトリック信者(1/4)
説明: 神への道を探し求めていた彼女に対し、いかに道が示されたか。
- より イーマーン・ユースフ
- 掲載日時 06 Jul 2015
- 編集日時 13 Jul 2015
- プリント数: 27
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それが誰によるものであれ、イスラームへの改宗は驚くべきことであり、アッラーによって愛されるだけ者に与えられる、最も大きな慈悲です。そして私の場合、それはさらに大きなものでした。正に、それは奇跡に他なりませんでした。アルハムドリッラー(神にこそあらゆる称賛あれ)。
私がイスラームという言葉、または何が「ムスリム」なのかを知るよりもはるか以前に、アッラーは私のフィトラ(神によって与えられた天賦の性質)を通して、私にいかに生きるべきかを示し、導いてくれました。それはとても信じられないようなエピソードです。私をお導きくださった神こそにすべての称賛あれ。
1981年の初夏、イスラームという贈り物は、一年の間に渡ってゆっくりと私に授けられました。それは私の人生において最も困難で、どん底の状態にあった時でした。
私は米国で生まれ育ちましたが、曽祖父母はドイツとオーストリアの出身でした。
私は熱心なカトリック信者でした。その信仰をひたむきに実践し、それを心から信じていました。当時の私の夫はカトリック信者でなかっただけでなく、無神論者であったため、結婚生活は破綻寸前となっていました。
そのことは私を悩ませていたものの、1979年に娘が生まれるまでは深刻な問題ではありませんでした。しかしそれ以降、継続的な不安と苦しみの原因となりました。
彼は娘の洗礼儀式を認めはしましたが、彼女が宗教的な環境で育つことに乗り気ではありませんでした。いかなる議論も彼を変えることはできず、結婚当時に彼が教会で署名した宣誓書の中の、生まれてくる子供をカトリックとして育てるということを誓った部分を思い出させても無駄でした。
彼は、娘がいかなる神を信じたり信仰を持ったりすることも拒否し、私の信仰だけでなく、神をもばかにするようになりました。
私はこの件についての解決を望み、長年の知り合いである牧師に相談に乗ってもらうことにしましたが、彼は殆ど手を差し伸べてはくれませんでした。私はこの問題について、彼が真剣に取り組もうとはしていないと感じました。
彼は私の娘の信仰問題よりも、私との結婚生活の問題を解決させたいかのようでした。彼は、私の夫が神を呪ったり嘲ったりした時に感じる私の苦痛を、まったく理解できていませんでした。
それだけでなく、彼は娘にとってそれが成長と共に非常に悪い影響となるであろうことも理解していませんでした。私はいずれ、娘と教会へ行くことを夫が妨げるようになるのではないかと恐れていたのです。
牧師との会話はなぜか別の方向へと転換し、カトリックの原理についての話し合いになりました。私ははっきりとは覚えていないものの、三位一体についての質問をしました。
私が受け取った答えは、3つの神格が一人の位格に存在するという、至極一般的なものでした。その問題についてさらに突っ込んだ質問をすると、牧師は苛立ちを見せ、もし私が「そうした質問をしなければならないのであれば、もともと信仰がないのだ」と言い放ちました。
今にしてみれば、彼は私以上にその教義の「神秘」について説明をすることができなかったため、そうした反応をしたことは理解できますが、当時の私はショックを受け、傷ついていました。
私はあたかも教会から追放されたかのように感じていました。神に近づこうとの思いからしたたった一つの無邪気な質問から、私は全く信仰のない人物であると見なされてしまったのです。
私は足早に教会を立ち去り、牧師の発言についてずっと思い悩んでいました。私は彼の見解を受け入れることはできませんでした。私は自身が信仰深く、神を信頼する人物であることを確信しており、いかなる人物であれ、私にそうではないと思い込ませることはできないのです。
しかしそれ以来、私は自身をカトリック信者であると見なすことができなくなりました。当時の教会は混乱を極めており、人々はこぞって宗教から去って行きました。私は自分がその中の一人になるとは思ってもいませんでしたが、突然その輪に加わることになったのです。
