病気に罹ったときの振る舞い方(下):神の慈悲は無制限であること
説明: 病気や怪我になったときに取るべき実践法。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 30 Dec 2013
- 編集日時 30 Dec 2013
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前半では、忍耐と、何事も神の許しなくしては起きることがないという理解と共に、試練や苦難を乗り越えることについて語りました。
“幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。”(クルアーン6:59)
病気や怪我になる理由には、はっきりとしないもの、また私たちの理解を超えるものがあります。しかし、神は人類にとって良いことだけをお望みになります。それゆえ私たちは、それらの苦難の裏には偉大なる英知が潜んでいることを確信し、それが私たちと神とのより良い関係を築くことの出来る機会であるということを知るべきなのです。私たちは、人間として自由意志があるため、あらゆる状況において行動の選択肢がありますが、最善の反応とは忍耐と承認なのです。
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、私たちが各々の信仰の度合いによって試されること、そしてそれらの試練から来る最低限の善きこととして、罪から清められることを挙げています。人は宗教的な献身の度合いに応じた試練を受け、それらの試練はその神のしもべが全く罪の負担のなくなった状態になるまで続くのだと彼は言っているのです1。
病気や怪我によって打ちのめされてしまったとき、不安を感じるのは自然なことです。時に私たちは、なぜ神がこのようなことを起こすのかと憤慨すらすることでしょう。私たちは問いかけ、不平をこぼしますが、そういったことは、実際には自らの悲嘆や苦悩を強調させる以外の役割を果たしません。神は、その無限なる英知と慈悲により、病気や怪我になったときはいかに振舞うべきかという明白な指針を私たちに授けてくれました。その指針に従うのであれば、苦難に際してそれを冷静に受け止め、感謝すら出来るようになります。病気や怪我になったとき、信仰者は神に信頼を寄せ、神によって授けられた状況を何であれ感謝し、医療扶助を求めます。
医療扶助はイスラームにおいて許されたものであり、それを求めることは私たちによる神への信頼を否定・無効とするものではありません。預言者ムハンマドの言葉はそのことを明確にしています。「あらゆる病気は、それに対する治癒なくしては定められなかったのである。」2信仰者は医師を訪れ、病気や怪我の治療を求めることが出来ます。また、心因性・感情的な疾患の診断や治療を求めることもできます。しかし、それは例えばアルコールのような禁じられたものから治癒を求めないという条件付きのものです。神は決して、禁じられたものの中に治癒の効果を宿らせることなどありませんでした。
占い師、易者、またはその手のいかなる詐欺師からも治療を求めることは許されていません。そうした者たちは人々を騙し、唯一なる真実の神から彼らを遠ざけ、自らに不可視の知識が備わっていると主張します。また神は、お守りや魔除けを使って病気や怪我から守られようと試みることも禁じられています。あらゆる御力は神のみに属すのであり、治癒や安全を神以外の何かに頼ることは、極めて重大な罪となります。
現世において治療や回復を求めると同時に、精神療法を通して治癒を求めることも重要です。まず、神について前向きな良い考えを持ち、神に対する信仰を確証させ、神の御名と性質について熟考すべきです。神こそは慈悲あまねく慈愛深き御方で、全知なる者なのです。私たちは神の御名によって、私たちの必要とすることを神に呼びかけることを勧められています。
“最も美しい凡ての御名はアッラーに属する。それでこれら(の御名)で、かれを呼びなさい。”(クルアーン7:180)
神は私たちを試練や苦難だけに晒されたのではなく、指針と共に苦悩に対する最も強力な武器である、想念・祈願・礼拝の言葉としてのクルアーンを授けられました3。21世紀の現代において、私たちは伝統的な精神療法の代わりに医療扶助に頼るようになりましたが、それら双方をうまく組み合わせることによって非常に迅速な効果がもたらされる場合があります。時に病気や怪我は慢性的なものともなりますが、不健康は精神的な洞察をもたらすこともあります。
重病や障害を負ってしまった人々が、それらの状態について神に感謝したり、苦痛や災難が彼らの生活に祝福と善をもたらしたことについて語ることを耳にしたことはあるでしょうか。私たちが孤独や不安を感じているとき、頼ることが出来るのは神だけです。苦痛や災難が耐え難いものとなり、恐怖と惨めさに支配されてしまったとき、私たちが手を伸ばす、救済をもたらすことの出来る唯一の対象は神だけなのです。神への完全な信頼と服従は、信仰の甘美さとして知られる、幸福感や自由感をもたらします。それは安寧と平穏であり、善と悪を含む、現世のもたらすあらゆる状況を人に受け入れさせます。
最後に、病気や怪我は神による浄化ともなり得ることの理解が重要となります。人は完全ではなく、過ちを犯し、悪行を働き、意図的に神の戒律に反すことすらあるからです。
“あなたがたに降りかかるどんな不幸も、あなたがたの手が稼いだものである。それでもかれは、(その)多くを赦される。”(クルアーン42:30)
神の慈悲は、決してみくびるべきものではありません。神は、私たちが神ご自身から赦しを乞うよう述べています。預言者ムハンマドは、私たちが神の赦しを求めるのを神がお待ちになっていることについて述べています。大地を暗闇が覆い隠す夜の最後の部分で、神は天の最下層まで降りてきて、そのしもべたちにこう問いかけるのです。「われにそれを叶えてもらえるよう、われに祈りを捧げている者は誰か。われにそれを与えてもらえるよう、われから何かを求めている者は誰か。われに赦されるよう、われの赦しを乞い願っている者は誰か。」4
不幸や苦痛、災難は、私たち自身の行為から来る場合も多々あります。私たちは罪を犯すことを選びますが、神は私たちの健康や富、愛する人々の喪失によって私たちを浄化されるのです。現世で今、苦難を受けることは、それを永久に受け続けるのではないことを意味することもあり、またすべての痛みや苦悩は、天国においてより高い地位を得ることを意味することもあるのです。
神は、なぜ悪人に善いことが起きたり、善人に悪いことが起きるのかという英知をご存知です。一般的に、私たちが神に立ち返ることは、その理由が何であれ善いことです。危機的状況において人は神を求めますが、隆盛においてはそれがどこから来ているのかについて忘れてしまいます。神こそが供給者であり、最も寛大な御方なのです。神は私たちが永遠の命という報奨を受けることをお望みになり、もしも苦痛や災難が天国を保証するのであれば、病気や怪我は祝福に他ならないのです。預言者ムハンマドはこう述べています。「もしも神が誰かに善きことをお望みになれば、その人物を試練にかけて悩ませるのである。」5
病気にかかったときの最善の行為とは、神に感謝し、神のご満悦を得ようと努力し、医療扶助を求め、神が私たちに授けてくださった祝福の数々を思い起こすことなのです。
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