イスラームにおける悲しみの対処(1/5)
説明: なぜ悪いことは起こるのでしょうか? クルアーン的観点から見ていきます。
- より J.ハーシミー
- 掲載日時 05 Aug 2013
- 編集日時 09 Jun 2014
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戦争、飢饉、苦しみ。新聞が、世界中で起きている悲惨な出来事を報道しない日はありません。個人レベルにおいても、多くの人々は毎日の生活の中で悲しみと憂鬱を抱えて生きています。愛する人の死、経済的苦境、夫婦間の確執。なぜ神は人々に悪いことをお望みになるのでしょうか? この命題は、多くの宗教の信仰者たちが何百年にも渡って抱き続けてきたものです。これは信仰に対する最も大きな障害の一つであり、それにより数え切れない程の人々が神への信仰を完全に捨て去ることにつながりました。
有神論者たちは様々な方法で、神と悪との融合を試みてきました。ある多神教徒たちは、神は悪を嫌うものの、それを防ぐ力を持たないと主張しました。この概念は、神の地位が全能者(アル=アズィーズ)、至大者(アル=ジャッバール)、至強者(アル=カウィー)、万能者(アル=カディール)であるとするクルアーンによって否定されています。また一部の者たちは、神が悪を取り除く力を持ちつつも、悪がいつどこで起きるかを知らないとします。この概念は、火事によって建物の大半が延焼してしまった後にやってくる消防士のような地位に神を貶め、全知者(アル=アリーム)、全視者(アル=バスィール)、全聴者(アッ=サミーウ)、支配者(アル=マリク)としてクルアーンにおいて神の名は記されていることからも、到底受け入れられる主張ではありません。事実、もし神が地上のすべての悪を取り除こうと思われたのであれば、それを阻むものは何一つなく、神の御力に疑心を抱くことは冒涜であるとみなされます。
多神教は、更なる仮説を採用します。それは神は善良ながらも、他の悪い神々が神の善性を抑え、地上に腐敗を蔓延させている、というものです。それゆえ神は、それらの神々との抗争を強いられているとします。おそらくサタンが対抗の神で、神と常に争う地位にあるとしているのでしょう。この複数の神の概念は、クルアーンにおいて完全に否定されています。クルアーンでは神のことを、唯一なる御方(アル=ワーヒド)、唯一無二の者(アル=アハド)、第一の者(アル=アウワル)、最後の者(アル=アーヒル)と呼びます。クルアーンは唯一なる神の他に神はないと強調します。
“あなたがたの神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン2:163)
これと同じような1,000以上の節々によって、複数の神を信じることは不可能となっています。究極の神とは、まさに唯一無二なのです。
古代グノーシス派は、世界の悪と神との関係性に困難を見出すあまり、神そのものが悪であるとさえ結論付けしました。この主張をする人々は、神が全能であるのと同時に慈愛あまねき者であることは不可能だとします。もし神にすべての悪を取り除くことが出来るのに関わらずそうしないのであれば、かれは悪である必要があるというのです。この概念はクルアーンにおいて無条件に否定されます。クルアーンでは、神が寵愛する者(アル=ワドゥード)、最も優しい者(アル=バッル)、最も寛大な者(アル=カリーム)であると宣言します。またクルアーンでは、神が慈愛深き者(アッ=ラヒーム)、慈悲あまねき者(アッ=ラフマーン)、最も寛容な者(アル=ガッファール)、絶えず恩寵を施す主(ズー・アル=ファドル・アル=アズィーム)、そして平安と安定の究極の源泉(アッ=サラーム)であると言及しています。
このように、クルアーンは神が全能かつ寵愛する者であると断言しています。では、この世界に悪が蔓延していることから、それら2つの性質はどのように調和するのでしょうか? イスラーム的観点では、神はより大きな善を達成するために悪の発生を引き起こすとします。神がそのしもべを苦しめるのは、かれの望むような人物像に人々を形成するためです。苦しみによって、人々は永続する性質を養います。それは逆境における確固とした忍耐、そして謙虚な心と従順性です。また、より重要なこととして、苦しみは人々を神へと立ち向かせます。それは真の信仰者と偽者とをふるいにかけ、識別するのです。
人は苦しみによって神を想念する
人間には、物事が順調なときには神を忘れ、苦境や災難に見舞われたときには神を思い起こす傾向があります。クルアーンでは、それが船乗りに譬えられます。順風満帆のとき、乗組員たちは神を想念しませんが、風が船を転覆させようとするものなら、彼らは急に神へと真摯に祈り出すのです。クルアーンはこう述べます。
“主こそは船をあなたがたのため海に航行させ、かれの恩恵を求めさせる方である。本当にかれは、あなたがたに対しいつも慈悲深くあられる。あなたがたが海上で災難にあうと、かれ以外にあなたがたが祈るものは見捨てる。だがかれが陸に救って下さると、あなたがたは背き去る。人間はいつも恩を忘れる。”(クルアーン17:66−67)
このたとえは、私たちの日常生活においても適用することが出来ます。人は経済的に豊かだと神を忘れがちですが、仕事を解雇されたりすれば、たちまち神の助けを求めるようになります。預言者ムハンマドが神の教えを布教したとき、彼に従った多くは貧者や奴隷たちでした。一方で、マッカの裕福層は信仰とはかけ離れた生活を続けました。俳優、歌手などの有名人を含む富裕層も、不信心な暮らしをすることで知られています。貧しく困窮した人々は、より神へと依存するのです。このことは、困窮が必ずしも悪いことではなく、また裕福であることも必ずしも善いことではないことを意味します。神はクルアーンの中でこう述べます。
“自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。”(クルアーン2:216)
これらのことは、人の心理状態に関わることです。人は幸運に恵まれると神を忘れ、不遇の中では神を思い起こします。そのため、神は試練や苦難によって私たちを苦しめ、私たちがかれに立ち返り、かれの恩寵を求めさせるのです。一体どれ程の人々が苦しみの上に苦しみを重ねられた後、神に立ち返り、イスラームに導かれたことでしょうか? 例えば、良い意図を持った政治家が、ひとたび権力に着くと、制度によって腐敗してしまう場合があります。やがて彼は賄賂の受け渡しをするようになり、裕福な政治家として贅沢三昧で不信仰な生活を送るようになります。そして神により、彼は突然逮捕され、すべての富を失い、妻にも去られ、彼は獄中でもがき苦しみます。自らの損得について熟考した彼は、最終的に神へと立ち返るのです。こうして、より大きな善いことが彼にもたらされるため、悪いことが起きたのです。彼は成功していたかに見えましたが、実際は地獄に向かっており、神が彼を困難によって苦しめたとき、彼は正しい道を歩み始めました。獄中での一時の苦しみは、永久の楽園に対して支払う僅かな代償に過ぎなかったのです。結論として、善良な人々に悪いことが起きるのは、長期的な視点からは、より善いことがもたらされるための神の計らいなのです。
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