後ろを振り返ることなく、私は真理を探求することにしました。しばらくの間は、バイブルを読んで勉強をしていましたが、自分が実はそれについての知識がほとんどなかったことを知りました。カトリック信者は、バイブル読書よりも教会の公式教義により重きを置いていました。
私にとってバイブルは困難かつ支離滅裂で、日常生活についての指針が殆どないように思えました。それは単なる物語の本にしか思えませんでした。
私は内心では自分が間違っていることを期待しつつ、地元のキリスト教会に連絡を取り、宗教講座に参加させてもらいましたが、それは最初で最後の経験となりました。彼らは福音主義者たちで、(個々の神秘的宗教体験について)訳の分からないことを話したり、聖霊から「贈り物」を受け取ることなどに焦点を合わせていました。
そこはあまりにも飛躍し過ぎていました。私は常に心の中に留めておくことのできる宗教を探し求めており、聖霊やもう使用されなくなった言語について学習することではありませんでした。
その後、私は常々「真の宗教」であり「人類最初の宗教」であると聞かされていたユダヤ教について学び始めました。やがて、私はユダヤ人の母を持たないため、その「クラブ」から排除されました。
改宗そのものは可能だったものの、それは特に正統派を含む大多数のユダヤ教徒からは認可されないものでした。さらに、彼らが神の選民であるという思想は、私をとても困惑させました。
特定の家系に生まれた者だけに真の宗教を授け、行いの善し悪しに関わらず彼らだけに天国を与えるという神というものは想像できませんでした。それは公正ではないですし、公正でない神など存在し得るでしょうか?
こうして、私は可能な限り色々な宗教を調べ回るようになりました。ヒンズー教、仏教、道教、儒教・・・調べれば調べるほど、虚偽を見抜くスピードも速くなりました。私はイスラーム以外の大抵の宗教を調べました。なぜなら、イスラームに関してはその存在すら知らなかったからです。
後になり、なぜアッラーがまず他の諸宗教を私に調べさせたのかが分かりました。ようやくイスラームに辿り着いたとき、それが唯一の真の宗教であることを直ちに100%悟らせるためです。
当時、私はとても陰鬱な気持ちにありました。離婚協議の真っ只中にあった私は、実家に戻り病気の祖父の介護をしていました。世界で一番の親友であり、私にとっての本当の「母親」であった祖母は、先の冬に突然亡くなり、母は私の自己啓発の願望については無関心でした。私はとても孤独でした。
私は活発な娘、病床にある祖父、家事、そして神からの距離感というものすべて背負いながらも、大学への復学を試みていました。私にはいかなる信仰もなく、神が存在するという知識だけが残っていました。私は虚無感で一杯でした。
私が過去に抱いていた神の概念は、神が存在するという確信だけを除いて完全に消失し、その確信のみによって私は神に祈り、常に導きを求めていました。
数ヶ月間に渡り苦しみ抜いた末、私は論理的思考によって神を探しだそうと試みました。もし神が存在するのであれば、神は私たちが何らかの特別な方法を用いて神を見出すことを望んでいるはずだと考えました。
それは常に日常生活の一部であるような、真に神を崇拝し、繋がる方法であり、週に一回だけ思い出し、それ以外は忘れ去ってしまうようなものでないのです。
しかし何よりも、私は唯一の神、唯一の道という存在に確信を持っていました。様々な宗教は神について主張しますが、道の定まらないものです。私はたった一つの道以外には受け入れることはできませんでした。私には、それを見つけ出すことが必要だったのです。
イーマーン・ユースフ 米国出身の元カトリック信者(2/4)
説明: 慈悲深き神を通して真理に到達すること。
- より イーマーン・ユースフ
- 掲載日時 06 Jul 2015
- 編集日時 05 Jul 2015
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さらに、私は神の道があらゆる時代のあらゆる人々のためのものでなければならないはずだと推論しました。誰一人として特別だったり、選ばれたりしてはおらず、また誰一人として除外されてはならないはずです。それは現在生きている人々、すでに亡くなった人々、これから生まれてくる人々も同様です。
