キャサリン・ブロック カナダ出身の元キリスト教徒(下)
説明: 真理を見出す努力の末、彼女はイスラーム改宗へと導かれます。
- より キャサリン・ブロック
- 掲載日時 22 Jun 2015
- 編集日時 22 Jun 2015
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私はあの身軽さをまた感じ、ひょっとするとやはり神は存在しているのではないかと思いました。慎重に人生の出来事を検証してみると、偶然や運が神による祝福であったものの、私はそれに気づかず感謝すらしていませんでした。私自身は忠実でなかったにも関わらず、神は常に優しくしてくれていたのです。私の耳と足はお清めによる洗浄によって心地さを感じていました。それは私を清め、神への礼拝をできるようにするものです。
神は実に素晴らしき存在です。私は畏敬と驚異の念を抱き、平穏を感じました。どうか正しき道をお示し下さい。「世界は偶然の産物にしては複雑過ぎ、美し過ぎ、調和を保ち過ぎではないの?」「それは進化の過程の産物ということを盲目的に信じてしまっていいの?」「科学は神への信仰へ立ち返りつつあることを知らないの?」「そもそも科学とイスラームはお互いを否定すらしていないことも知らないの?」・・・私は自分の空想の中の陪審員に腹を立てました。彼らはこうしたことすら調べていないのでしょうか?
ひょっとすると、これは最も決定的な道なのかもしれません。ラジオのインタビューである物理学者が、いかに近代科学が19世紀の物質主義的な仮定を棄てたこと、そしてとても多くの現象が、知的設計論なくしては全く説明のできないという見解を持っていることを説明していたのを覚えています。科学の実験は単なる物理的現象の消極的な観察ではなく、観察は物理的現象の発生を可変するものであり、それゆえ知性が宇宙における最も原理的な法則であるかに見えました。
私はさらに読みました。実質的に進化論を依然として信じているのは、頑固な人類学者だけで、彼らは失職することへの恐れから、誰もそのことを声高に指摘しないということを発見しました。私のジグソーパズルは崩れ始めました。
「じゃあ、あなたは神が存在するということに決めたのね。あなたは一神教徒だった。でもキリスト教も一神教なのよ。それをあなたは受け継いでいるの。なぜ棄教するの?」まだこれらの疑問は払拭できていませんでした。「でも、あなたはこれが最も回答の簡単な問題だということを理解しなくちゃならないのよ。」私はにこりと笑いました。
バイブルは科学に反しているものの、クルアーンは違っていることを知りました。私はバイブルの物語を文字通り解釈したかったものの、そうすることはできないと知りました。科学的事実は、バイブルの記述を反証します。しかし、科学的事実はクルアーンの記述を反証するどころか、ときには説明の付かないクルアーンの章句を説明すらします。それには驚愕しました。
河川の水が海に流れ込む際、海水とは混ざらないという記述の章句がありますが、そこでは的確な説明がされている上に、惑星の軌道についても言及されています。7世紀の科学は、これらのことについて全く無知でした。ムハンマドの比類なき叡智はどういったことなのでしょうか? 私の心はクルアーンへと惹かれていましたが、私は抵抗しました。
私は再び教会に通い始めたものの、行くたびに涙を流すことになりました。私にとってキリスト教は辛いものでしかありませんでした。たくさんのことが理にかないませんでした。三位一体論、イエスが神の化身という概念、神へ直接ではなくマリア、聖人、イエスを通して崇拝することなどが代表的なものです。聖職者は、神について考える時は理性を棄てなさいと言いました。三位一体論は理にかなわないのはもちろんのこと、そうなるよう設計されたものでもありません。私はさらに掘り下げてみました。最終的には自分の文化、伝統、家族を棄てることなどできっこないと思いました。そんなことをすれば、誰一人として理解しようとはしないでしょうし、私は孤立してしまいます。ただ良きキリスト教徒であるよう努めるべきかも知れないと思いました。
私はさらに多くを学ぼうと心がけました。復活祭がイエスの死から数百年後に制定されたものであるということ、またイエス自身は一度たりとも神の化身などと主張したりせず、たびたび「人の子」であると言っており、三位一体の教義もイエス後300年経ってつくられたものであること。さらに私が毎週、一語一句に集中しつつ信仰深く唱えていたニカイア信経が、イエスが神の子であるという立場を政治的に確定させる少数派の会合によって書き記されたものであるということを知りました。そこでは、イエスが神の使徒であるという多数派の見解が、永久に抹消されたのです。
私は怒りを抑えることができませんでした。なぜ教会はこういったことを教えてくれなかったのでしょうか。まあ、その理由はわかっています。人々は、どこでも神を崇拝することができると理解しており、そこでの崇拝は理にかなったものだからです。私は3つの神ではなく、父でも子でも聖霊でも、主イエスや聖人やマリアでもない唯一の神を崇拝しました。ムハンマドが真の使徒であり、クルアーンは神の言葉ということはあり得るのでしょうか? 私はクルアーンを読み続けました。