私は、その教えが人類の創造と共に人々の間に知られたものでなければ、慈悲深き神というものを信じることができませんでした。アダムの創造以来、そこには何らかの「秘密」が存在しているはずだとなんとなく思っていました。それは、私がそれまで得ることのできなかった、あらゆる物事の「鍵」なのです。
私の家族にはいくつかの問題がありました。弟はアルコール中毒でした。彼は精神的に不安定で、癇癪持ちでした。しかし、母はいかなる時も彼の肩だけを持ちました。私はノイローゼになっていました。勉学にも集中できなくなり、私は大学を中退せざるを得ませんでした。
娘を保育所に預けたままクラスに出席しなければならないことも心配の種でした。私は彼女に最大限の愛情を注ぎたいと願っていました。祖父は日に日に弱っていっており、母が仕事に行っていたある朝などは、葉巻を椅子のクッションに落とし、ボヤ騒ぎを起こした程でした。
家の火災警報機が鳴り響いた時は、まさに寝耳に水でした。煙が充満していたにも関わらず私は深い眠りについており、私をようやく眠りから目覚めさせたのは、子供部屋からの娘の叫び声でした。
目を覚ますと、家中に煙が広まっていました。私はベビーベッドから娘を抱き上げ、家から脱出しました。その時には消防車が到着していましたが、弟は既に火のくすぶる椅子を庭に運び出していました。
弟はまず、椅子の前に座り込んで定規で椅子の火をかき消そうとしていた祖父を傍らにやらなければならなかったそうです。祖父はもう私たちだけの力では介護できない状態になっていました。
これをきっかけに、母は祖父を老人ホームに入居させることを真剣に検討し始めました。その後、私は彼を介護する必要がなくなりました。しかし私は自立しなければならないことを母にはっきりと告げられました。私と娘は彼女の人生に必要なかったのです。
弟はいつものように外で飲酒に浸り、祖父の心配をする必要のなくなった母は、男友達と一緒に過ごす時間を得て、「自分の思い通りの人生を歩むことができるようになった」のです。
私は酷い状態に陥りました。夫とは離婚協議の最中でしたし、依然として婚姻状態にはあったため福祉による給付金を受け取ることもできませんでした。何らかの援助を申請したとしても、まずは夫による養育費を求めるよう促されるだけで、彼からは一銭も受け取ったことはありませんでした。
彼は娘の養育権のために法廷で争うと私を脅迫しました。彼の背後には愛人がおり、彼女がそれをけしかけていたのです。私には仕事抜きに生活していける術はありませんでした。そのためには、娘を保育所に預ける必要がありました。
孤独感、そして問題解決の糸口を見つけられなかった私は苦悩していました。私は周りの狂気の中のただ一人の正気な人間であるように思えてきて、時にはそれさえも疑問でした。
私はひどい居心地の悪さを感じていました。祖母が亡くなった後、私は家族の中で居場所をなくしてしまい、完全に追い出されつつありました。絶望した私は再び神にすがり、問題に対する答えを嘆願していました。
ある日、私は独りで家にいました。娘は彼女の父親と出かけており、母と弟も外出中でした。寝室の静寂の中、祈りに対する強い衝動を感じました。ただ、その方法は全く知らなかったため、部屋の真ん中でどうすればよいのかさえも分からず突っ立っていました。
私はあたかも礼拝の方法についての導きを求めて耳を傾けるかのように立ち尽くしていました。神と会話するには清浄な状態でなければならないはずだとひらめきました。まるで何らかの上の存在の力に乗っ取られたかのように、私は浴室でシャワーを浴び、頭から足の指先まで洗いました。
部屋に戻り、再び何か−−あるいは何者か−−が次に何をすれば良いのかを告げてくれるのを待ちました。私は再度、答えに導かれました。自分自身を覆うことの必要性を感じたのです。
くるぶしまで被さる長いガウンをまとうだけでは事足りず、髪の毛も覆う必要性を感じました。長いスカーフを頭に巻いて鏡を覗き込んでみると、自分の姿に奇妙な安心感を覚えました。私はムスリムに会ったことがなく、彼らがどのような格好をしているのかも全く知りませんでしたが、そこにいる私はヒジャーブをまとっていたのです。
イスラームを知る人が私を見たら、礼拝の準備をしているムスリムだと思ったことでしょう。しかし、当時の私はイスラームについては一切知りませんでした。神にこそすべての称賛あれ。
お祈りのために着替えたものの、何をすれば良いのかまだ全然分かりませんでした。窓際に行き、晴れ渡った外を呆然と眺めていました。次はどうしよう? ひざまずくことには、教会で同じことをしていたため抵抗がありました。
私は神の御前において謙虚になる必要を感じました。自分が創造主に対して完全に服従する姿勢を取りたいと思いました。そのときは、床に横たわることしか思い浮かびませんでした。
再度、教会で牧師や修道女が修道生活で床に横たわり、両腕を横に伸ばして十字架の形を作っている場面が脳裏に浮かびました。創造主の前にて謙虚でいたいと思ったものの、それをどうすれば良いのか全く分かりませんでした。
するとひざまずいて、顔を床に着けることを思いつきました。そうする前に、寝室が散らかっていたという訳ではありませんでしたが、床が汚れていると感じた私は、確実に清浄なものに額づく必要性を感じました。
娘のベビーベッドの横に、私が編んだ彼女のベビーカー用の小さな毛布がありました。後日、それはイスラームで礼拝用として使用される絨毯と全く同じ大きさであることに気付きました。そしてそれはちょうど洗濯した直後でした。それで私はそれを手に取り、私の前に敷いたのです。
さらに信じ難いことに、私が向いていた方向はムスリムたちが礼拝時に向く方向である「カアバ」であることも後日知ったのです。私はひざまずき、両手で上半身を支えつつ、顔を床につけました。
その日を思い出すだけで、目には涙が浮かび、鳥肌が立ちます。あの部屋、あの姿勢で、私は明らかにムスリムのような身なりと礼拝をしていたのです。スブハーナッラー(アッラーに称賛あれ)、そのような方法でお導き下さった神のいかに慈悲深いことか!
あの姿勢で、ついに神と通じ合えたことを感じた私は、何度も何度も涙ながらに神が私に求める信仰を示してくださるよう嘆願したのです。神が私にお望みの人生というものを・・・。
涙が止まりませんでした。その日、私は真理を見出したと感じました。ただ、空白を埋める必要だけが残されていました。そして慈悲深き主によるお導きのおかげで、やがて私は答えを見つけ出したのです。
母が依然として祖父の老人ホームへの転居を考えており、私も引っ越しを要求されていたとき、感謝祭の時期が訪れました。まだ私が実家にいた頃です。
イーマーン・ユースフ 米国出身の元カトリック信者(3/4)
説明: ムスリムへの質問が、真の宗教への扉を開きます。
- より イーマーン・ユースフ
- 掲載日時 13 Jul 2015
- 編集日時 13 Jul 2015
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母はホリデーシーズンの準備に忙しくなり、表向きは平穏な日々が流れました。ただ、私は宗教への探求のことを1分たりとも忘れませんでした。
感謝祭の後は、例年通りクリスマスパーティがあちこちで開かれ、ある日大学の学生が集うパーティが地元のレストランで開かれたため、女友達から誘われました。そこには大勢が来ており、私の隣にはピッツバーグ大学で博士課程に在籍しているナイジェリア出身の学生が座っていました。
私は彼が着ていた伝統的ナイジェリア衣装に魅了されました。彼はユダヤ教徒が被るヤムルカ帽が大きくなったようなものを被っていました。彼は温和な表情と明るい笑顔をしており、私たちは学校のことを話し始めました。
食事を注文する頃になると、彼はメニューについて手助けしてほしいと頼んできました。彼は「豚肉を食べられないし、アルコールも飲めない」と言ったので、私は喜んで手伝いました。食事を注文し終えると、なぜ豚肉とアルコールがダメなのか尋ねてみました。彼は笑顔で「宗教的理由だから」と答えました。
「どの宗教なの?」と尋ねると、彼は「私はムスリムなのです」と答えました。
私の宗教探知センサーが非常警報を鳴らしました。その聞いたことのない宗教について、もっとより多くのことを知りたいと思いました。すでにほとんどの宗教について調べ尽くしていた私は、聞くべきことを心得ていました。