そこには、楽園追放の責任はイヴだけにあるのではないこと、イエスが使徒であること、不信仰者は信仰者を嘲笑うこと、人々はムハンマドに下された啓示の正統性を疑うものの、それと同等の信頼性・安定性・合理性のあることを書こうとしても失敗に終わることなどが記されていました。それらは真実だと思いました。イスラームは神について考察する際には知性を駆使することを求め、知識の探求を勧め、信仰する者(ユダヤ教徒/キリスト教徒/ムスリム等)は報奨を受けると告げます。それは至極包括的な宗教に見えました。私たちは再び立ち上がり、両手を両膝に置いて屈みこみ、お辞儀の姿勢を取りました。他にも何か神に言えることはないでしょうか? 礼拝はとても短く感じられたため、十分に言えることを考えられませんでした。
一連の動作で息切れしてきたため、依然として鼻をすすりながらも、呼吸を整えようとしました。「あなたは本当に女性を2級市民に貶める宗教に私が入信するとでも思っているのですか?」私への尋問者に対し、私は返答を要求します。ムスリム諸国では欧米諸国同様、多くの女性虐待が行われているものの、それは真のイスラームではありません。そしてベール問題を取り上げないで下さい。女性がヒジャーブをまとうのは、神がそう求めているのだということを知らないのですか? 彼女たちは神の言葉を信じているからそうするのです。
しかしながら、ヒジャーブを着ける勇気をどうやって奮い立たせるべきでしょうか? 私は周囲から際立ち、人々から凝視されてしまうでしょう。私は外出の時には極力目立たないよう努める性格です。もしも友人たちに見つかってしまったら、一体彼らは何と言ってくるでしょうか? ああ神よ、お助け下さい!
私は変化の瀬戸際に数ヶ月もの間に渡って留まり続け、ジレンマは日に日に強くなっていきました。どうすべきなのでしょうか? 古い人生を棄て、新しいものを始めるべきでしょうか? しかし、私にとって公の場でヒジャーブを着けることは不可能です。人々から凝視されてしまうでしょう。私は神によってもたらされた分岐路に立っています。私には、知性と共に心地よく同居する新たな知識があります。確信に従うべきでしょうか、それとも古き道に留まるべきでしょうか? 人生において異なる見晴らしを持った時、留まることなどできるのでしょうか? 新たな一歩が耐え難く大きなものに映る時、いかに変わることができるのでしょうか?
改宗に必要な言葉を練習してみたりもしました。「唯一なる真実の神以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」とてもシンプルで、私はそれを信じています。ならば改宗すれば良いものなのですが、私は抵抗しました。毎日毎日、私は終わりのない輪の中をくるくると回っていました。神は分岐路の片方で待ち構えていました。「キャサリンよ、来るのだ。私はここまであなたを連れてきたが、ここを渡るのはあなた一人でなければならない。」私は夜、車のライトに照らされて身動きできなくなったカンガルーのように静止して動けず、立ちすくんでいました。そして遂にある夜、神は最後のひと押しをくれました。私は夫とモスクの前を通りかかりました。耐え難いような感情が湧き上がりました。私の中の声は言いました。「今改宗しなければ、もう決して改宗のチャンスはないのよ。」それは本当だろうと思いました。「よし、やろうじゃないか。もしも彼らがモスクに入れてくれたなら、やってやろう。」しかしそこには誰もいませんでした。私はモスクの外の木の下でシャハーダを言いました。私は待ちました。私は即時の安寧、雷鳴のとどろきと、濃霧の晴れ渡りを期待しましたが、それはやってきませんでした。
以前と全く同じ感覚でした。私たちは再び跪きました。ここからは世界が非常に異なって見えます。有名なフットボール選手もこのように跪いていたなと、礼拝用敷物に垂れたヒジャーブの切れ端を見ながら思いました。私たちは皆同じで、神の御前に等しく謙虚になります。そしてまっすぐに座ると、礼拝の先導者は何かの言葉をつぶやき、右手の人差し指を空で動かしています。私は再び敷物へと目をやりました。礼拝用敷物の緑、紫と黒の色調が安心させました。
モスクの入り口の黒色は私にこう告げます。「私はここにいます、落ち着いていれば私は見つかりますよ。」私の頬の涙は渇き、皮膚が引き締まった感じがします。私はここで何をしているのでしょうか? 親愛なる神よ。私がここにいるのは私があなたを信じているからで、私はクルアーンの力強く威厳のある言葉を信じ、あなたの使徒ムハンマドの預言者性を信じているからです。私は心の中で、自分の選択肢が正しいものであるということを確信しています。私が強き信仰心によってあなたに良く仕え、この新たな自分と人生を歩み続けることのできる勇気をお与え下さい。私は笑顔と共に立ち上がり、礼拝用敷物を2つに折りたたみ、なめらかな緑色の確信との次回の出会いまでそれをソファーの上に待機させました。その時、濃霧は晴れ渡り始めたのです。
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