「もし差し支えなければ、あなたの宗教の主要な信条を教えていただけないでしょうか? そしてあなたの宗教を一言で言い表すとすれば、何ですか?」彼は全く躊躇することなく、笑顔を見せてこう言いました。「私たちは神が唯一であると信じます。神は三位一体の一部ではなく、子女も設けず、かれには同位者もありません。神は唯一なる者です。」
それは、とても単純明快な答えでした。私はそれに全く異論はありませんでした。それはとても理にかなっていることだと伝えると、彼はまた笑顔を見せました。次に私は彼の宗教が女性に関してどのような見解を持っているのか、また女性の地位はどう見なされるのか尋ねてみました。
ほんの僅かなガイドラインしか提供しない宗教と社会に属することによって、女性として苦しんでいた私は、その答えを固唾を呑んで待ちました。私は何か満足させてくれるような解答をとても欲していました。
彼は直ちに答えました。「イスラームにおいて、男女は平等です。双方の地位は同じであり、同じ義務を有しています。また双方ともに同じ報奨と懲罰を受けます。ただし、平等であることは同一であることを意味しているのではありません。男女はお互いに相違点をもって創造されています。双方は平等ですが、相違があるのです。」
双方の相違がいかにして顕著になるのか知りたいと思いました。彼は言いました。「たとえば結婚において、ムスリム女性は夫による完全な扶養などの多くの権利――それらは男性側よりも多いかもしれません――を有していますが、彼女は夫に従順であることが求められます。」
「夫に従順であること・・・? それはどういう意味ですか?」彼は笑い始めました。彼は過去に何度も同じ質問をされていることは明らかでした。「つまり・・・」彼は忍耐強く説明しました。「結婚関係あるいは家族のための決断が求められているとき、夫は妻に相談し彼女の意見を尊重しなければならないものの、最終的な決断は彼に委ねられているということです。
「このように考えてみてください。結婚関係は海に浮かぶ船のようなものだと。船の運命を握る船長は一人でなければなりません。船に船長が二人いると、その船は沈んでしまいます。」
彼はゆったりと椅子に座り、私の反応を待ちました。私は彼の言ったことに反論できませんでした。それは理にかなっていました。私は常々、夫は家族のための最終決断をしなければならないと心の奥底で感じていました。私はイスラームにどんどんのめり込んでいきました。
彼が教えてくれたことはすべて筋が通っていました。高揚感と安寧を感じると同時に、私はなぜイスラームを今まで知らなかったのだろうと不思議に思いました。スブハーナッラー、アッラーはすべてを相応しいタイミングでもたらすのでしょう。
「もっとこの宗教について知りたい」と彼に伝えると、彼はモスクでムスリムたちと知り合えば、そこ質問に答えてくれたり、クルアーンの翻訳本がもらえたりするとのことでした。電話番号を教えると、連絡してくれることを彼は約束しました。私は歓喜し、そのときが待ちきれませんでした。それは1982年、12月3日の金曜日でした。
次の月曜日の朝、私は地元の図書館の入り口で開館時間の前から待っていました。当時、イスラームに関する本の数は充実していた訳ではありませんでしたし、書かれていた情報もあまり正確ではありませんでしたが、そのことにまだ気付いていなかった私は、片っ端からそれらを読み漁りました。
最初に手にした本を開くと、序説には「イスラームとは神の御心に帰依するという意味である」とありました。素晴らしいと思いました。それについて何一つ知る前から、私はその帰依という言葉を使っていたのです。
安寧を得るのであれば、神の道への完全なる帰依が求められなければならないことに私は気付いていました。その瞬間、私は真理を見つけ出したと悟りました。私は本をむさぼり読みつつ、例のナイジェリア人男性アフマドが連絡してくれるのを心待ちにしました。彼は約束通り連絡してくれたのです。
彼はモスクと責任者の電話番号を教えてくれました。興奮のあまり震えながらも私はそこに電話し、誰かが受話器を取ってくれることを祈りました。電話口に出た人物は、非常に外国訛りの強い話し方で、私の尋ねた人は留守だと言いました。
私はそれにもひるまず、イスラームに強く興味を持っており、より多くのことを学びたいということを説明しました。彼は直ちに歓迎の意思を示し、モスクの住所を教えてくれ、すぐにでもそこを訪問してクルアーンの翻訳本を受け取るよう招待してくれました。
私は言葉にならないほど興奮しました。私は同日の午後に約束を入れ、はずんだ心で娘と一緒にそこへ行く準備をしました。
あの日のことを思い出すと笑ってしまいます。私は見栄え良くありたかったため、パンツスーツを履き、髪の毛をカールし、化粧して香水を付け、1歳の娘にも一番可愛らしい服を着せました。
それが新たな人生の第一歩であることは分かっていました。私と娘は二人三脚なのです。そこに到着し、建物に入って最初に出会った人物はニカーブを着けたムスリム女性でした。彼女はエキゾチックな外見をした美しい女性でした。私は彼女にアブドルハミードという人物に会いに来た旨を伝えました。
彼女は丁重に階段まで私を連れて行き、驚くべきことに完璧な英語でこう言いました。「彼はこの階段の上のオフィスにいます。」当時、まだ私はイスラームが「異国の」宗教などではないことや、世界中で最も急成長をしている宗教であることを知りませんでした。その時はまだ多くのことを知らなかったのです。ただ、私が正しい道にあることだけは確信していました。
オフィスに入ると、そこにいた全員の頭が私の方向を向いたかと思うと、すべての目が伏し目になりました。誰一人として私の目を直視する人はいませんでしたが、皆が笑顔だったのです。それらは暖かく、幸せそうで真摯な笑顔でした。
イーマーン・ユースフ 米国出身の元カトリック信者(4/4)
説明: イスラーム改宗初期の導きが、どのようにして彼女にやってきたか。
- より イーマーン・ユースフ
- 掲載日時 13 Jul 2015
- 編集日時 13 Jul 2015
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一人の男性が私のもとに歩み寄り、聞きなれない言葉を発し始めました。後日になり分かったのですが、彼は「マーシャーアッラー、マーシャーアッラー」と言いながら私の腕から娘を抱え上げ、「なんて可愛い子だろう」と言いつつ他の男性たちに彼女を見せて回りました。
あかの他人が私から娘を取り上げたにも関わらず、なぜか私は全く恐怖を感じませんでした。彼は手際よく娘をデスクの上に座らせてペンや鉛筆、ホッチキスなどで彼女を喜ばせ、子供の扱いに慣れた様子でした。他の男性たちも彼女の周りに集まっていると、アブドルハミードが現れて私に挨拶しました。
私は握手をしようと手を差し出しましたが、彼はそれを見ないふりしてやり過ごしました。男女間のイスラーム的エチケットについては、その当時まだ全く知りませんでした。彼は私がどのようにイスラームと出会ったのか尋ねました。私は彼にナイジェリア人のアフマドのことを言うと、彼はイスラームの基本について説明し始めました。
およそ一時間が過ぎた頃、彼は私にクルアーン写本を手渡し、それを読む際にはシャワーを浴びるよう言いました。私は即座に合意しました。彼はもうすぐ礼拝の時間が来るため、準備しなければならないと言いました。
私は彼に感謝の意を表しましたが、最後に一つだけリクエストがありました。礼拝の見学です。無神論者と結婚していた私は、なぜかその男性が祈る姿を見てみたいと思いました。私は常々、神に祈りすら捧げない男性は真の男性ではないと思っていました。
アブドルハミードは礼拝を見学しても構わないものの、物音は立てないでくれと私に頼みました。合意して一緒に階段を降りると、豪華な美しい絨毯、そしてくぼみのある壁以外には何もない部屋に入り、彼はその後ろで私を待たせました。その壁のくぼみは、礼拝の方角を示すものであることを後に知りました。
男性たちが部屋に入ってくるのを見ていると、突然響き渡った大きな音に驚きました。それは「アッラーフ・アクバル、アッラーフ・アクバル」という礼拝への呼びかけでした。それには氷水が血管の中を走り渡るような感覚を受けました。私の存在そのものが、その壮大な呼びかけによって覚醒したかのようでした。
それは一言も理解できませんでしたが、まるで私に語りかけているような感じがしました。私の目には涙が溢れ、身体はぶるぶると震えました。私は落ち着こうと、両腕を組んで自分自身を抱擁していました。
男性たちが礼拝中にお辞儀をし、額づいたのを見たとき、自分があの晴れた日に寝室で行った祈りが重なり、涙がこぼれ落ちました。私は畏怖の念で一杯でした。言葉では言い表せないほど感動しました。そして自分は居るべき場所に居るのだと実感し嬉しく思いました。
その後数週間で私は多くのムスリムたちと出会い、イスラームについて多くを学び始めました。私は寝室での礼拝の時だけ着用していたものの、イスラーム的衣服を自分で編み始めました。
私は変わり始めました。飲酒を絶ち、豚肉も拒否しました。性格も一変しました。私は静かで穏やかになりました。心に平穏が訪れたのです。母は私の変化について尋ねました。彼女は私が鬱になったと思い込んでいました。「どうしてあなたは笑わなくなってしまったの?」と彼女は言いました。私はとても幸福であることを彼女に説明しました。ただ、それはより穏やかな形だったのです。
私は勇気を奮い起こし、ついにイスラームについて打ち明けました。私が彼女のために編んだ衣服も見せました。彼女は激怒しました。私が編んだ服も全く気に入ってはくれませんでした。
母はファッションに気を使う女性でした。彼女は私が編んだ服のシンプルさやそのゆったりしたサイズを嘲笑しました。彼女はそれが袋に見えたと言いました。その無神経な発言には傷つきましたが、私のイスラームに対する想いを変えることはありませんでした。
私がシャハーダをする前の最後のクリスマスは悪夢のようでした。その当時でさえ、私はそれが虚偽の信仰という暗闇から私を救い出すためのアッラーのやり方であることは分かってはいました。それでも、それはとても困難な日々でした。
母は私が祝日行事に参加しないことを怒っており、いつものように泥酔状態の弟は、癇癪を起こして私の所有物のいくつかを破壊し、私を殺すとさえ脅しました。
彼はそれ以前に、私の部屋に入った時に私がイスラーム的な服装をしているのを目撃していました。彼は宗教的ではなく、教会に行くこともなかったものの、私がムスリムになろうとしていたことについては激怒していました。
彼らが怒れば怒るほど、私は自分が正しいことをしていることに確信を持つようになりました。私はただ単に、彼らが生きるような人生を歩みたくはありませんでした。
その数カ月後、私は信仰宣言をして改宗をしました。翌春のある金曜日、私はムスリムになりました。イスラームという贈り物を、感謝しつつ謙虚に受け入れたのです。
母は私が家を出ることを強要しました。しかし、アッラーはその際限なき慈悲から私に新たな家を用意されました。私がシャハーダをした同じ夜、その証人だったエジプト人男性が私に結婚を申し込んだのです。
初めてモスクを訪れたあの時、私の腕から娘を抱え上げた私のワリー(保護者)は、私の意思確認をしました。私のたった一つの心配は、彼が良き信仰者であるかどうかでした。ワリーは、彼がそうであることを確認してくれました。
10日も経たずして私たちは結婚し、娘と共に夫と新居に暮らし始めました。彼は娘を我が子のように育ててくれ、アルハムドゥリッラー、その後私たちは2人の男児を授かりました。
もうかれこれ26年が過ぎましたが、私のムスリムとしての人生は祝福に満ちたものでした。時が経つのは本当に早いものです。それらの年月は決して容易なものではありませんでしたが、祝福に満ち溢れたものでした。
アッラーによって寵愛される者たちは試練を受けます。アッラーはクルアーンにおいて「困難と共に安楽はあり」と述べていますが、それが真実であることが証明されました。
長年に渡って私との関係を断絶していた母は、現在私と共にムスリムの国に住んでおり、自発的にヒジャーブを着ています。私は彼女が近い将来、イスラームを受け入れるのではないかと期待しています。インシャーアッラー(それがアッラーの御意であれば)。
常々困難は付きまとうものの、これ以外の生き方に変えることはもう想像すらできません。私を暗闇の中からイスラームという光の中へと奇跡的な旅をさせてくれたアッラーのご慈悲とお導きを日々感謝しています。
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